ぼくたちは蓄えるために生まれてきたというのは本当か? 〜人生に必要な貯金額〜

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貯金すれば心がひどく安心する。

ぼくたちは蓄えるために生まれてきたというのは本当か? 〜人生に必要な貯金額〜

・ぼくたちは将来の不安のために貯金をする
・自分の人生に本当に必要な蓄えの量
・未来が見えないぼくたちはピッタリ0にして死ねない
・瞬間瞬間を生き抜く生命に注がれる富
・スペイン巡礼の聖なる水

・ぼくたちは将来の不安のために貯金をする

ぼくたちは貯金をする。貯金をすると心がひどく安らかになっていくのを感じる。お金の蓄えがあれば、未来においてもしも万が一、自分の身にひどい出来事が起こったとしても、なんとか生き延びられるだろうと感じられるからだ。

今は五体満足だけど、もしも交通事故に遭って動けなくなって今まで通りに働けなくなってしまったら。今は普通に給料をもらえているけれど、もしも急に会社が倒産してしまったら。今は若いからいいけれど、もしも老後に癌になって大量の医療費が必要になってしまったら…。

ぼくたちには未来を見通す能力がない分、未来の「もしも」の不安だけが募り続けていくけれど、貯金があればなんとかその「もしも」をやり過ごせるような安心感がある。まさかのたれ死ぬことはないだろう、死んでしまうことはないだろうと、心の片隅で安堵している。

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安心感という快楽にとらえられ、貯金をすすればするほど心の中に広がる嬉しい気持ちを抑えきれずに、ぼくたちは蓄えることの虜になる。100万円蓄えられたらひとまず安心、1000万円蓄えられたらもひとつ安心、2000万円蓄えたら上出来と、ぼくたちはその数字に夢中になり達成できた自分自身を賞賛していく。

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・自分の人生に本当に必要な蓄えの量

けれど自分にとって必要なお金って、一体何円なのだろうか。自分の人生に本当に要るお金って、本当のにそんなに高い額なのだろうか。

自分の人生に必要なお金がまったくわからず見当もつかないから、ぼくたちはできるだけ多くのお金を蓄えようと努力する。もしかしたら100歳まで生きるかもしれないし、もしかしたら大病を患うかもしれない。自分が未来で必要なお金の額なんて、まったくわからないからせっせと貯金をし、要るか要らぬかわからない高い保険に入り、質素倹約してささやかな人生を送るのである。

明日30歳で若くして死ぬことをあらかじめ知らされていたのならば、20代のうちに努力して500万円も貯める必要もなくもっと心から好きなことに散財して人生を過ごせばよかったのに、人はいつ死ぬのかわからないからもどかしい。健康で90歳まで生きてポックリ死ぬからお金もそんなにかからないことが初めからわかっていたならば、無理して質素倹約して人生で5000万円も貯金せずにもっと心から望むことに財産を注ぎ込んで人生を輝かせることもできたのに、もしかしたら大病を患ってしまうかもしれないと、未来に不安を抱くから人の心は悩ましい。

 

 

・未来が見えないぼくたちはピッタリ0にして死ねない

望むならば、死ぬ時に価値がピッタリ0になればいいのに。自分が努力して1000万円貯金したのならば、ふさわしく自分のためにそれを使ってその合計がちょうど1000万円で、1000万円使い切ったときにたまたまポックリ死んでしまえれば人生は幸せだろうに。無理して2000万円を貯める必要もなかったのだ、堕落して500万円しか貯金しない人生ではダメだったのだ、ちょうどいい頃合いで1000万円が必要な人生で1000万円を貯金してきた自分の人生は、無理をしすぎず堕落もしすぎず、ピッタリいい塩梅で正しかったのだと、胸を張って死ぬことができるのに。

未来が見えないぼくたちは、できるだけ多くを蓄えるしか不安を拭い去ることはできない。そんなに努力して蓄えなくてもよかったのにと後から言われても、今を生きるぼくたちにはそれが聞こえない。もしかしたら、もしかしたらと未来の不安に激しく絡め取られ、予想もつかずに、必要もないほどの多くの富を蓄えて、今自分のために本来使えた分をまったく使えずに、悔しい思いを抱きながらこの世から消えていく。

 

 

・瞬間瞬間を生き抜く生命に注がれる富

いっそ蓄えなんて手放してしまえれば、どんなにか楽だろう。未来へのおそれを手放して、果てしない不安を退けて、所有するという執着からはるかに離れて、今だけを生きることを実現できたならば、人生はどんなにか透明になれるだろう。過去を後悔することもなく、未来を思い煩うこともない、その境地に立てたならば、人はふさわしく生きられるのだろう。

ぼくたちは未来を生き延びるために生きているわけではない、未来で死なないために生きているわけではない、未来という蜃気楼の正体を悟って、今という時代を炎を燃やすように生きているのだということを知る時、この命が本当の輪郭を取り戻し始める。未来という時制は、未来を思い煩った結果としてごく自然と与えられるものではなく、今という一瞬の時代を燃えるように生き抜いたあとに、膜を押し上げるように内側から出現する生成物なのではないだろうか。

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自らのこの命に必要な富の量も推し量れずに、人々は自らの愚かさに苦しんでいる。けれど自らの命に必要な富の量は、預言者のように未来から与えられて教えられる規定値ではなく、瞬間瞬間を必死になって生き抜いた末に定められる自らの生き様の結果ではないだろうか。瞬間瞬間を命の限り生き抜く魂を得るならば、その都度富は必要な分だけ自然とその命に注ぎ込まれるだろう。

 

 

・スペイン巡礼の聖なる水

ぼくはスペイン巡礼の道を800km、32日間かけて毎日休まずに歩いた。その日の巡礼の朝に気になるのは、持っていく水の量だ。水はすごく重い。もしも今日必要な水の量があらかじめわかっていれば、本来必要のない分の水を携えて、余計な重さを背負わなくていいのにといつも考えていた。

今日が快晴ならば汗をたくさんかくので大量の飲料水が必要だ。これでは足りないかもしれないという不安を抱えながら巡礼の道を行く。逆に曇りで風が強ければ、涼しいので汗もかかずに多くの水を必要とせずに、余計な水まで背負って巡礼することになる。こんなに多くの水なんて要らなかったのにと後悔する。険しい巡礼の道では荷物はなるべく軽くするのが鉄則だ。けれど未来を見通せないぼくたちは、いつも今日必要な水の量がわからなかった。

しかしそんなに未来を思い煩わなくても、水の量が多くても少なくても、ぼくたちは険しいスペイン巡礼の道を生き延びられたし死ななかった。今歩いているという地点をしっかりと見据えて、一歩一歩自分の足だけに集中して前へと歩み出せば、水が足りない時には巡礼の道に自ずと与えられるし、水が多すぎる場合にはその都度大地へと返し手放せばよかった。そうしてぼくたちは身軽にもなれたのだ。

いかなる巡礼の道でも必要に応じて水は運命として与えられること、そして過剰な場合は手放すことができること、それを今を生きるぼくたちが感じ取れることが、ぼくに人生の富を考察させるに至った。スペイン巡礼における水は、人生における富と同じい意味をはらんでいたのだ。

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