子供が食べ物の好き嫌いをしてはいけないというのは本当か? 〜子供が世界を信じようとするのを急かすな〜

 

ぼくは梅干しが大嫌い!!!!!

子供が食べ物の好き嫌いをしてはいけないというのは本当か? 〜子供が世界を信じようとするのを急かすな〜

・人間の食べ物の好き嫌いの不思議
・トマトが食べられないのは本能からの指令
・ぼくは好き嫌いの多い子供だった 〜子供が食べ物の好き嫌いをしてはいけないというのは本当か?〜
・世界は信頼するに値するのか、子供は必死でさぐっている
・世界へと心を開く子供を決して急かしてはならない

・人間の食べ物の好き嫌いの不思議

人間の食べ物の好き嫌いというのはどのようにして決まるのだろうか。別に何ひとつ教育されるわけでもないのに、小さな子供にはそれぞれ好き嫌いが存在する。面白いのは全ての子供が同じ食べ物を好きになるわけでもないし、全ての子供が同じ食べ物を嫌いになるわけでもないし、全てバラバラだということだ。

例えばぼくは小さい頃から梅干しが大嫌いなのだが、2歳下の妹は小さい頃から梅干しが大好きだった。ぼくとしてどうしてこんな変な味の食べ物を平気な顔をして食べられるのか、ましてや美味しいとまでのたまうなんて信じられないという風に妹のことを見ていたが、お父さんもお母さんも梅干しを美味しいと言ってよく食べるし、何より日本人の中でこの梅干しという食べ物が現代にまで残ってきたということはそれなりに人々に人気があるのだという事実を認めざるを得ず、悔しいがぼくの味覚がおかしいということになるのだろう。

それにしても梅干し好きのお母さんとお父さんによって作られたぼくという生命が、梅干しを嫌うなんて不思議なことだ。ぼくは小学校の翌日の給食に梅干しが出るというだけでものすごく憂鬱な気分になるような、それくらいぼくの味覚と梅干しの味は相容れないものだったのだ。食べたいと願ってもどうしても食べることができない。頑張って食べようとしてもどうしても心が完全に受け付けない。

もしかしたらこれは大人の味の食べ物だから大きくなったら食べられるようになるのかもしれないとちょっと期待していたが、大きくなった今でも食べられないままである。おそらくこのまま梅干しを美味しいと思わないまま人生は終了するだろう。大きくなってわかったことだが、ぼくは保存食系が苦手なのだ。新鮮な食べ物ではなく、長期保存するために人間が工夫して加工した味がどうしても受け付けないことがわかった。漬物系も嫌いだし、ピクルスも苦手だし、梅干しもこれらと同じ保存食系の食べ物だろう。

しかし梅干し嫌いのぼくでも梅は美味しいと感じることがわかった。梅酒も飲めるし、梅ゼリーもすごく美味しいと感じる。ちょっと桃の味に似ていないだろうか。ぼくが苦手だったのは美味しい梅を無理して加工して保存食に仕立て上げるために付け加えられる、梅の周囲のシソの味だったようだった。こんなにも梅干し嫌いなのでぼくは自分は梅が大嫌いな人間性かと思っていたが、実は梅が美味しいと感じるとはなんとも意外で、人間は自分のことすらまだよく理解できてないものだと深く考えさせられる。

世界を旅してきたぼくの推理からすると、保存食系とか漬物系の味は大陸系の味わい(中国とか韓国)であり、ぼくの遺伝子はどちらかというと海を渡って南の島々から渡ってきた縄文系の血が濃いので、大陸からの渡来系としての弥生的な味とは味覚が相入れないのではないかと踏んでいるのだが、そんなことを証明してくれる人はこの世に皆無なのでそうだと思い込むことで生きて行くしか術はない。

 

 

・トマトが食べられないのは本能からの指令

このように食べ物の好き嫌いとは意味のわからないものだ。梅干しの例のように、同じ兄弟ですら全然味覚や好き嫌いが違っている。何も経験していない幼い頃から味の好き嫌いは決まっているので、もはや遺伝子とか生まれる前から決まっていたとしか思えない。遺伝子がこういうものは食べるなとぼくたちに伝えてくるものが、人によって異なるのだろうか。

もうひとつ例を出すと、ぼくも妹も小さな頃からトマトが嫌いだった。これは兄弟で共通しており、これも直感的な味覚の好みの問題なので完璧には説明しようもないのだが、ぼくには自分がトマトを嫌いな理由がなんとなく論理的に説明できるような気がする。

トマトというのは中がぐちゅぐちゅしている。噛むと中から液体と固体のちょうど中間的な物質たちが口腔内に流れ込み気持ちが悪い。この気持ち悪さがぼくにとってのトマトが嫌いな原因ではないかと感じていた。どうしてぐちゅぐちゅしているものが中から出てくる食べ物を食べると気持ちが悪いのか。

それは脳が本能的に、このぐちゅぐちゅは”腐敗”だと感じ取ってしまうからではないだろうか。液体と固体の間のぐちゅぐちゅなんて、自然界においては腐敗物であり、食べたらお腹を壊してしまう毒であり、いくら言葉や論理で「これはトマトという食べ物で新鮮であっても中からぐちゅぐちゅが飛び出してくるものだ」と自分に言い聞かせてみても、もっと奥深い根源的な本能の部分で、これは腐敗物だ、これは食べてはいけないものだ、食べたらひどい下痢になって死んでしまうかもしれないと野生の直感がフルに働き、無意識下でぼくたちにトマトを食べないように指令を下しているのではないだろうか。

ぼくは幼い頃にトマトのぐちゅぐちゅが中から口腔内に飛び出してくると、オエっと吐きそうになる経験を何度かした。ぼくの本能が腐ったものは食べるなと命令していたのだ。そのようにして自分自身を腐敗物から守り、健康な状態で大人に成長することを助けようとしていたのである。

 

・ぼくは好き嫌いの多い子供だった 〜子供が食べ物の好き嫌いをしてはいけないというのは本当か?〜

ぼくはそのように小さい頃、好き嫌いの多い子供だった。そんなぼくを見兼ねてお母さんは好き嫌いのある大人に育ててはならないという義務感から、ぼくに嫌いだというものも食べるように命じてきた。また保育園や幼稚園でも同様に、ぼくは好き嫌いが多い子供だったのでよく給食を最後まで残された。全部食べないと許してくれないというシステムだったのだ。

ぼくは給食が嫌いになり、どうしてこんな気持ち悪いものたちを食べなければならないのだろうと心は疲弊していた。しかしぼくが食べたくないと感じる食べ物たちを無理矢理にでも食べさせることが、母親や先生の重要な役割であり、彼女たちの背後には子供に好き嫌いをなくさせるという”正しさ”や”正義”が潜んでいるから、幼いぼくはどんなに心が苦しめられていても好き嫌いの多い”悪質な”子供としての存在を余儀なくされた。

しかし今まで説明してきた通り、好き嫌いというのは理由のわからない直感的なものだ。好き嫌いをしたくて食べ物を好き嫌いしている子供はこの世にはない。彼らは遺伝子や本能が命じるままに、これは食べない方がいい食べ物だとか、これは絶対に食べてはいけない食べ物だということを直感的に選別し食べるか食べないか決めているのだから、好き嫌いをするのは子供自身のせいではなくて本能や遺伝子の問題である。それをすべて子供のせいに仕立て上げて、好き嫌いをすることは悪いことだと教育し、本能が食べるなと命じている食べ物たちを吐きそうになりながらでも子供に食べさせることが、果たして本当に正義だったのだろうか。

 

 

・世界は信頼するに値するのか、子供は必死でさぐっている

子供はまだ生まれて間もないから、世界が信じられないのだ。親や先生や大人たちが「これは食べられる安全な食べ物だ」といくら口で説明しても、本能や遺伝子から伝わってくる「食べるな」という直感的な情報が強力すぎて、肉体は本能の方に従ってしまうだろう。それでは好き嫌いの多い子供は一生好き嫌いの多いままだろうか。

決してそうではない。子供は今、世界を模索してるのだ。知らない間に産み落とされたこの世界が、信頼するに値するかどうか、安全に生きられる場所であるかどうか、どれが真に危険でどれが取るに足らないどうでもいい安心か、必死に世界を観察して、経験して判別しようと努力しているのだ。世界を信頼するためには長い時間を要する。しかし子供は自分自身の力で世界を信頼することを達成し、そこから本当の人生が始まるのだ。

そのようにゆっくりゆっくりと世界を信じ始める必要のある子供に対して、好き嫌いは駄目なことだと不条理な正義を投げつけ、本能や遺伝子の拒否している食べ物を吐きそうになりながら無理矢理に食べさせようとするなんて傲慢でおろそしい大人の植え付けである。それはまた、必死にこの世界を信じようと努力している子供に対する冒涜ではないだろうか。この世界を信じるに値するのかゆっくりと純粋な瞳でおそるおそる確認している魂の前で、大人という支配権力がその純粋で美しいゆっくりさを無理矢理に妨げるほどの悪行はないだろう。

本能や遺伝子は、トマトの中のぐちゅぐちゅが腐敗だから食べるなと命じている。しかしこの世界の大人たちや常識は、トマトは新鮮な状態でもぐちゅぐちゅが飛び出す食べ物だから食べても安心だと教育する。本当はどちらが正しいのだろうか。遺伝子とこの世界、本能と大人たち、どちらを信じるべきなのだろうか。その問題の答えは他者が指導して教育し無理矢理に植え付けるものじゃなく、世界の中でゆっくりゆっくり自分自身で経験してその果てでやっと導き出せるものである。いきなりこの世に産み落とされた幼き子供がこの世界を”自分自身で”信じられるまで、ぼくたちは干渉せずいつまでも待ち続けるべきではないだろうか。その信頼は他者には与えることのできない、自分自身でしか発見できない宝物だ。

 

 

・世界へと心を開く子供を決して急かしてはならない

結局ぼくもそのようにして徐々に世界を信じ始め、いくら本能や遺伝子が食べるなと命じていても食べられるものがこの世には溢れていることを知った。本能や遺伝子が濃厚で慎重だったがゆえに好き嫌いの多かったぼくは、世界を信じた今、ほとんど全ての食べ物を食べることができる。これは無理矢理に吐きそうになりながら大人の権力によって嫌いなものを食べさせられたからではなく、自分自身で世界に興味と好奇心を持ち、自分自身で新しい世界へと飛び込み、自分自身で新しい世界も悪くないと”体験”し、世界を次第に受け入れるようになったからだ。どんなに信じることを他者が急かしても、どんなに受け入れることを無理矢理に速めようとしても、子供は自分自身の世界を体得するスピードを持っており、それを左右してやろうなどと決して考えてはならない。子供が自分で世界に心を開く瞬間を、ただ待つのみである。

今ぼくは旅人として世界のどこへ行っても、現地のものを美味しいと食べることができるし飲むことができる。ただ梅干しと漬物と納豆は、この先の一生でも好きになることはないだろうとぼんやり予感している。

 

 

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