男女差別の例をちびまる子ちゃんで徹底解説!男女差別をしてはいけないというのは本当か?

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偽りの正しさを、その目で見抜け。

男女差別の例をちびまる子ちゃんで徹底解説!男女差別をしてはいけないというのは本当か?

・男と女はどのように違うのだろうか
・ちびまる子ちゃん「女の子・男の子」の回に、男女差別の例を見出す
・ちびまる子ちゃん「女の子・男の子」における差別的視点まとめ
・男女はお互いが理解できないからこそ、お互いを馬鹿と見なす傾向がある
・男には男の性格的傾向が、女には女の性格的傾向がある
・「偏見」や「差別」は男女がお互いに歩み寄ろうとする努力の結果だ
・「男女差別」という偽りの正しさが、社会を分断し混乱させている
・ぼくたちは思考停止した偽物の正しさに侵されて、豊かな表現を制限されている

・男と女はどのように違うのだろうか

「男女差別」はダメだと世の中で言われて久しいが、そもそも男と女にはどのような特性や違いがあって、お互いを差別し合っているのだろうか。男が女をどう思っているか、女が男をどう思っているのかを知るためにとてもよい題材を、アニメちびまる子ちゃんの中に見出すことができた。

ちびまる子ちゃんの「女の子・男の子」という回の中では、お馴染みのさくら家の家族団欒の場面で男はどういう性質を持っているのか、女はどういう特徴を持っているのかの様々な意見が噴出し、家族の中で議論が交わされている。その家族団欒の一部始終を見てみよう。

 

 

・ちびまる子ちゃん「女の子・男の子」の回に、男女差別の例を見出す

議論はまる子のお母さんが美容院に行って髪型を変え、まるで博士が実験に失敗したかのようなものすごく変な髪型になってしまったことをきっかけとして始まる。そのとてつもなく変な髪型を見て、夫のひろしは「女っていうのはどうして馬鹿なものに金を使うんだろうなぁ!」と呆れてしまう。

すると間髪入れずまる子が「男だってしょうもないものにお金を使うじゃない!酒や博打で女を困らす人だって多いじゃない?」と男にだって欠点があることを主張すると、ひろしは「ばかやろう!男にはいろいろロマンがあるんだ!」と反論する。するとおじいちゃんが「そうじゃ、マロンじゃ!」と栗と間違えてボケる。

ひろしは「だいたい俺は子供だって男の子が欲しかったんだ。女なんてつまんねぇよ!」と女2人しか生まれなかったことが残念だったということを暴露する。するとまる子は怒って「男子なんてものすごく馬鹿なんだよ!今日だってはまじなんかカニのハサミで”チンポチョッキン”なんてやってたし、花輪くんなんてヘーイベイビーぼくはここさ〜なんていつもやってるし、ブー太郎なんて本当の豚そっくりでブーなんて言うんだよ!女子にはそんな馬鹿ひとりもいないよ!」と反撃する。

お姉ちゃんも加勢して「そうそう、私のクラスでも馬鹿馬鹿しいのはみんな男子よ!女子の方がよっぽどしっかりしてるわよ!」と主張する。ひろしは「へん!俺は男の子供と一緒に釣りに行ったり酒を飲んだりしたかったんでい!女なんてな、嫁に行っちまうんだ。俺と一緒の名字じゃなくなっちまうんだぞ!」と胸の内を明かし「とにかく男はさっぱりしているからいいんだ。女はウジウジしつこくてダメだ!」と主張する。

それに対してまる子は「そんなことない!永沢君なんて半年前に私に貸したシャーペンの芯1本のことまだ覚えてて、今日催促してきたんだよ!全然さっぱりしてないよ!」と反論する。ひろしはそれを聞いて「それはお前が返さないから悪い!」ともっともらしいことを述べるが、お姉ちゃんとお母さんは「半年前はちょっとしつこい!」「男の子なのにねー」と呆れる。

結局その後永沢君から電話がかかってきて「半年前に貸したシャーペンの芯のことをさくらさんが忘れないように念のため電話した」と言っているのを聞いて、ひろしはこんなウジウジした男だったら子供が女でよかったと思うのだった。

 

・ちびまる子ちゃん「女の子・男の子」における差別的視点まとめ

この回には様々な男女に関する偏見や差別的視点が垣間見られて興味深い。まとめると次のような差別的視点が見受けられるように思われる。

 

男から女に対する差別的視点

女は美容などどうでもいいことや馬鹿なことにお金を使う
女の子供は男のロマンを共有できないからつまんない
男はさっぱりしている一方で、女はウジウジしていてしつこい

女から男に対する差別的視点

男というのは馬鹿な生き物だ、女の方がしっかりしていて賢い
男は酒や博打をして女を困らせがちだ
男なのにウジウジするのはみっともない

 

・男女はお互いが理解できないからこそ、お互いを馬鹿と見なす傾向がある

このちびまる子ちゃん「女の子・男の子」の回の意見を聞き、皆さんは何を感じだろうか。

興味深いのは、男も女を馬鹿だと思っているし、女も男を馬鹿だと思っているということだ。人間という生き物が「男」と「女」に大別されて、それぞれがそれぞれに特徴や役割を持っており、当然そこには異なった部分や違いが生まれる。肉体ばかりでなく精神構造すらあまりに異なっているので、男は女のことがよくわからないし、女は男のことがよくわからない。だからこそお互いに恐れを抱き、理解不能となり、その理解できないというもどかしい感情が「異性は馬鹿だ」という意見へと結びつくのだろうと、ぼくは予測する。

だけどそれでいいのではないだろうか。別々の生き物なのだから、わからないものはわからないのだ。それを無理に理解しようと務めたり、深部へと入り込もうとすると無理や亀裂が生じ、心が不安定になってしまう。重要なのはわからないものはわからないのだと開き直り、わからないなりに理解すべき場面では理解しようと傾聴し、その結果としてうまく折り合いをつけながらわからない者同士で協力し合うことではないだろうか。

異なる者同士、完全に理解し合うことは絶対に不可能なのだから、それならばそのお互いのわからなさを楽しむことも、人生の妙ではないだろうか。最近はなんでも理解することこそが正しい、分かり合うことこそが素晴らしいという風潮が見受けられるが、それは人の世の情緒というものを感じられないくだらない意見だとぼくは感じる。わからないものに触れる神聖な気持ちや、計り知れぬものに接する美しい瞬間を、彼らは全く経験しないのだろう。もしくはそのような感性を享受する受容体を持たずに、学校の勉強のように問題集を解き、理解し、既定の正解を導き出すことこそが人生の目的だと固く信じ込んでいるのだろうか。

学校で配られる物質の問題集のように正解などない、世界に散りばめられた美しい不思議な問題集に触れるという情緒を、そして正解などなく理解できないからこそどこまでも追求できるという尊さを、彼らは知らないに違いない。

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・男には男の性格的傾向が、女には女の性格的傾向がある

またその肉体的相違や脳の構造の違いから、男はこのような性格になりがちだ、女はこのような性格になる傾向があるという固定のイメージが人間の中にはあるのかもしれない。今回のちびまる子ちゃん「女の子・男の子」の例では、それが「男はさっぱりしている、女はウジウジとしつこい」という形で表現されている。果たして本当に男はさっぱりしていて、女はウジウジとしつこいのだろうか。

これに関しては、人によるだろうとしか思えないのが正直なところだ。「女の子・男の子」の中でも、男である永沢君がかなりウジウジとしていてしつこいという反例を出すことで、全ての男がさっぱりしているわけではないことを示唆している。しかしお母さんが「男の子のくせに永沢君はウジウジとしつこい」と非難したことは、男というものはウジウジとしない性質の生き物だ、ウジウジとしつこいのは女性の傾向だということを暗に示していて興味深い。彼女は自分が女であるにもかかわらず、女の方がウジウジとしつこいということを暗に表現してしまい、墓穴をほったのだ。

またウジウジとしたイメージのある「嫉妬」という言葉には「女」という文字が2つも入っているのも興味深い。これは「嫉」や「妬」という漢字を発明した古代の民族が、周囲の女性というもの観察して女性は男性と比較して嫉妬深い傾向があると見なしたから、このような意味の漢字をこのような形状として生み出したのかもしれない。また「嫉妬」という漢字や文字が古代中国の社会で採用され、それが否定されることも消滅させられることもなく歴史の波をくぐり抜け、ついには日本にまで到達して日本人の目に触れても納得され、「嫉妬」という漢字が現在に至るまで使われ続けているということは、女性が男性と比較して嫉妬深い傾向があるという観念が、長い歴史の中でもまた国境を超えてでも、普遍的に共有されていたことを示している可能性は否定できない。

まぁどれだけ考察したって結局永沢君のように「人によるよ」と言われればそれまでなのだが、時代も国境も超えた人間の性別としての傾向というのは存在するのかもしれない。

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・「偏見」や「差別」は男女がお互いに歩み寄ろうとする努力の結果だ

この世は男と女でできている。そして当然のように男と女は異なっており、それぞれに特性や特徴がある。男は女にはなれないし、女は男にはなれない。それゆえに男は女のことがよくわからないし、女は男のことがよくわからない。あまりに異なり、あまりに違い、理解できないことが多すぎるので、このようなちびまる子ちゃん「女の子・男の子」の回のような、男はこうだ、女はこうだという議論が人間の世の中でも繰り返されるのだろう。

それはとてもよいことではないだろうか。異なっているからこそ、分かり合えないからこそ、理解できないからこそ、まる子のように家族内でさえ男女に分かれ、性別の特徴についてああだこうだと隠すことなく自分の中の男性像・女性像をもとに意見を交わすことは建設的だ。その結果として100%理解し合えることはないしにしても、できる限り分かり合うように努力し、わからないところはわからないと諦め、妥協点を見出し、その議論を有効活用し、男は男の特性を活かして、女は女の特徴を活かして、それぞれの役割を全うし協力し合って人間の歴史を紡ぎ出していくことは、理想的な人類のあるべき姿ではないだろうか。

ここで重要なのは自分の中の男性像・女性像というものは、大抵「偏見」や「差別」だということだ。女はウジウジしているというひろしの意見も明らかな偏見だし、まる子やお姉ちゃんの男はバカだという意見も明らかな差別だ。しかし実は心の中で誰もがそう思っているのではないだろうか。女は男よりも多少心がウジウジしつこくしているし、小学校の男なんて女よりもはるかにバカバカしいのが多いということは、人間社会を生きていれば誰もが感じている真実だろう。しかしそれを「偏見」だとか「差別」だとか言って悪と決めつけてしまい、そのような発言は許されないとヒステリックに脅されてしまっては、もはや人間は自分の意見を何も言えなくなってしまうのではないだろうか。

「偏見」や「差別」を持っていることは、人間として当たり前のことなのだ。なぜならこの世は男と女に別れていて、男は女のことをよくわからないし、女も男のことをよく知らないし、さぐりさぐりで異性というものをどんな感じの生物か、自分とどう違うのか、どんな傾向があるのか、そういう「偏見」や「差別」を育てて、相違を見出し、自分の中で異性の像を作り上げないと、社会の中でどう接するべきなのかという自分の態度を確立できないからだ。「偏見」や「差別」を見出すことは、相手を貶めるためでは決してなく、異性とうまく協力して人間社会という大きな営みを運営しなければならないという、涙ぐましい協調性の努力なのだ。

それは当然男女どちらもが知っている感覚だろう。男は女に「偏見」や「差別」を抱くことで接し方を見出し、女も男に「偏見」や「差別」を見出すことで対応を学ぶ。男が女をわからないあまり、また女が男をわからないあまり、インターネット上には女心を知りたい男のためのページと、男心を知りたい女のためのページが量産されている。男はこんな感じの生き物!女はこんな感じの考えを持っている!というそれら全てのページは、男や女に対する「偏見」や「差別」で溢れている。しかし誰もがその「偏見」や「差別」を頼りとして、「偏見」や「差別」にすがりつき、異性を理解しようと努力しているのが、人間世界の真実の風景だ。

「偏見」や「差別」が悪だなんて、とんでもない間違った言いがかりである。この世が男と女に分かれている以上、「偏見」や「差別」は当然のように発生する。それを悪だと決めつけ、それを発言するなとまくし立てるなんて、とんでもない政治的抑圧である。ちびまる子ちゃんで家族会議が開かれた通り、みんな異性の文句を言うのが大好きだ。この世には男と女しかおらず、その別々の生物が共存している社会に生きているのだから、異性のことが気になるのは当然である。男は「女っていうものはこういうものだ!」と主張し、女は「男はこういうところがある!」と言い合う。その会話の中には「偏見」と「差別」しか含まれていない。「偏見」や「差別」を主張し合うからこそ、人間社会は刺激的に建設的に回り、お互いへの理解は進んでいくのだ。「偏見」や「差別」という人間として当然の要素を抑圧するということはすなわち、人間社会の停滞を意味する。

 

 

・「男女差別」という偽りの正しさが、社会を分断し混乱させている

「男女差別をしてはいけない!」と騒ぎ立てる人々の目的は、どこにあるのだろう。人間が人間として生きていく限り、男はこういうものだ、女はこういうものだという「偏見」と「差別」を持つことは今まで見てきた通りごく自然な現象だと誰もが知っている。にもかかわらず、そのような当たり前の現象を男女差別という「悪」として固定し、社会を洗脳させ、妨害する行為にどんな意味があるのだろう。いつの時代もどこの国でも、男はこういうものだ、女はこういうものだという内容の会話を、人間は繰り返し議論し、楽しんでいる。その人間として当たり前の風景を「悪」だと決めつけ、抑圧する勢力は何をしたいのだろうか。

ひとつは「男女差別をしない」ことを正義だと世の中に洗脳し、正しさの観念を植え付け、植え付けが完了したところで正しさの陰から正しくないものたちを徹底的に攻撃し、権力を破壊したり世の中を混乱させるための道具に使っているのではないだろうか。「男女差別をしない」ことを正しさだと洗脳すれば、「偏見」や「差別」を攻撃できる。しかし散々見てきたように、「偏見」や「差別」は人間の性質なのだ。つまり誰もが持っているこの性質を、うっかり隠しそびれた隙を狙って、権力を破壊し世の中を混乱へと導いていく。しかしきちんと思考すれば「男女差別をしない」ことが正義だというのが、見当外れのトンチンカンな意見だということがよくわかる。世の中に植え付けられ、洗脳された「正しさ」は、ある人々の野望を遂行するための道具に使われているだけだ。その正しさによって平和へと導かれるのならばよいが、その正しさが導くのが人間の憎しみであるというのなら、その正しさは間違いである。

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また「男女差別」というおかしな言葉が、社会において男と女を分裂させていく方向へと誘導しているという点も見逃せない。「男女差別」という言葉を世の中に植え付けることによって、男は女に関わりたくなくなり、女は男を憎み出し、明らかに男女が分断されている。この世に2つしかない男と女が分断するということはすなわち、社会の分断を意味する。その社会の分断の混乱に乗じて、新しい権力が踏み込んだり、おかしな金儲けが発生したりしてはいないだろうか。「男女差別をしない」という正しさは、ただ社会を分断し、男女の間に憎しみとよそよそしさを生み出しているだけであるのに、これが正義だなどとなぜ信じられるのだろうか。

まるで正義であるかのように見える偽物の正しさほど、見抜きにくいし除去しにくい。ぼくたちが本来の分断せず、どうしようもなく発生する「偏見」と「差別」を認め合い、妥協点を見出し、男女が協力して共生できる社会を取り戻すためには何が必要だろうか。それは怪しい偽りの正しさを見抜き、それを無視する力だけである。みんなが聡明に偽物を無視すれば、偽りの正しさは勢いを無くし、やがて消滅していくだろう。逆に絶対に消えないものは、ぼくたち人間が男女という全く別の生き物と、理解や不理解を混ぜ合わせながらどうしようもないお互いの「偏見」と「差別」の中を泳ぎつつ、共生していくというしかないという事実である。

 

 

・ぼくたちは思考停止した偽物の正しさに侵されて、豊かな表現を制限されている

今のこの世の中で、果たしてちびまる子ちゃん「女の子・男の子」の回を放送できるのだろうか。もしかして「男女差別」だと批判が殺到してできないかもしれない。それは差別がなくなって世の中が改善したことを表しているのだろうか。それとも表現の豊かさを喪失した文化的衰退を示すものだろうか。

ではちびまる子ちゃん「女の子・男の子」が放送できない時代だからと言って、当の人間たちはまる子たちのように「男は馬鹿だ!」「女はウジウジしている!」と思っていないかと言えば、決してそうではないだろう。いつも時代も、どんな国であっても、人々は「男はこうだ!」「女はこうだ!」と決めつけているし、その「偏見」や「差別」は男と女が異なる生き物である限り絶対になくならない。つまり人間たちは変わらずに「男はこうだ!」「女はこうだ!」と心の中で思っているにもかかわらず、それを表現することだけが許されなくなっているということだ。それはすなわち、表現の自由が奪い取られ、言いたいことを言うことが許されない、寛容ではない社会が到来していることを意味する。

ぼくたちは時代が経つにつれて、進化し、住みよい社会を築き上げてきたわけではなく、時代が経ったにもかかわらず、表現を制限され、違いによって見出される豊かな文化が衰退し、生きづらい世の中へと迷い込まされているのだ。迷い込ませているのは誰か。「男女差別反対!」と見当違いに叫ぶ、確立された正しさの陰に隠れ人々を監視し攻撃する、臆病で卑怯な種類の人間たちである。

さらに間違った植え付けは、ぼくたちを嘘つきにもする。「男はこうだ!」「女はこうだ!」と絶対に思わざるを得ない人間として誰もが生まれ育ち、しかし洗脳し植え付けられた「男女差別はいけない」という正しさが支配する世の中において「男はこうだ!」「女はこうだ!」とは言い出せず、「男はこうだ!」「女はこうだ!」なんて決して思っていません、男と女は同じです、等しいです、変わりありませんというような発言しか許されないように、表現を制限され、抑圧される。本当に言いたいことが、思っていることが、正直にありのまま言えなくなっているのだ!しかし男と女が同じであるはずがないと、心の中では誰もが確信している。

それはまるで、この国に儒教という中国由来の宗教が根ざし、ありもしない目上目下の概念に縛られ、自分の思っていることを目上や上司に向かって言ってはならないという間違った風潮を築き上げてしまった構造に似ている。ぼくたちにはもはやこれ以上、表現の制限も抑圧も必要ない。おかしな制限や抑圧をさらに追加していくことで、日本の国としての力は虚しく衰退していくことだろう。

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絶対に異なり続ける男と女のこの世界で、「男はこうだ!」「女はこうだ!」とおおっぴらに言い合える世の中の方が、素晴らしいではないか。「男はこうだ!」「女はこうだ!」とちびまる子ちゃんの家のようにしっかりと議論し合い、ぶつかり合い、わかり合い、理解しようと務め、その結果としてちょうどいい男と女の共生社会を築き上げることこそが、本来の人間のあるべき姿だ。傷つき合うことを恐れ、ぶつかり合うことを避け、ただ「正しさ」の陰に臆病に卑怯に隠れて偽りの思考停止の「平等」を叫ぶだけでは、決して多様性に富んだ美しい世界は訪れないだろう。もっと白熱し、ぶつかり合い、矛盾と苦悩を分かち合うべきだ。

 

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