日本人を社会に都合のよい思考停止した部品にするための3つの仕組みを徹底解説!人間は部品になるべきだというのは本当か?

 

ぼくたちは誰もが「部品」ではなく「全体」だ。

日本人を社会に都合のよい思考停止した部品にするための3つの仕組みを徹底解説!人間は部品になるべきだというのは本当か?

・日本人が社会に都合のよい部品にさせられる3つの仕組みを徹底解説
1目上目下で裁かれる儒教と敬語のシステム
2他人の目を気にしすぎる日本の相互監視社会
3自己制御や我慢が素晴らしいという植え付け
・中島みゆき「能書き」
・中島みゆき「エコー」
・「全体」として生きる自分自身を取り戻す日

・日本人が社会に都合のよい部品にさせられる3つの仕組みを徹底解説

ぼくたち人間は、自我を持ちながら生活している。自我を持つということは、他人とは違う自分というものを認識し、その自分のことをいちばんに考え、大切に慈しみ保護しながら人生を歩むようにできているということだ。

その一方で、人間は群れの中で生きる社会的な動物である。人間はひとりでは生きていくことができずに、様々な自分ではない他人と関わり合いながら、お互いがお互いの役割を持ち支え合うことによって生活を成り立たせる。

ぼくたちの内側にある自我は、自分自身を最も大切にしなさいとぼくたちに教えてくるが、人間社会は逆に、自分自身ではなく他人や人間集団のことを最も思いやって生活すべきだと知らず知らずのうちに強制してくる。人間社会にとっては、人間個人の幸せよりも、それを我慢して得られるところにある集団としての幸せの方が、都合がいいし利益になるからだ。

人間社会はいつも人間個人としての幸福をなるべく抑え込み、個人のエネルギーを人間集団の利益や幸福へ貢献させようと、様々な恐れや常識や制度を人間に対して植え付けてくる。ぼくたち人間は自我が求めてくる個人的な幸福と、社会が求めてくる集団としての幸福の狭間で揺れ動き、矛盾に引き裂かれるようにして生活して行くしかない。

人間集団にとって嬉しいことは、それぞれの人間個人が、思考停止したおとなしく従順な部品としてこの世の中で生きていってくれることだ。ぼくたちは「全体」としてこの世界に生まれついたのに、次第に精神を削られいつしか人間集団にとって都合のよい「部品」へと作り変えられる。それにすら気付かずにこの世の中を生きている人は非常に多い。

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ここではぼくが日本で生まれ育って観察してきた、日本人が日本という社会や国家に都合のよい部品となるようにどのように誘導されているか、そのシステムや制度を3つ紹介しようと思う。ぼくが自分自身で日本民族や日本社会を見てきてまとめたオリジナルのものなので、間違っていたりもっと別の植え付けがあるぞという意見もあるかもしれないが、そのような場合は学びのために教えていただきたい。ではどうぞ!

 

 

1.目上目下で裁かれる儒教と敬語のシステム

「儒教と敬語」の違和感や危険性というのは、ぼくがこのブログ「みずいろてすと」で散々語り尽くしてきたテーマである。

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ぼくたち日本人はこの世には目上と目下というものがあるのだと、いきなり中学1年生で教えられる。1つでも学年が高かったり、年齢が上だったり、先生だったりするとそれは必ず自分よりレベルが上の「目上」だと見なさなければならないと宣言され、さらにその目上に尊敬の気持ちを表現するために、わざわざ言語形態まで変化させて「敬語」というもので会話しなければならないと徹底して教え込まれる。そしてそれができない者は日本社会では抹殺されるだろうと言わんばかりに、強制力の大きな植え付けだった。

すべての人々が平等であるはずのこの社会で、意味不明な根拠で目上と目下に分けられ、目下は目上を必ず敬わねばならず、さらに目下は目上になるべく逆らわず自分の意見も主張せずに、大人くし従順な態度で目上の言うことにただ従って生きているのが、人間の大人としてふさわしい態度だという思い込みは日本社会に蔓延している。

これは日本では当たり前の風景だが、よくよく考えてみればこんなにも馬鹿馬鹿しい制度があるだろうか。せっかく自分というものを持ってこの世に生まれついたのに、自分の思いや意見も主張表現できずに、ただただ奴隷のように部品のように、上から言われることを素直にこなすことが素晴らしい人間だなんて、そんな間違いだらけの認識は即刻破壊すべきではないろうか。本当は誰もが自分なりの意見を主張し、自分なりの感性を自由に表現し、それをぶつけ合うことで素晴らしい国や社会を形成していくことが、人間としてふさわしい態度ではないだろうか。

しかし儒教と敬語のシステムが、その真逆へと日本人を突き進ませる。なぜならその方が、国家や社会や権力者として都合がいいからだ。本当は下でもないのに目下だと植え付けられた者たちが、自分の意見も持たずに思考停止し、ただおとなしく従順に権力者の言われた通りのことだけをしてくれる、ロボットのような社会の部品になってくれた方が、都合よく人間たちを支配しやすいに決まっている。ぼくたち日本人は「儒教と敬語」の持つ異様さと恐ろしさに、そろそろ気がつくべきではないだろうか。それとも中学校や部活で散々植え付けられた観念だから、今さら修正不可能だろうか。

 

2.他人の目を気にしすぎる日本の相互監視社会

世界中を旅して思ったのが、日本人って他人のことをいちいち考えすぎではないだろうか。もちろんそうじゃない人もいるかもしれないが、全体的な傾向として他人の目をあまりに気にしすぎているのではないかと感じられるのだ。

人間ならば誰でも、自分がこれをやりたいという願いや欲望を持っている。普通ならば「自分がこれをやりたいんだ!」というシンプルなその思いを理由として、人間は行動を引き起こしていくものだと思われるが、日本人の場合はこれに「他人にどう思われるのだろうか」「他人の目から見てこれってどうなのだろうか」「他人におかしいとか、異常だとか、恥ずかしい奴とか思われないだろうか」「いい年をして何してるんだと思われないだろうか」「失敗したら笑われるんじゃないだろうか」などとめちゃくちゃ他人にどう思われるかを気にして、自分を制御したり我慢したりする傾向があるように思われる。

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そして本当はやりたいのに自己制御や我慢したストレスが溜まり、今度は他人をストレスのはけ口として陰で悪口を言い放ったりするのだ。他人の目を気にして自分を制御し、その結果としてストレスが溜まって、他人にストレスをぶつけるのでは、なんとも悪循環な社会の仕組みではないだろうか。そしてあまりにも他人に翻弄されすぎではないだろうか。自分の人生を背負ってくれるわけでもあるまいに、他人の目なんて気にせず無視して、ぼくたちは「自分がやりたい」というシンプルな思いだけで行動を起こすべきではないだろうか。

互いが互いの目を気にして、互いが互いを監視する日本の習慣的な「相互監視社会」は、実は個人の願いや行動を制御するのに大いに役立っているのかもしれない。本当は人間個人がそれぞれに思いのままに自由に引き起こしたい行動があるのに、それを”他人の目”という金も何もかからない不思議な監視システムで制御することによって、大きな乱れや混乱も起こらず、社会の秩序は保たれ、日本の治安は大いに守られているのかもしれない。その代わりに人間個人が自由に自らの行動を引き起こしにくくなり、思い通りの表現ができなくなる。それは個人の思いや幸福を犠牲にしてでも人間集団の秩序や平和を守りたい人間社会と人間集団にとって、都合の良い状態だと言えるだろう。いつでもどこでもお互いが他人の目を気にしていたら、生きていてもとても窮屈だし、自分の思いを他人によって常に抑え込まれているなんて、悲しい状態ではないだろうか。他人の目を気にしていて、人間個人は幸福へとたどり着けるのだろうか。

 

 

3.自己制御や我慢が素晴らしいという植え付け

上で見てきたように人間個人がなるべく我慢すること、自分を制御することによって、人間全体としての秩序や平和が生まれ、人間集団としての幸福は訪れる。しかし個人としては自らの願いや行動を無理矢理に抑え込まれ、不幸や不満を感じることも少なくはない。

「我慢する人は立派な人だ」「自己制御できる人は素晴らしい」というのは、誰もが口に出さなくても何となく日本人全員で共有している観念である。逆に我慢しない人はわがままだ、みんなのことを考えないでひとりだけ自分勝手に行動しているとんでもない奴だとみなされがちだ。しかしこれは本当だろうか。他人の目を気にしすぎて、我慢できることは立派なのだと信じすぎて、あまりに自分自身を制御しているような人間は、やがて自分の中から訪れる野生的で直感的な願いと自らの行動にひどいズレを感じ、それが膨大なストレスへと変化し、他人への攻撃的な態度や陰口へと繋がっていく。裏表のある国と人間性へと導かれてゆく。

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「我慢する人は立派な人だ」「自己制御できる人は素晴らしい」という教育で人間たちを支配できれば、確かに人間集団は秩序を形成し、おとなしく、平和な社会を形成するだろう。しかしその平和とは、人間個人の幸福や願いを無理矢理に押さえ込んだところにできる偽物の平和だ。本当の平和があるとしたなら、その中で人間は誰もが何も犠牲にすることなく幸福に暮らせるのではないだろうか。人間個人の幸福や願いを踏みにじり、抑制し、犠牲にすることでしか得られない人間集団の平和など、誰も望まない幻想ではないだろうか。誰もが自らの幸福を思いのままに追求し、幸福となり、その結果として立ち現れるところの人間全体としての幸福など実現しないというならば、ぼくたちは潔く孤独へと旅立ち、彼岸へと渡る準備を始めよう。

 

 

・中島みゆき「能書き」

”「自由」という能書きがもてはやされた頃もあったなぁ
その前は「思想」というのもあった
「平和」というのもあった
「明るい」というのが流行った頃もあったなぁ
それから「個性」というのもあった
「ゆとり」というのがとりだたされた頃もあったなぁ
「自分らしい」というのもあった

遊びだよ ないものを言い当てる遊びだ
結局どれもないものねだり
実際に人間がやることは 何の変わりもありはせんなぁ”

 

・中島みゆき「エコー」

相手が期待する言葉を返して生きればいいというのは本当か?〜中島みゆき「問う女」と「エコー」〜

”みんなそうして生きるものじゃないの
だからみんな生きていられるのでしょう
それをみんな平和と呼ぶのでしょう
みんなそれを目指してきたのでしょう

エコーだけに話し続ければ時はゆく
エコーだけに答え続ければ時はゆく”

 

・「全体」として生きる自分自身を取り戻す日

人間というものは、人間集団にとって都合のよい部品になるために生まれてきたのだろうか。ぼくたちは部品にされることによって生きる力を失い、生きる手応えを奪われ、瞳を曇らされて無能に生きることを強制されてはいないだろうか。

ぼくたちは誰もが「全体」としてこの世に生まれた。それなのにそのままでは人間集団にとって都合が悪いからと、「全体」として生きる幸福を奪い去られ、恐れや常識を植え付けられ、大人になるにしたがって社会の「部品」へと精神を改造されてゆく。しかし決して「全体」としての自分自身と「全体」として生きる幸福を失ったわけではない。失ったのではなく、隠されて、そんなものはないと見えなくされているだけのことだ。自らがしっかりと世界と対峙し、世界へと問いかけながら真剣に生き、学びと世界に対する認識を深め、聡明に暮らすことによっていくらでも「全体」としての自分を取り戻すことが可能なはずだ。

取り戻そう。人間個人の幸福を犠牲にしてでしか得られない、人間集団の幸福に何の価値があるのだろうか。それは権力者に都合のよいだけの、見せかけの、まやかしの幸福ではないだろうか。都合のよい部品である自分を置き去りにして、「全体」として生きる自分自身とその炎を取り戻した時に初めて、真実の幸福への通路は開かれる。

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