創造神話と人生の共鳴!世界は混沌(カオス)から始まり混沌に終わるというのは本当か?

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すべては混沌から始まり、そして混沌へと帰って行く。

創造神話と人生の共鳴!世界は混沌(カオス)から始まり混沌に終わるというのは本当か?

・世界中の創造神話は混沌(カオス)から始まる
・生まれたばかりの赤ちゃんは混沌の中を泳いでいる
・パジャマと普段の服の区別がつかない混沌
・食べ物の順番の区別がつかない混沌
・過去と現在の区別がつかない混沌
・自分と他人の区別がつかない混沌
・人間は混沌からやって来て、最後には混沌へと帰って行く

・世界中の創造神話は混沌(カオス)から始まる

世界中には様々な神話があり、その冒頭にはこの世界がどのように創られたかが記されている。あらゆる神話においては、まず混沌(カオス)があり、そこから秩序が生まれて世界が次々に形成されていったというパターンになっている。何もかもが混ざり合って意味がわからない混沌の世界から、次第に天と地、光と影、善と悪、男と女、生と死などの分裂が起こり、分別がつき、その秩序によって安定した今の世界が出来上がったのだと考えられている。

 

 

・生まれたばかりの赤ちゃんは混沌の中を泳いでいる

世界ばかりではなくひとりの人生を考えたとき、ぼくは生まれたばかりの赤ちゃんも混沌の中にいるのではないかと感じられる。生まれたての赤ちゃんはまだ夢の中にいるような無意識で、この世のことが何もわからず、意識の中では全てが混ざり合っており、自分も他人も、人間も物質も、男も女も何ひとつ分別のつかない、一続きの蠢く混沌の世界を生きているのではないだろうか。しかし次第に成長し自我が芽生え意識が清明になってくるとともに、他の人間たちと同じように分別をつけながら世の中を渡って行くことが可能になる。この足は自分のものだとか、これはお母さんであれは他人だとか、これはおもちゃでこれは絵本だとか、見える世界に分別と秩序を生み出すことが可能となる。

 

・パジャマと普段の服の区別がつかない混沌

しかしその分別も長くは続かない。たった100年ほどで人生が終わる時、人はどこへと帰り着くのだろうか。人間の意識は混沌から生まれてきたというのなら、もしかしたら混沌へと帰って行くのではないだろうか。

ぼくの大好きな88歳のおばあちゃんは認知症だ。認知症ながらも何とかかろうじてひとり暮らしをしていたが、先日は軽い脳梗塞を起こして短い入院をし、帰宅してからというもの生活能力を失ってしまった。脳梗塞による認知機能低下に加えて、入院生活で何もかも他人にしてもらっていたことが原因だろう。人間はこのようにして徐々に徐々に生きる力を喪失していくものなのかもしれない。まさに彼女は仏教でいう生老病死の苦しみの真っ只中にいる。

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入院から家に帰ったおばあちゃんは、分別がつかなくなっていた。まず、パジャマと普通の服の区別がわからない。パジャマも普段の服も同じだと感じてしまうのだ。だからパジャマの上に上着を着たりして他の人から見たらおかしな格好をしているように見えてしまう。これは脳梗塞で右脳という劣位半球がやられたことによる着衣失行の可能性が高いだろう。

しかしよくよく考えてみたら確かにパジャマと普通の服の違いって何なのだろう。パジャマも普通の服も同じ「服」なのだから、別にパジャマと普段の服を混ぜ合わせて着ても特に問題はないと思われる。服は人の肉体を隠して温めることを目的としているものならば、別にパジャマだろうが普通の服だろうが着てさえいればそれでいいのだと感じないこともない。実はパジャマも普通の服もそんなに変わらないのに、ぼくたちがあまりに厳密にこれはパジャマだ、これは普段の服だと分け隔てているだけかもしれない。

実はパジャマと普通の服の差を感じ取ることは人間としてかなり高度な能力で、そこまでしていなくても人間は普通に生活できるのではないだろうか。認知症になるとそのかなり高度な能力が落ちてしまい、パジャマと普段の服の区別がつかないことを異常だと他人から見れば感じてしまうが、実はそんな区別をつけている方が異常なことなのかもしれない。パジャマと普段の服の区別が消失し、おばあちゃんの衣服への意識は混沌へと帰りごちゃ混ぜになっている。

 

・食べ物の順番の区別がつかない混沌

次に区別がつかなくなっているのは食べ物の順番である。普通の食事ではおかずやご飯を食べてから最後に果物を食べるのに、その順番がわからずに最初から果物を食べるようになってしまった。抑制が効かずに、まるで動物のように目の前にあるものからムシャムシャと食べるようになってしまっているのだ。

これも周囲から見れば異常なことだが、しかし果物から食事を始めたとして何か問題があるのかと聞かれればそんなこともないし、ただ単にぼくたちが果物は最後に食べるものだと決めつけているからおかしな行動に見えるだけで、それに違和感を感じること自体無駄なことかもしれない。おばあちゃんは食べ物の順番がわからずに、混沌の中で、野生動物のように食べ物を貪っているが、実はその順番には意味などなく、ただ食べるということが生命にとって重要ではないだろうか。

 

 

・過去と現在の区別がつかない混沌

また過去と今の区別もつきにくくなっている。会話していても、時々時空が過去へと戻ってしまい、まるでぼくの幼少時代にいるような会話をしたりして周囲を困惑させる。過去の世界へと舞い戻ってしまうのは認知症患者によく見られる症状だろうが、人間は自らを形成した根源的な過去を心の中に刻み込み、脳内にしっかりと蓄え、いざとなると過去へといつでも帰り着けるようにできているのだと、認知症患者は示唆している。

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人間は過去を確実に内包つつも、それを土台として現在を生きているのだ。すなわち人間の生命の中には現在と過去が共存しており、老化でその区別がつきにくくなると、人は過去に行ったり現在に戻ったりして、時空を超えた混沌の姿勢を示すようになる。

 

 

・自分と他人の区別がつかない混沌

深刻なのは、自分と他人の区別がつかないことである。おばあちゃんはデイサービスに通っているが、自分だけが介護に行くのに、他人さえ介護に行くのだと勘違いして若い周囲の人々にさえも「あんたも介護に行くの?」と聞いて回るようになってしまった。つまり介護に行くのは自分だけなのに、自分と他人の区別がつかなくなってしまい、自分も他人も同じように介護に行くと勘違いしてしまっているのだ。

これぞまさに混沌の世界だなぁとぼくは感心してしまった。自分と他人は同じものであり、同一であり、自分も他人も混ぜ合わさった混沌の世界に、おばあちゃんは足を突っ込んでいると言えよう。自分と他人の区別がつかないと、なかなか会話が成り立たずトンチンカンな世界が広がってしまうので、おばあちゃんが認知症である感が強く全面に押し出されてしまうが、まぁ実際に認知症なので仕方のないことだろう。

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・人間は混沌からやって来て、最後には混沌へと帰って行く

このように混沌を携えた赤ちゃんとしてこの世に生まれてきた人間は、結局生老病死の苦しみを経て、最後にはまた混沌へと戻って行くようにできているのだろうと、ぼくは認知症のおばあちゃんを見ていて感じる。人はどこから来て、どこへ行くのか。それは人間にとって生死を超えた大きな謎として残っているが、その答えのひとつは「混沌から来て、混沌へと帰って行く」というものかもしれない。

 

 

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