他人のアドバイスに従うべきではない理由を徹底解説!他人の意見を素直に受け入れる人間が優れているというのは本当か?

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他人の意見など全くあてにならない!!!!!

他人のアドバイスに従うべきではない理由を徹底解説!他人の意見を素直に受け入れる人間が優れているというのは本当か?

・他人のアドバイスに従った方がいいと言うのは本当か?
・他人の意見の目的は、自分を可愛がり自分を守ること
・全ての人間の意見は自分自身の心を守るために
・善良に聞こえる言葉で他人を操ろうとしてくる者たち
・他人の意見やアドバイスには耳を傾ける価値がない
・人間社会は“常識”を利用して都合のいい人間を育て上げる
・他人の意見に流されると他人を恨む人生が形成される

・他人のアドバイスに従った方がいいと言うのは本当か?

人間というものは、自分のことをきちんと把握するのが苦手な生き物だ。人は誰でも自分というものが最も可愛いので、他人には厳しくても自分には甘く採点してしまい、自分のこととなるとどうしても適切な判断ができない傾向にあるだろう。

そんな時に当てになると世間で言われているのが“他人の意見”だ。自分ではない人から見て自分のことを判断してもらうことで、客観的で建設的な意見を聞ける可能性は高まるだろう。自分というものを見失ってしまった時は、自分ではなく他人の意見を尊重することで解決策が見出せる場合もあるかもしれない。

逆に他人の意見をあまり聞かない、他人の意見を素直に受け入れない、他人のアドバイスを参考にしない種類の人間というものは、人間社会で軽蔑され敬遠される傾向にあるだろう。その人のことを思ってちゃんとアドバイスしてあげていても、全く聞く耳を持たないのでは愛想を尽かされてしまうのも無理はない。そのような人は自我の強い人、自己中心的な人、わがままな人として嫌われる確率が格段に高くなるだろう。

では本当に世間の常識通り、自分の意見を信じて押し通す人は愚鈍で、他人の意見を素直に受け入れてアドバイスに従うような人間の方が優れているのだろうか。

 

 

・他人の意見の目的は、自分を可愛がり自分を守ること

ぼくが今まで人生を生きてきて感じたのは、他人の意見ほど当てにならないものはないということだ。自分が他人に意見を言ったり、アドバイスをしたりする場合を思い返してみても、やはり人間の意見なんてろくでもないものだろうと思わざるを得ない。結局みんな自分を可愛がったり、自分が正しいのだと思いたかったり、自分を庇いたいという主観的な気持ちの前提があって、他人にアドバイスしてしまうのではないだろうか。

例えば車を持っている人と車を持っていない人が、生活するには車が必要かどうかを議論したとする。車を持っている人はせっかく高いお金を払って車を購入したのだから、その大きな出費を無駄だったとは絶対に思いたくなくて、自分が車を買ったのは正しかったのだと信じ込むために、車を持つことの素晴らしさを様々に主張するだろう(車があればいつでもどこでも行けて自由になれる、車がなければ行けない場所はこの世にたくさんあるなど)。

また車を持っていない人は車を買うだけの財力がないことで惨めな思いをしたくないから、車を持たないための数多くの合理的なもっともらしい意見を振りかざしながら(都会では車なしでどこでも行ける、駐車場代などの維持費が高すぎて効率が悪いなど)、そういう理由で自分は車が買えないんじゃなくて敢えて車を所持しないのだと負け惜しみの気配を漂わせつつ主張するだろう。

要するにどちらも自分を守りたい、自分を可愛がりたいのだという気持ちが優先し、中立でまともな議論は成り立ちにくいということだ。これはこの一例にとどまらず、どのような議題に関しても大体同じような思惑が隠れているのではないだろうか。

 

・全ての人間の意見は自分自身の心を守るために

「男に生まれた方がいいか、女に生まれた方がいいか」というのもよくある議題のひとつだが、これほど無意味なものはないだろう。「男に生まれた方がいいか、女に生まれた方がいいか」の答えを出すためには、本来ならまず両方の性別をきちんと経験してから、その上で男の人生と女の人生の思い出を比較しながら注意深く検討すべきだ。しかし実際にはそんなことできやしない。ぼくたちは男に生まれれば男の人生だけを、女に生まれれば女の人生だけを経験するしか選択肢がないからだ。たったひとつの性別しか実際に経験できないくせに、両性の比較議論などできるだろうか、いやできない(反語)。

もしかしたら今生では男だったけれど、輪廻転生で来世に女になれる確率もなきにしもあらずだが、その場合にだって前世の男だった頃の記憶を保ちながら女の人生を生きることは不可能だと思われるから、実質的に両性だった経験を踏まえて「男に生まれた方がいいか、女に生まれた方がいいか」を適切に議論できる人はこの世にいないだろう。

このような議題の場合でも、男は男の人生しか歩めないし、女は女でしか生きていけないのだから、自らの人生を正当化して自分自身の心を守りたくて、男はよく知らない女の人生を見下しつつ男に生まれた方がよかったに決まっていると主張するし、女は経験したこともないような男の人生を蔑みつつ女の人生の方が素晴らしいと内心では感じる傾向が強いだろう。

もしくは自分の人生がうまくいっていない場合や自分の人生に対して不満を抱いている場合、どうしてもそれを自分自身の能力のせいにはしたくなくて、本来関係のない「性別」のせいにすれば都合がいいと考え、自分が男じゃなくて女だったらもっとうまく生きられたのにとか、自分が女だったせいで全てがうまくいかないから男に生まれればよかったのになどという思考回路に陥り、異性の方がいい人生だと主張するケースも出現し得るだろう。要するに全ての人間の意見は「自分を可愛がりたい」「自分の心を守りたい」という本能に帰着し、まともで適切でニュートラルな意見などこの世に存在しないのではないだろうか。

 

・善良に聞こえる言葉で他人を操ろうとしてくる者たち

また「あなたのためを思って言っているの」などと言いながらアドバイスしてくるような人物も要注意だ。そういう種類の人間はぼくたちをうまくコントロールしようとして、されど自分が意図的に他人を操ろうとするような姑息な悪者になる度胸もなく、善人を装って正しさの鎧を着て、自分の評価を落とすことなく他人を支配しようと画策する小賢しい性格の持ち主である可能性が高い。

「あなたのためを思って言っているの」などと言われたならば、即座に「余計なお世話だ」と突き返すほどの毅然とした対応が最も望ましいと思われる。他人の思い通り、意図通りに生きてやる余裕があるほどに人生は長くないからだ。不満や違和感を抱きながら他人の言う通りに生きて後悔するくらいなら、いっそ他人の意見など振り払いながら颯爽と自らの直感に従って生きていく方が幸福だし快適だろう。

しかし実際には世の中で「余計なお世話だ」などと強く言い放てない状況がいくらでもあると言うのは百も承知の上だし、その辺が社会で生きていく難しさだ。人間の意見や主張は、自分を可愛がり守るためだけではなく、自分の都合のいい方角へと物事を運ぶための単なる道具となっている可能性も高い。

 

・他人の意見やアドバイスには耳を傾ける価値がない

誰もが自分を可愛がりたい、自分自身の心を守りたいと願い、意見や主張をふりかざすのは、自分というこの存在を最も大切に扱いながら生きていかなければならないという動物的本能を宿された人間としては当然の行動だ。さらに自分の身を守るだけでは飽き足らず、正しさの影に隠れて他人を操ることで、自分が生きていきやすい都合のいい環境を整えてやろうとするための道具としての意見や主張というのも存在する。人間の意見や主張というものは心から他人のためになるように願っていることなどほとんどなく、そのほとんどは自分を守り自分が生きていきやすいように他人の心や世の中を調整するための媒介に過ぎない。

だからこそ、他人の意見などむやみやたらと受け入れず、他人の意見をなるべく無視して、自らの直感や本能に従って生きていくための勇気と度胸を持つことが重要だ。もちろんある特定の専門分野に関することならその専門家の意見を重視すべきだが、そうではなく正しさや間違いなどの浅はかな次元に収まらないような、自分の人生の重要な決断に関わる場合には、自分自身の根源から訪れる直感を頼りに突き進んでいくしかないのではないだろうか。

あなた以上に、あなたを愛している人はこの世にいない。どんなに他人があなたを愛していると主張しても、それはあなたがあなたを愛するほどの壮大さにははるかに事足りないだろう。

 

 

・人間社会は“常識”を利用して都合のいい人間を育て上げる

他人の意見をあまり聞かない、他人の意見を素直に受け入れない、他人のアドバイスを参考にしない種類の人間が世の中で嫌われやすいのも、それはその人が間違った態度を取っているでは決してなく、世の中がその人を操りにくく、世の中にとって都合の悪い存在であるからに他ならない。世の中に操られにくいということは、その人がその人自身の人生をしっかりと歩んでいるという証なので、むしろ誇らしいことではないだろうか。

世の中はなんとかして人間を支配しよう、操ろうと企んでくるものだ。そしてその道具として「常識」が使われる可能性が高い。「他人の意見やアドバイスをきちんと受け入れ、聞き入れる人は素晴らしい人間だ」という世の中の常識を何も考えずにただなんとなく鵜呑みにしてしまうと、操られ搾取されるだけの虚しい人生が出来上がるだろう。

 

 

・他人の意見に流されると他人を恨む人生が形成される

また他人の意見やアドバイス通りに行動していると、何か失敗した時に他人のせいにしてしまう精神構造が育ってしまうことが何よりもよくない。自分の失敗や過ちや不運を他人のせいにするクセがついてしまうと、他人を恨み続けるような寂しく愚かしい人生を送ることになってしまうだろう。

重要なことは、何もかも自分のせいにできるような状況に身を置いておくことだ。失敗しても過ちを犯しても、全て自分自身のせいにできれば一切の悔いはない。自分で選択したのだから仕方ないと爽やかに諦めて前を向き、また新たな決断を自分自身でくだせるような尊いエナジーを回復させることができるだろう。あの時あの人の言うことを聞かなければよかったと深く後悔しながら他人を恨み続けて生きていくよりも、何もかも自分の責任にできるような骨のある土着的な人生を形成する方が幸福への道筋は固まるだろう。

何もかも自分で選んで突き進むことは確かに恐ろしい。それは何が起きても決して誰のせいにもできないからだ。しかし人生は何もかも自分で背負ってこそ本来の価値が発揮されるし、あらゆる危険を乗り越えた先に見える風景がぼくたちに教えてくれる生きる意味はかけがえのない澪標になるだろう。ぼくたちは安全に傷付かず痛まないために生まれてきたわけじゃない。傷ついてでも、傷んででも、魂を滅ぼされてでも、その先にしか見えない浄土を求めて旅を続けていくはずだ。

 

 

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