憧れは憧れのままにしておいた方がいいというのは本当か? 〜中華人民共和国、雲南省、麗江〜

 

憧れは憧れのままで、美しく心に残しておこう。

憧れは憧れのままにしておいた方がいいというのは本当か? 〜中華人民共和国、雲南省、麗江〜

・中華人民共和国、雲南省、麗江
・憧れに触れることをおそれる腕
・憧れへと導かれる旅路
・憧れを超越したところにある新しい羅針盤

・中華人民共和国、雲南省、麗江

ぼくにはずっと憧れていた場所があった。中華人民共和国、雲南省、麗江である。なぜそこに憧れるのか、まったくわからなかった。言葉にならない理由も見当たらない憧れが、ぼくの精神を支配していた。

もしかしたら前世で麗江に住んでいたのかもしれない。もしかしたら遠いご先祖が麗江から旅立ちやがて日本へとたどり着いたのかもしれない。

輪廻転生の魂の円環を辿るための術を、ぼくたちは持ち合わせていない。血の流れに逆らって遺伝子の源流へと遡上する魚に、ぼくたちはなることができない。

どんなに科学を発達させて傲慢になったぼくたちでも、自らの憧れの意味さえ掴むことができない。自らの命の正体がわからない。だからこそ美しく燃え盛るように生きていられるのだと、いつの日か知ることができるまで。

 

 

・憧れに触れることをおそれる腕

憧れという言葉と、行きたいという願いは異なる。ぼくは憧れの麗江に、行きたいという気持ちは当然あったものの、心のどこかで、この一生の中で行けなくてもいいのではないかと感じていた。憧れのものを実際に目の当たりにした時に、失望するのが怖かったのかもしれない。

もしも麗江が、ずっと思い描いていた桃源郷のような景色と異なるものだったならば、ずっと夢見ていたような美しい風景が、この世にはなかったのだと知ってしまったならば、そのような悲しみと欠乏をこの命に背負わせる前に、実際には訪れないことにより、この命を守っていたんだ。

人が実際に最も美しいものに巡り会える瞬間は、現(うつつ)という世界ではなく、夢見ている心の中に閉ざされているのかもしれない。自分が思い描くのと同じほどの、またはそれ以上に美しい世界が、果たしてこの現世(うつしよ)に存在するのだろうか。この現し身(うつしみ)に降り注ぐだろうか。

 

 

・憧れへと導かれる旅路

しかし思いもよらずこの一生の中で、ぼくは麗江に訪れる機会を得た。タイ、カンボジア、ベトナム、ラオスと東南アジアの周遊を経て、ラオスの北にはもはや中華人民共和国、雲南省は目の前だったのだ。これはもう、雲南省に行きなさいという天からの思し召しだと思い、素直に従うことにした。

 

 

・憧れを超越したところにある新しい羅針盤

実際に訪れた麗江は、思い描いていた以上に美しかった。本当にこの世のものとは思えないほどだ。どこまでも立ち並ぶ趣のある古民家たち、はるか遠くには頂きに雪を蓄えた美しい山脈が聳え立ち、山から流れ来る清らかな水は街と人々の生活を潤している。鮮やかな少数民族たちが行き交う麗江の辻には、情緒深い中国茶の店がいくつも立ち並び、古の茶馬古道の歴史を緩やかに伝えている。

ぼくはおそれに抑え付けられて、憧れを憧れのままにしなくて本当によかったと心から思った。現世(うつしよ)が、憧れに勝るということがあるということを雲南省の麗江は教えてくれた。この世に存在する麗江は、ぼくの思い描いていた夢の世界よりも伸びやかに美しかった。それゆえに麗江を歩いていると、夢の世界へと迷い込んでしまったようだった。

憧れを憧れのままで、放っておいてはならなかったのだ。ぼくたちは自らの腕をのばし、憧れへとたどり着くべきだったのだ。実際に憧れに立ち会い、もしも裏切られ傷つくという形になったとしても、夢見心地のぬるい虚無のままで一生を終えるよりも、また新しい憧れをさがす心を保つ方が幸福であるに違いない。

憧れは論理や言葉を超越した、ぼくたちの生命の羅針盤だろう。その羅針盤が清らかで正しいものであるかということを、ぼくたちは常に確認しなければならない。麗江はその直感的な憧れが、既に正しかったのだということを教え諭してくれた。そしてぼくは麗江という憧れへとたどり着き、それを乗り越え、さらに新しい憧れという羅針盤をさがし始める。

既知の憧れを超越した、新しい憧れという景色。この生命を、さらにふさわしい方角へと導いてくれる澪標。憧れを憧れのままにしておけばゆるされなかった道の上を、ぼくは今歩き出す。

 

 

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