ぼくたちは死なないために生きているというのは本当か? 〜死に近い海は命を励起する〜

 

死に近い野生の海へと、命を走らせた。

ぼくたちは死なないために生きているというのは本当か? 〜死に近い海は命を励起する〜

・宮古島の海に包まれた日々
・宮古島の野生の海
・死に近い海へととけゆく
・死に近い海は新鮮な生へと翻る

・宮古島の海に包まれた日々

ぼくは宮古島に1年4ヶ月住んでいた。

ぼくは宮古島に住んでいる間、海で泳ぐのが好きだった。医師という職業柄、自由な時間を取れることも少なかったが、それでも空いた時間を見つけては呼ばれるように海へと車を走らせた。こんなにも海に触れることが好きだということを、宮古島に来て初めて知った。

もともと水泳を8年間習っていたので、泳ぐのも慣れていて水に親しみを覚える人生だったが、それでもこんなにも水に包まれていると安心するのは、すべての生命が海から生まれたからだろうか。それとも羊水の中を漂っていたはるか昔の胎児の安らかな気持ちが蘇るからだろうか。

 

 

・宮古島の野生の海

宮古島の海はその他の海水浴場のような海とは違う。そのまんま海の彼方へとどこまでも広がった野生の海だ。ぼくが日本で見かけた泳ぐための海といえば、ここまでしか泳いではいけませんという浮き輪が張り巡らされた、規制の深い決まりだらけの海だった。そんな浮き輪の中の狭い範囲だけでチマチマと泳いでも、生命はなんの喜びも解放も得ることができなかった。

宮古島は小さな離島なので、そこらへんを探せばすぐに無人の海岸を発見できる。当然規制や決まりをあてがわれることもなく、狭小で安全な浮き輪が張り巡らされることもなく、自由に無造作に広がる自然のままの海がぼくたちを待っていてくれる。

親はぼくが宮古島の野生の海で泳ぐことが好きだということを知ると、危険だから止めるように伝えてきたが、ぼくはそれを完全に無視した。ぼくの生命にとっては、親の安全性を強調する忠告よりも、自分の直感が自分へと直接伝える野生の海へと帰っていくべきだという思いの炎のようが重要だったからだ。

“旅を止める親鳥たちは
かばおうとするその羽がとうに
雛鳥には小さすぎると
いつになっても知らない”

未知への不安が暴走する!心配されるのがありがたいというのは本当か?

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・死に近い海へととけゆく

たしかにぼくたちは、安全性の保証された見張りの人の目が届く人工のビーチで、張り巡らされた浮き輪の四角の範囲の中で泳いでいる方が、はるかに安心だし溺れる心配もないだろう。守られた浮き輪の範囲の中にはサメやクラゲなどの海の危険生物も入ってこないし、大きな波に飲み込まれて沈む心配もないし、万が一溺れても周囲の誰かかインストラクターが助けてくれるだろう。

本当に人がただ死なないために生きているものならば、人間であるぼくはもちろん守られた安全な海に匿われて死からはるか離れた海水浴を楽しむべきだろう。それなのにぼくは矛盾するように、危険が大いに伴う、むしろ死に近い野生的な荒々しい海を好んで、この体をその海へととかしたいと願った。

ぼくはいつでも、大いなる死へと向かって泳ぎ出したかった。あらゆる生命は死を退けて、死から遠く離れて歩みを進ませたいはずなのに、ぼくの生命の炎は死をまるで親しみ深い友のように接し、死へと近づきその感触や匂いや音を感受したいと潜在的に祈っていた。

荒々しい波にも飲み込まれながら、見たこともないあらゆる海洋の生物と触れ合いながら、ぼくは波を超え、岩を超え、自分だけがたどり着ける未開の砂浜をさがしては海を彷徨い泳いだ。そしてやっと元の海岸へと帰り着いた時に、死の国から戻ってきたような、まるで生まれ変わったような心地よい疲労感に包まれるのだった。ぼくはこの蘇りの心地を伴った不思議な疲労感のために、いつも海へと向かっていたのだった。

 

 

・死に近い海は新鮮な生へと翻る

けれどぼくが海を好きな理由はとても単純で動物的だった。海を泳いで帰り着くと、とてもお腹が空く。そしてその夜はとてもよく眠れる。ぼくはその“よく食べ”、“よく眠る”というまるで子供のような生活が、生きていく上でとても嬉しいことだったのだ。

死に近い野生の海に漂い、そして生還し心地よい疲労感を得る、その疲労感が食欲と、深い良質な睡眠へと導かれていくというこのサイクルが、ぼくに心地よい生の躍動を与えてくれていた。死に近い海へといざなわれることで、矛盾するように生きる力が湧いてきたのだった。死とはぼくたちにとっての怪しい異郷ではなく、実は生にとって最も親しみ深い故郷なのかもしれない。

 

 

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