男と女という異なる生命が共に生きている。
男性生殖器と女性生殖器が平等だというのは本当か?
・人生で初めての混浴へ
・異性の裸体を見るという風景
・誰が肉体を見られるかが問題だ
・男湯に入ってくる女性従業員の不思議
・見せるべき男性の肉体、隠されるべき女性の肉体
・男性の肉体は不快ではない
目次
・人生で初めての混浴へ
九州一周の旅の途中、ぼくは大分県で生まれて初めての混浴温泉に入った。グーグルマップのレビューでは、女性は遠慮して男性しか入っていないと書いていたので気軽に入ってみると、普通におばちゃんが入っていたのでびっくりした。
しかし、ここは混浴、びっくりすることはないのだ。おばちゃんも全く気にすることなく他の男性たちとおしゃべりしながら入っていたので、そういうものなのかと思いぼくも気軽に温泉に入った。
・異性の裸体を見るという風景
温泉では男と女が分かれて入ることが普通だと思っていたぼくにとって、男の人と女の人が同じ温泉に入っているという今回の混浴の機会は非常に奇妙な感じがした。というか、アニメやテレビの演出では、女の人が不意に男の人の裸を見るとキャーーー!!!などと叫んだり悲鳴を上げて逃げたり目を覆ったりするものだが、実際にはそんなことは起こらないのだなぁとわかって面白かった。これは九州特有の大らかさなのか、または女性が人生経験豊富なおばちゃんだったからなのかは定かではないが、少なくともおばちゃんは不快に思っているはずもなくその他の男性の入浴者と楽しくおしゃべりを続けていた。
思えば女性が男性の肉体を見ることは不快だと思うというイメージは、どこから知らず知らずのうちに植え付けられているのだろうか。そして女性が男性の肉体を見ることは衝撃的な不快な事件であり、男性が女性の肉体を見ることは嬉しい幸運な出来事としておおよそのイメージを植え付けられているのはなぜなのだろう。男性の肉体が見られることと、女性の肉体が見られることは、どちらも同じ人体であるのに、これほどまでに社会的解釈が異なるのはどうしてなのだろうか。男女平等が叫ばれる現代社会なのだからこれも意識的に修正していくべき問題なのだろうか。
のび太くんがしずかちゃんの裸を見たときには「幸運」な演出がいつでも成されるのに、しずかちゃんがのび太くんの裸を見たときには羞恥し「不快」な経験として演出されるという事実は、考えてみれば不思議な出来事である。ただしアニメとしてよく描かれている、男性が肉体を晒して女性はキャーーー!!!と言って手で目を隠しているのに、その指の隙間から男性の肉体をしっかり見ている場面は、「不快」を超越して性的な興味を免れないという人間的な習性が露呈しているようでもあり興味深い。
どちらもが生殖する可能性のある相手として対峙するのならば、むしろお互いの肉体を確認できることをお互いに喜び合うべきであるはずなのに、そうならないところに人間の性のねじれというものが存在する。現代の人間たちが叫んでいるように、男性と女性は本当に同じでありえるのだろうか。お互いがお互いの性質を持ち合わせ、どうしても同じになんてなりえないものたちに帳尻を合わせながらなんとかやってきたのが、男女の人類の歴史なのではないだろうか。
・誰が肉体を見られるかが問題だ
もっと深く追究してみればアニメやテレビでは、男性が男性の肉体を見たときには「見たくもないものを見てしまった」という不快の演出が多く、逆に女性が女性の肉体を見たときには全くそのような演出は起こらないだろう。男性が男性を見ることは不快、女性が女性を見ることは不快でない、女性が男性を見ることは不快、男性が女性を見ることは不快ではない。
ということは、問題は誰が肉体を「見るか」ではなく、誰が肉体を「見られるか」であることに帰着する。この世の中では、男性の肉体が見られる出来事は「不快」であり、女性の肉体を見られる出来事は不快にはならないどころか、むしろどこか神聖なものとして固定して見なされてしまっているようだ。
・男湯に入ってくる女性従業員の不思議
しかしそのように植え付けられたイメージは果たして本当だろうか。本当に男性の肉体はいつも不快で、女性の肉体は常に神聖なのだろうか。
ぼくがいつも面白いと興味深く思うのは、温泉の男湯にいつも女性の従業員が点検のために堂々と入ってくるという事実だ。これは日本のどこの地域でも見られる驚くべき現象である。女性が男子の肉体を本当に心から不快だと思うのならば、このような仕事が成り立つだろうか。そしてこの仕事の性別が逆ならば大問題になることだろう。男性が女湯に点検しにいそいそと入っていく状況なんて想像できない。一体どうして女性にだけゆるされて男性にはゆるされないのだろう。男性と女性が平等で同じであることなんて、幻想である。
・見せるべき男性の肉体、隠されるべき女性の肉体
そこには、男性の肉体は別に見られても構わないものと認識されているのに対し、女子の肉体は見せずに守られるべき神聖なものという、論理ではない人間としての直感が根底にあるのではないだろうか。人間は誰しも、女性の肉体から産み落とされる。そしてお母さんのお腹から出てきたのだという物語を、小さな頃から子供は聞かされる。全ての人間にとっての故郷は女体である。自分がこの世に生み出し、その手助けをしてくれたのは女体である。人間が女性の肉体を神聖なものととらえるのはむしろ自然なことである言えよう。
それに比べて男性の肉体というものは神聖さからははるか遠ざかる。男性の肉体は不快であると演出されることが多い一方で、潔く裸になるのをゆるされているのは男性のみである。日本の伝統的な祭りで褌だけの裸になることがよしとされるのも男性だけだし、お酒の席で裸踊りをするのはいつも男性というイメージだ。外で裸になることで笑いを取れるのも男性の特権だろう。逆に女性が裸踊りを始めたり、外で脱ぎ始めたりしたらみんなびっくりして止めに入るのではないだろうか。そこにはおそらく女性はもっと自分の肉体を大切にし守らなければならないという本能的な思いが込められている。
・普遍的な男性生殖器、特徴的な女性生殖器
男性の肉体は不快であるイメージにも関わらず、解放的に見せつけることをゆるされてきたものだ。女性の肉体は神聖なイメージであるにも関わらず、隠され守られるものであるという観念が強い。それは男性生殖器、女性生殖器に関する世の中の有様を見ていても明らかだろう。
テレビやラジオでは、男性生殖器の俗称をおおっぴらに言うことをゆるされているのに、女性生殖器の俗称は決して言ってはならないとルールで決められている。これは男性の肉体は見せつけるのをゆるされてきたが女性の肉体は隠され守られるべきだという、世の中における本能的な概念と底通している。
男性生殖器は誰でもが自由にその俗称をおおらかに呼ぶことをゆるされ、日本全国で共通してその俗称を使用しているのに対し、女性生殖器の俗称はまるでこの世に存在しないかのように扱われ、隠され、しかしそれを呼び合わないわけにも行かず、日本全国には様々な異なった形としての女性生殖器の呼び名の方言が存在している。
これは男女平等であるという主張が世の中で唱えられているにも関わらず、その平等が正しいという通念が、人間の本能的な性の有様を超越することができず、ただただ動物的な直感のもとの性の現象を貫く他ないと見定められている姿である。それぞれにはそれぞれの特徴が存在し、それにかなった生き方を模索しながら共に生きていく他はないのだ。
・男性の肉体は不快ではない
見られれば不快であるはずなのに見られても構わないという奇妙な観念を持った男子の肉体、見られれば神聖であるはずなのに隠されるべきであるとされる不思議な女性の肉体。人間社会は複雑な2つの性により織り成されている。
そしてぼくの思うことは、男性の肉体は不快であるというおかしな洗脳の呪縛から解放されるべきではないかということだ。世界を旅していてギリシャの彫刻を目にすると、男性の肉体に対する肯定と尊敬であふれている。テレビから流れてくる観念の呪縛を取り祓い、ぼくたちがぼくたちの肉体をどのように解釈するのか感じ直すべき時ではないだろうか。そしてどちらの性であるにしても、肉体を否定することよりも肯定する方がはるかに美しい。