マジで失礼で不快なハラスメント!女性が男性に年齢を聞くのはいいというのは本当か?

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年齢を聞いてくる人って本当に不快だし気持ち悪い!!!!!

マジで不快なハラスメント!女性が男性に聞くのはいいというのは本当か?

・女性が男性に聞いてもいいというのは本当か?
・年齢を聞いてはいけない男性と、年齢を堂々と聞ける女性の不平等条約
・ぼくは女性から年齢を聞かれるのが本当に不快だった
・日本人は年齢というものに異様に固執する
・人間は何歳であっても何をやってもいい
・肉体の年齢を超越し、その人の持っている本来の価値を見出せ

・女性が男性に聞いてもいいというのは本当か?

ぼくが人間の世界で社会活動を営む上で抱く大きな違和感のひとつは、男性が女性に年齢を聞くのは非常に失礼なことだと認識され絶対にそのような行為は起きないのに対し、逆に女性は男性に対してものすごく気軽に当たり前かのように年齢を聞いてくるというギャップだった。ぼくは男性なので社会で働いていて本当に何度も何度も何度も女性から年齢を尋ねられたし、その回数は数えきれないほどだ。女性からではなく男性からも尋ねられることもあるが、その回数は圧倒的に女性が多い。

しかし男性が女性に年齢を聞くのはまるで罪悪であるかの如く社会的に禁止され、もし男性が女性に年齢を聞こうものならデリカシーのない最低男だというレッテルを貼られるのに対し、女性が男性に年齢を聞くことは全く何の問題もないというこの社会の空気は果たして本当に適切なのだろうか。

 

 

・年齢を聞いてはいけない男性と、年齢を堂々と聞ける女性の不平等条約

まず普通に考えて、自分がされても嫌なことは他人にするなという人間としての大原則がある。女性は自分が年齢を聞かれることは嫌悪するのに、逆に自分は男性に堂々と当たり前かのように何の遠慮もなく年齢を聞いてもいいと思い込んでいるところがまずおかしな状況だ。自分が男にされても嫌なことは、自分も男にすべきではないのではないだろうか。逆に自分が年齢を聞かれたらすごく不快な気分になるのに、同じことを女性から男性になら平気でやってもいいとなぜ思い込むことができるのか不思議でならない。女性にとって年齢が繊細で重要な問題であり、男性にとってはさほどそうでもないというのは、生物学的や動物的に考えれば確かにそうなのかもしれないが、男女平等が叫ばれる人間の世の中で果たしてそのような観念は許されるのだろうか。

 

・ぼくは女性から年齢を聞かれるのが本当に不快だった

ぼくは女性から年齢を聞かれるのが本当に不快だった。しかし女性というものは何の悪びれもなく平気でふんぞり返りながら「私にはその資格がある」とでも言わんばかりの態度で堂々と男性に年齢を聞いてくる。これはぼくが男性として生きてきて感じた人間社会の実情だ。気持ち悪いし、失礼だし、本当にセクハラだと感じるが、人間社会の中では「男性に年齢を聞くのは許される」という空気が蔓延しているので、日本人らしく協調性を重んじて空気を読み笑っては自分の年齢を答えていた。しかし心の中ではひどく歪んだ顔をしながら年齢を聞いてくる者たちを嫌悪していた。

それは何もぼくが自分の年齢に対して後ろめたさを持っているとか、そういう理由ではない。ぼくは年齢によって何かを裁こうとしているその魂胆が心底気に食わないのだ。年齢を聞いてくるからには、聞き出した年齢によって何かを判断しようとしていることは明白だ。何も目的がなければ、年齢なんて聞き出す必要などありはしない。おそらく実際の年齢に対して見た目は若く見えるのか老けているのかとか、結婚に適した年齢なのかどうなのかとか、年齢に準じたふさわしい生き方をしているのかどうかなど、「年齢」という一要素に基づいて様々なことを面白おかしく話し合うのだろう。「年齢」とは裏で人々が楽しい噂話をするための便利な道具になっているのだ。

 

 

・日本人は年齢というものに異様に固執する

日本人は年齢というものをやたらと気にするし聞きたがる。ぼくはそれをとてもレベルの低い習性だと感じている。ここでは年齢を聞いてくるのは圧倒的に女性が多いので女性について言及しているが、当然年齢を聞いてくる男性についても同様に軽蔑している。年齢というのはただの数字だ。その単なる数字が人間にどれだけの意味をもたらすというのだろう。年齢と見た目が一致していなくても構わないし、何歳で何をやっていても問題ではないし、何歳でこれをしなければならないとかしてはならないという決まりもない。日本人は異様に年齢という数字に注目し、固執し、執着する傾向にあるが、それはこの年齢ならばこうあるべきだという思い込みと洗脳が強すぎるからではないだろうか。

それはもしかしたら儒教の始祖たる孔子の教えに年齢にまつわるものがあるからかもしれない。

吾十有五(じゅうゆうご)にして学に志し
三十にして立ち
四十にして惑わず
五十にして天命を知る
六十にして耳従(したが)う
七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず

訳:私は15歳にして学問を志し(志学)
30歳で自立し(而立)
40歳であれこれ迷わず(不惑)
50になって天命をわきまえ(知命)
60になって人の言葉が素直に聞かれ(耳順)
70になると心の思うままにふるまって道を外れないようになった(従心)

しかしこれも古代の中国のおじさんの個人的な経験に過ぎず、全ての人がこのように年齢に従ってふるまうべきだというわけではないだろう。ましてや生きている時代も国も異なる現在のぼくたちがこのような教えに振り回されなければならない道理はない。

 

・人間は何歳であっても何をやってもいい

年齢は数字であるからこそ他人と比較するための都合のいい道具にされる傾向にあるが、何歳なのにこれができて偉いとか、何歳なのにまだこんなことをしていてみっともないとか数字による相対的な概念に囚われて他人を非難したり陰口を言ったり、もしくは自分自身の行動に制限をかけてしまうのは愚かさの極みだ。人間は何歳で何をやってもいいし、新しく何かを始めることや成し遂げることに年齢制限はないのだ。

「あなたは何歳ですか」と尋ねてくる人の心の裏側には、年齢という数字によって相手を裁いてやろうとする企みが見え隠れして薄気味悪い。何歳で何をやってもいいという真理の世界において、他人に年齢など尋ねる必要など皆無のはずだ。ぼくは何歳になっても何をやってもいいと信じているし、何歳だからこれをやってはいけないという洗脳から解脱しているので、本当に一度も他人に年齢など聞いたことがない。年齢などどうでもいいことだ。重要なのはその人の人間性と素質なのだ。

「あなたは何歳ですか」とやたらと年齢ばかり気にしているような種類の人間は、何歳ならばこうしなければならないとか、何歳ではこれをやってはいけないという間違った呪縛から全く逃れられていない。そして自分だけが年齢という数字に愚かしく惑わされているだけならばまだいいものの、他人にやたらと年齢を尋ねることによって社会的な年齢の呪縛を増幅させ、他人まで巻き込みながらお互いに年齢を見張り合い裁き合う”相互監視社会”を作り上げるからたちが悪い。年齢という単なる数字に惑わされる迷妄の世界で生きるならひとりで勝手にするがよい。聡明で思慮深い者たちは、既にそこから解脱している。

 

 

・肉体の年齢を超越し、その人の持っている本来の価値を見出せ

年齢というものは、紛れもなく肉体についての話だ。0歳であれば0歳の肉体を、5歳であれば5歳の肉体を、20歳であれば20歳の肉体を、70歳であれば70歳の肉体を持っているという、ただそれだけの意味しか持たない。そしてそれは精神が成熟しているとか、魂の格が高いというのととは全く別の話だ。20歳であれば精神も20歳相当だろうか、70歳であれば魂のレベルもそれ相応に高まり続けるだろうか。ぼくはそうは思わない。どんなに若くてもまるで何百年の経験を積んできたかのように深々とした精神を湛えている者もいれば、年ばかり食っただけで全く成長していない未熟な大人も数知れないだろう。

その観点から言っても、年齢という”肉体の年齢”にやたらと固執する理由が全くわからない。肉体の年齢という恐ろしいほどに何の意味も持たない基準だけに囚われて、愚かな人々はいつまで人生を迷いの中に閉じ込めるのだろう。肉体の年齢を無視して、その人自身の価値を見抜け。あらゆる肉体年齢の人々の中からその数字に惑わされることなく、聡明で深い海のような精神と巡り合い、やがて魂と魂の対話を果たそう。

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