あまりに数字にこだわりすぎてはいないか。
年齢にやたらとこだわる日本人のおかしさ!たかが数字によって人を判断してもいいというのは本当か?
・あなたは今まで何カ国行ったの?
・国数えの旅人
・年齢はただの数字
・あなたは今まで何カ国行ったの?
ぼくは2018年10月30日〜2019年2月6日にかけて合計100日間の旅をした。旅程としては、ロシアシベリア鉄道の旅を経て、フィンランド、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、チェコ、ポーランド、ハンガリー、オーストリア、スイス、フランス、ベルギー、オランダだった。この旅の途中で様々な旅人に出会った。
ぼくが放浪の旅をしており、日本からロシアの極東の都市ウラジオストクまでの飛行機の片道のチケットしか予約せず、帰りのチケットもないまま旅をしているという事実に、驚きを隠せない旅人も大勢いた。やはり誰もが、いつ帰るのかわかるような旅をしているらしい。
旅人と話す機会は主に宿が多かったが、長期の旅をしている人は少なく、皆短期の決まった日程での旅行を楽しんでいるようだった。彼らがぼくの旅のことを非常に興味深く聞いてくれていることはとても楽しかったが。困る質問がひとつだけあった。
「あなたは一体この旅で何カ国を訪れているの?」というものだ。
この質問は割と多く、誰もがぼくにこのシベリア鉄道・ヨーロッパ周遊100日間の旅で、何カ国を通り過ぎてきたかに興味の焦点が集まるようだ。
・国数えの旅人
しかしはっきり言ってそんなことは知らない!数えてなんかいないのだ!そんなことをいちいち数えて一体何になるのだろう。今この瞬間にこの国にいるということが重要で尊い事実であり、それ以上の概念もそれ以下の概念も、旅人の精神には必要ないのだ。
そのようなぼくの思いに反して、他の旅人はぼくの今ばかりではなく過去にこだわる。ここに来るまでに一体何カ国を渡り歩いて来たかと問うて来るのだ。その度にぼくは数えていないよーと困惑し、そこでその人と一緒に指折り訪れた国の名を挙げ、数字を数え上げるのだ。そして数え上げたと同時に、相手は喜び驚き、ぼくはその数字をすぐに忘れてしまう。興味がないからだ。
よく旅人の中には、何カ国行きました!とか何カ国制覇!とか今何カ国目!とかいちいち数え上げている人々が存在するが、非常にまめな正確なのだろうと感心してしまう。それともそれを非常に重要にとらえて、それを誇示することが自分にとってステータスとしての利益になるという思いがあるのだろうか。
訪れた国の数をひとつひとつ数えている人の姿は、まるで大切な宝物のコレクションを数えている幼子のようなほのぼのとした可愛らしさも感じられる一方、部屋の奥の隅っこでひとり札束を数え上げているような大人の所有の欲望も垣間見える思いがする。
・年齢はただの数字
数字の話で連想されるのが、ぼくは人の年齢を覚えていない。それも興味がないからだ。もしかしてぼくは特別数字に興味がない人間なのだろうか。誰もが数字というものに縛られ、いやらしく記憶し、そしてそれを比較し合って勝ち負けを数えている。みんな数字が好きなようだ。数字というものに世の中は執着している。年齢というのも、そのような次元のひとつだ。
ぼくは友達の年齢もよくわからない。同級生ならば自分と同じだからわかるが、そうでない人はよくわからないし、それでいいと思っている。年齢なんかよりも、その人の人間の本質を見極めることが重要で、それで十分ではないだろうか。しかしぼくが観察する限り日本人はやたらと年齢というものにとらわれ執着している気質があるように見受けられる。これも儒教により、年齢で目上か目下かを自然と裁かなければならない洗脳のせいだろうか。
ぼくが旅をして来て思ったのは、やはり儒教圏内のすなわり東アジア民族が、年齢にこだわる傾向があるということだ。しかし、年齢が一体何を示しているというのだろう。年齢とはその肉体が、子宮の中からこの世に出て来てから何年時間が流れたかを示すものである。しかし、その人の人間性を知るためにどうしてそれが重要なのか理解できないしどうでもいい思いがする。
肉体に流れるのと同じ時流が、精神にも流れるというのならばそれを数え上げることは意義深いとだろう。しかし実際は、肉体と同じ次元の時間が精神に流れてはいない。それらは別々に時を刻んでいるのだ。老人の中に赤子の魂が宿ることもあれば、その逆もまた然りである。
そして肉体に流れた時間の量が多い方が賢く、少ない方がより愚かだと儒教に洗脳された地域の人々は信じ込まされているが、そんなことは全くの幻想である。人間の徳の高さや真理に対する感受性は、年齢などとは全く関係のない次元でぼくたちに働きかけるのだ。
年齢が何の意味も持たないことを知っている、儒教的でない人々は、あまり年齢のことなど聞かないし話題にもしない。それが生産性のない話題であることを当たり前のように知っているからだ。よく年下のくせにという感情を持つような種類の人間や、〜歳のくせにそれにそぐわないような行動や格好をしてなどと批判しているような人間が見受けられるが、真実は年齢な何の意味も持ち合わせていない以上、そのような批判は浅はかであると言わざるを得ない。
年齢は単なる数字であり、それ以上でもそれ以下でもない。それに執着ししつこく主観的な意味付けを成すことは無意味であると考えるべきだろう。そしてこの潜在的な儒教社会に生まれついたぼくたちも、数字というものの呪縛から安らかに、そして健やかに解放され、数字という相対性を超えた存在となるべきだろう。絶対的な風が、ぼくらの上に吹いている。