人生は一度きりだから後悔しないように好きなことをすべきだというのは本当か?

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人生って本当に一度きりなの?????

人生は一度きりだから後悔しないように好きなことをすべきだというのは本当か?

・人生は一度きりだから後悔しないように好きなことをすべきだというのは本当か?
・人生は一度きりなんてどうしてわかるのか 〜世界中のさまざまな死生観〜
・人は死んだらどうなってしまうのだろうか
・果てしなく続く魂の巡礼

・人生は一度きりだから後悔しないように好きなことをすべきだというのは本当か?

ぼくは医師として労働した後、その貯金を使って世界一周の旅に出た。なぜなら旅に出なければならないと、自らの根源に燃え盛る直感がぼくに指し示していたからだ。しかしぼくが「世界一周の旅に出ていた」という話をすると、よくそれを肯定された後で「人生は一度きりなんだから、楽しまなきゃ損だよね!」という意見をいただく。ぼくの例に限らず、世の中には「人生は一度きりだから後悔しないように行動すべきだ」という前向きな励ましの文言で溢れている。

この「人生は一度きり」というセリフは確かにまともで説得力があるように聞こえるが、ぼくにとってはとても違和感の残る怪しい言葉だ。ぼくはこの言葉を言われると「そうですよね〜」などと社交的に笑いながら受け答えしているが、それは単なる世渡りであり、心の底では全くその言葉に納得できていない。だって「人生は一度きり」だなんてどうやってわかるのだろうか。

 

 

・人生は一度きりなんてどうしてわかるのか 〜世界中のさまざまな死生観〜

「人生は一度きり」というのは前向きで明るい言葉のように世の中では見なされているが、実は「この人生が終わってしまえばそこで全ては終わってしまう」という死生観に根ざしているように思われる。この人生が終わったら、この肉体が滅んだなら、その時点で自分自身や世界に関わるすべての現象が終わってしまうと信じているからこそ、簡単に「人生は一度きり」などと言い放てるのではないだろうか。しかし果たして本当にそうなのだろうか。この肉体が終わってしまっただけで、本当にぼくたちの願いや祈りや後悔や魂までが消滅して、何もなかったのと同じことになってしまうのだろうか。

この世界にはさまざまな死生観が存在すると言われている。仏教では生命は輪廻転生を繰り返しながら幾度も生まれ変わって新しい人生を生きられると信じられているし、キリスト教でははるか彼方の未来で神様が天空から人間をみんな迎えに来てくれるらしい。日本は仏教圏ではあるものの中国的な儒教の死生観も根強いせいか、チベット仏教圏の人々のように生まれ変わりを強く信じているというよりはむしろ、自分が死んだら先に死んだ家族たちが待っている安らかな浄土に川を渡ってたどり着き、やがてはそこで死ぬ前の世界のようにまたみんな一緒に仲良く暮らすことができると信じられているような気配がある。死んだら閻魔様が地獄に行くか天国に行くか裁かれるという説もあるが、なかなか日本人に素朴に信じられているとは言い難いのではないだろうか。また同じ日本と言っても広いので、地方によってさまざまな死生観が隠されているのかもしれない。

しかしいずれにしても人生は一度きりであり、一度死んでしまえばそこでぼくたちの魂の旅がその時点で終わってしまうというのは、かなり偏狭で浅はかな価値観を伴った意見ではないだろうか。

 

 

・人は死んだらどうなってしまうのだろうか

人は死んだらどうなってしまうのだろうか。世界中にはさまざまな宗教があり、さまざまな死生観が囁かれ続けているが、実際のところ本当はどれが正解なのだろうか。その答えはもちろん「わからない」というのが最もふさわしい。ぼくたちは誰もが、死んだらどうなるか全くわからない。どんなに勉強をして世界中の知識を集めたとしても、どんなに徳を積んで精神的な崇高性を高めたとしても、結局ぼくたちの意識は”自分が生きている世界を認識することしかできない”のだから、死んだ後がどうなるかなんて絶対にわかるはずがない。

人は死んだらどうなるのか、ぼくたちが最も知りたくて最も不思議に思い最も神秘に満ちた質問に、どんなに素晴らしいと世間で称賛されている学者や偉人ですら答えることができない。ぼくたちは最も知りたい答えを、誰も知らない。他種の追随を許さないほど高い知能を持って進化したと言われる人間でさえ、所詮その程度のことしか知り得ないというのは興味深い。最も美しく神秘的な世界の秘密は、決して誰にも教えられることがないようだ。

もしかしたらぼくたちが忘れているだけで、仏教が説くように輪廻転生を何度も繰り返し、無限の数の人生を歩んでいるのかもしれないが、肉体が死んで新たな転生を果たす際にすべての記憶が抹消される仕組みになっているならば本当に前世があったのか、果たして来世へと行き着くのか、その確信を持つことは不可能だ。チベットには人が死んで次に生まれ変わりを果たすまでの道のりを詳細に描いた「チベット 死者の書」が存在しているという。ぼくも深い興味を抱いたのでAmazonで買ったDVDを見てみたが、死んだ後の魂がふさわしい形で生まれ変わるために導いてくれるようでとても頼もしい知恵だと感じた。しかしこれも本当だと確定するための術はない。本当かもしれないし、嘘かもしれない。死後の世界に関するぼくたち人間の知識や知恵は、そういった曖昧としたぼんやりしたものばかりだ。

 

 

・果てしなく続く魂の巡礼

死後の世界なんてどうなっているのか誰にもわからないのだから、結局のところ世界中に散らばった死生観の知識を獲得しつつ、その上で自分がどの死生観を信じたいかを自分自身で選択するしかないのではないだろうか。しかしその際に「人生は一度きりで終わってしまう」「もうそれ以上魂の旅路は続くことがなく、すべてが消滅してしまう」という虚しい死生観を、果たしてどれほどの人が信じたいと願うのだろうか。

ぼくが日常生活で「人生は一度きりだから後悔しないように好きなことをすべきよね!」と明るく言われて違和感を持つのは、「あなたはこの人生だけですべてが終わると信じているわけ?!」「そんな悲しいこと言うなよ!」と思わず感じてしまうからだ。

ぼくたちはこの世に生まれた、そして必ずこの世から去っていく、しかしそれですべてが終わりだなんてあまりにも救いがないのではないだろうか。あらゆる運命も、あらゆる祈りも、あらゆる後悔も、あらゆる問いかけも、あらゆる約束も、あらゆる情熱も、死んでしまったらそこで解決せずに終わりだろうか。果たされなかったら、報われなかったら、そこで何もかもがなかったことになるのだろうか。人生の中のあらゆる問題を解決するためには、この一生ではあまりに時間が短すぎる。もちろん濃厚に、深遠に世界の秘密を知ろうと努力しながら生き抜いてはいるものの、壮大な世界の秘密がたかがこの一生だけで解き明かせるとは到底思えない。

もしも輪廻転生を果たすとしても、記憶を引き継ぐことは難しいのだろう。この世で前世の記憶を持っている人がどこにも見当たらないことからも、一生を一生を超えた記憶の抹消は明らかである。それならばせめて引き継げるものは何だろうか。この一生で流した氷のような涙や、どうしようもなかった深い傷や、残酷な運命に苛まれながらも信じ続けた約束や、そこから生まれ創造し育てた救済の感触が、この一生の終わりで消えてしまうのではあまりに意味がない。

何が引き継がれるかどうかなんて誰にもわからない。もしかしたら何も引き継がれないかもしれない。けれど無力で死について何も知らないぼくたちは祈るしかない。この一生で獲得した宝石が、傷だらけになりながらも、せめて一片の光だけであっても、魂の巡礼へと伴えるようにと。

スペイン巡礼のはじまり!「フランス人の道」のサン・ジャン・ピエ・ド・ポーでやるべきことと魂の対話

 

 

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