絶対に税金を支払わなければならないというのは本当か? 〜義務という思考停止の言葉〜

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住民税を納めてきました…。

絶対に税金を支払わなければならないというのは本当か?

・住民税の支払いは身を引き裂かれる思い
・納税の義務と義務という言葉の怪しさ
・義務という言葉による強制力
・たやすく支配できる国民
・「義務なんて地獄に」

・住民税の支払いは身を引き裂かれる思い

つい先日、住民税を支払ってきた。10万円に近いお金を、セブンイレブンで支払ってきたのだ、ぼくは本当に、精神と身をズタズタに引き裂かれる思いがした。税金とは、なんて残酷なシステムなのだろう。これならば、給料から毎月だましだましお金を抜き取られている方がまだ精神的ダメージが少なくて済む。しかしなぜか例年住民税は給料から引かれることなく、家に封筒が3ヶ月ごとに送られてきて、その中の振込用紙がこれだけの大金を払えと要求してくるのだ。給料から引かれるためには、何か手続きが必要なのだろうか。

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当然のことながら住民税を支払わないということはゆるされない。絶対に支払わなければならないように仕組まれているらしい。もしも支払わないとしたならば、銀行口座も止められ財産を差し押さえられるらしい。市町村というものはものすごい権力を持っているのだと実感させられる。絶対的な権力を持って、人の財産さえ奪い取ることができるらしい。

ぼくがセブンイレブンで住民税を支払うのは、yahoo!カードとnanacoを併せて使えば、住民税を支払う際にもTポイントがたまる仕組みになっているからである。どうせお金を奪われるというのなら、節約すべきところは節約して、なるべく取りこぼさないようにしたい。

しかしセブンイレブンで10万円近くもお金を支払うのに、なにひとつ物質をもらえないのは、理屈ではわかっていても頭が追いつかない。10万円あれば大抵どんなものでも買うことができる。ものすごく贅沢だってできるし、5円玉チョコなら2万個も買える!それだけの価値あるものをこちらが差し出しても、 なにひとつ買うことがなく、もらえるものもなく、ただ領収書をもらうだけというのはどう頑張って理解しようとしても、理解しきれない不思議な現象である。

10万円出せば普通、ものすごく高価な服とか、ものすごく豪華な食事とか、ものすごく遠くの国への往復航空券とか、ものすごくランクの高いホテルサービスとか、そのようなものが絶対的に提供されるはずなのだ。それなのになにひとつ提供されない、税金というのは残酷で不可思議な現代の魔法である。

それならばいったいなんのために10万円も稼いできたのだろうか。人間らしい生活を一生懸命に成り立たせようと努力して稼いできただけのお金である。決して贅沢しようとか、何かやましいことに使おうなどとは思っていない。そのようなささやかな大切な地道なお金を、一瞬にして奪い去り、なにひとつ提供されない税金というシステムは、一体何者なのだろうか。

もちろん税金が人々の生活のために役立っているということは知っている。そんなことは火を見るよりも明らかであるし、当然こんなにも支払わせておいて役立っていないとなればそれこそ暴動が起こるだろう。しかし、いくら頭で理解しようとしても、目の前でそれが具体的に施行されていない以上、なんだか実感がわかない。

あんたが支払った10万円はこれこれこういう用途に使われましたよという詳細な明細書でも送られてくれば話は別だが、そのようなものは送られてくる気配もない。もしかしたら、自分がまったくそんなの要らないじゃないかと思うことに使われている可能性も0ではない、というか十分にあり得る。ふるさと納税のようにこんなことに使ってくださいと選択できればまだちょっとは納得だが、そのようなことも不可能である。正体がわからないまま、自分のお金が他人に渡ってしまうなんて極めて虚しい思いがする。

そして税金のことについて、学校であまり学ばないというのも気がかりだ。というか、お金のこと一般について、学校はあまり教えてくれない。お金の知識は人生で最も大切な知識の部類に入るにも関わらずだ。お金とはどのようなものなのかとか、このようにすればお金が節約できるとか、税金のシステムや、節税の方法などもぜひご教授願いたいものである。それとも節税というものを調べ上げられない調査力のない愚鈍な人々が、たくさんのお金を国へと支払ってくれるように、わざと税金の教育をしないだけだろうか。

そもそも、税金の用途を決定するような権力は議員にでもならない限り所有不可能だろう。議員でもないただの国民は、ただ金を吸い上げられ、奪い取られ、そして権力のあるものたちの決定するとおりに従って使われるしかないのだろう。しかし民主主義というシステム上、その議員を選んだのも自分たち国民ということなっているのだから文句を言うなという理屈が通るのが面白い。しかし多数決で選ばれた人間が、常に正しいとは決して限るまい。

 

 

・納税の義務と義務という言葉の怪しさ

そもそも税金というのは、どうして支払わなければならないのだろうか。そのような疑問を抱く人は大勢いるらしく、インターネットで検索したらすぐに詳細は答えは見つかる。

いちばん上に出てきた検索結果のページによると、税金を支払わなければならないのは「国民の義務だから」ということになっている。国民には三代義務が課せられており、それは「勤労」「教育」「納税」であるとされる。その中に税金を支払わなければならないという「納税」が含まれているので、ぼくたちは税金を支払わなければならないということらしい。

なんだか的を得ていない答えである。義務だから納税しなければならないことなんて誰もが知っている。べつにそんな当たり前のことなんて知りたくないのだ。そんなことよりも、なぜ納税が「義務」となったのか、その理由や歴史的背景や人間社会の仕組みが知りたいのだ。それなのに義務だからという浅はかな地点で答えを止められていては困るのである。

そもそも「義務」という言葉はまったく怪しい。これは思考停止の愚かな言葉だ。なんでもかんでも理由のわからないけれどやっているものに、「義務だから」という理由を当てはめれば、なんとなく愚鈍な者を納得させられるパワーを持っている。しかし、そんな言葉はまやかしである。「義務だから」しなければならないというのなら、それがなぜ義務となったのかその論理的な理由や証拠を知りたいのだ。

「義務」という言葉は恐ろしい。有無を言わせない強制力のある言葉である。義務だと言われれば従うしかないと、民衆たちは思い込んでしまうのだ。しかし、それをなぜ義務なのかをきちんと知り、その理由が今の世の中にそぐわなものであったなら、若い人々や新しい人々で変えていくべきである。納税の義務の理由だって、昔の世に当てはめれば納得の答えだったものでも、時が移り変わり現代の思想に沿わなくなってきているのであれば、義務さえも変えていくべきである。義務というものが、不変であるのはおそろしいことだ。

義務だからという浅い理由ですべてがまかり通るならば、すべての疑問の答えは義務という言葉でゆるされてしまうのではないか。右手でお箸を持つのはなぜ、左手でお茶碗を持つのはなぜと子供に問われても、それは義務だからと答えたならば子供の思考を停止し、行動を強制させることは可能である。そうではなくて子供は、それがどうして義務になったのかを知りたいのだし、それを答えなければ人として思考する甲斐もないだろう。むしろ義務という答えは、答えられないような質問に大人たちが使う小賢しい有耶無耶の答えなのではないだろうか。

「義務」という言葉は、いつも怪しく恐ろしい。それを言うだけで、強制力を発揮し、なにも考えない思考停止の人々を生み出してしまう。そしてそのような義務を怪しみ拒む人々を、思考停止の人々は責め立てて見下す。自分は「義務」という看板を掲げており、自分には世間的な正しさの強い権力があり、論理上は負けるはずがないからだ。

自分が苦しい思いをしてやりたくもない義務を果たしているのに、それを怪しむなんてゆるせないという妬みさえ含まれている。みんながやっているのだから、それゆえにそれは正しく、誰もがやるべきなのだという多数決の権力さえまとっている。

義務が可動性であり、時代の流れとともに常に変えていかなければならない存在であることも考慮せずに、ただ昔からの義務という観念に縛られて、疑わず、操られ、それに従わなければ人間ではないと言わんばかりだ。しかしあらゆる義務さえ合理性と直感を含めた生きた人間の生(なま)の思想から生まれ出てきたものなのだから、今まさに生きている人々で直感的におかしいと感じるならば、疑うことも論議することも変えることさえも必要だしゆるされるはずである。

「義務」という言葉に騙されてはならない。なぜ義務が生じたのかそれを再考しなければならない。

 

・義務という言葉による強制力

国税庁のホームページを見ると、もうちょっと正直な答えが書いてある。納税の義務がなぜ憲法に定められているかについては、「強制力を持たせるため」と明記されている。やはり義務というまともそうな言葉の本性として、強制的に金を支払わせたいという狙いがあるようだ。

なぜ強制的に支払わせたいかといえば、やはり国や市町村の仕組みを回すためにお金が必要なのだろう。民衆の中には、この国や市町村を好きで愛しており、すすんでお金を納めたいという者もあれば、この国は市町村に興味もなくむしろ嫌いなので、納めたい気分ではない者もいるのだろう。そのような人間すべてから、国や市町村は強制的にお金を吸い取ることができるようになっている。

それは大きな権力によるもので、その権力の源は憲法と法律である。憲法はアメリカのGHQが、法律は民主主義的に日本国民が作り上げたものらしい。この権力をもって、望もうが望むまいが、国や市町村は国民からお金を吸い取ることができる仕組みになっている。このお金を吸い取られるという納税は、この国に生まれた時から決められていたようだ。

国というものを嫌いであろうが、市町村というものに興味がなかろうが、人々は強制的に、自分のために働いているという行為のエネルギーの具現化であるところのお金が、知らず知らずのために国のためのものとなり、市町村のためのものとなっているのは面白い事実である。ぼくたちは強制的に国や市町村を育て、維持することに役立っているのだ。それをやりたいと望んでいるわけではなく、自動的にそういう仕組みになっている。集合というものに興味がなくても、群れから関係なく離れて生きたくても、蜘蛛の糸に絡め取られるようにして、興味のないものへと大量のお金を吸い取られていく。

この世界は、個人の生きやすさや幸福というものを犠牲にしながらでも、国家などの集合体の繁栄を最も大きな目的としているようである。ぼくたちは自分自身を幸福にするというよりはむしろ、集合体の繁栄のために生まれてきた部品のようにも見える。すべての個人は国家に含まれているから、国家の維持と繁栄は個人の幸福へとつながっていくという理屈は真実だろうか。

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そう考えれば、国家というもの、市町村というものはものすごい権力を持っているようである。強制的に人のお金を吸い取ることができる時点で、ものすごい権力なのは察しがつく。しかしこの大きな権力が、暴走するという場合はないのだろうか。「義務」という大きな権力を掲げている以上、勝手に必要のないものすごく高い税金を強いることも可能なのではないだろうか。

 

 

・たやすく支配できる国民

もうすぐで消費税というものが10パーセントになるらしい。これも本当に必要なのだろうか。より高い物価を強いられるということは、財産を少なくされていることと同じである。納税の義務により財産を吸い取るばかりではなく、物価の上昇によっても財産は吸い取られている。

消費税の上昇に不満を持っている国民が大半であろうが、それでもこの国の国民たちは、フランスのように暴動を起こすことなく、大人しくお国の命令に従うのみである。このままだと将来もっと消費税が上げられるのではないだろうか。

この国は気づかないうちに儒教の観念に濃厚に支配されている。それは平等であるはずの人間の間に階級を無理矢理に作成し、そこに尊敬の念を強要するものである。そしてその階級の仕組みを裏切ったなら最後、社会的に抹殺されることも少なくない。そして大概の国民はこの儒教の観念により、上には絶対的に服従するのみである。

目上に対して自分の意見を率直に言ってはいけないというのは本当か? 〜逆らうという儒教の悪意〜

この古来よりの儒教的洗脳は、大きな権力を持つ国家や市町村にとっては非常に都合のよい観念だろう。国民は上には逆らってはいけないと教育されている。上に自分の意見を主張できるような骨のある人間は一握りもいない。誰もが腑抜けにされて、権力のある人間に大人しく従うように気質が出来上がってしまっている。果たしてこのままでいいのだろうか。

敬語が必要というのは本当か? 〜儒教による階級の作成と尊敬の強要〜

生まれた時から奪われるという適切か不適切か明らかではない強制を受け、さらには大人しく奪われ続けるために、この命は生まれてきたのだろうか。国家や市町村という見果てぬあまりに大きな集合体のために、個人の労働力とその結果としてのお金を少しずつ奪い取られながら、集合体の繁栄のための部品として生きることしかできないのだろうか。

自分自身が部品ではなく、全体という概念のもとで生き抜くために必要なものは何だろうか。

 

 

・「義務なんて地獄に」

「義務」という言葉を取り付けられているからといって、思考停止してその義務にしたがっていいはずがない。必ずどのような仕組み、欲望から義務が生じたのかを見極め、さらにそれを変えるべきならば、この世の中で義務さえ破壊し、つくり直すべきである。「義務」という言葉を絶対視し、神格化し、崇拝すべきではない。

インドの神様が示しているように、この世は常に創造、維持、破壊が繰り返されており、違和感を感じるのに維持で留まっているのでは生きている者としての怠慢であるとしか思えない。

最後にぼくがシベリア鉄道の旅のさなかで出会ったムーミンパパの面白い言葉をここに書き残そうと思う。

ムーミンパパ「自然に帰れ!人生は一度だけなんだ!義務なんて地獄に落ちちまえ!」

 

 

 

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