童謡サッちゃんの歌詞の本当の意味とは?!自分のことをサッちゃんと呼ぶのはおかしいというのは本当か?

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「おかしいな、サッちゃん」に込められた思いとは?????

サッちゃんの歌詞の本当の意味とは?!自分のことをサッちゃんと呼ぶのはおかしいというのは本当か?

・童謡「サッちゃん」の1番の歌詞
・自分のことをさっちゃんと呼ぶのはおかしいというのは本当か?
・自分のことをもっくんと呼ぶのはおかしいというのは本当か?
・自分のことを「わたし」と呼ぶ人と、自分のことを名前で呼ぶ人の違い
・絶対的人間としての幼児と相対的人間としての大人
・人間社会は都合のよい相対的人間の量産を求め続けている
・絶対的幸福と相対的幸福に関する記事一覧

・童謡「サッちゃん」の1番の歌詞

日本には「サッちゃん」という有名な童謡がある。印象的な歌詞の1番は以下の通りだ。

”サッちゃんはね
サチコっていうんだ
ほんとはね
だけどちっちゃいから
自分のことサッちゃんってよぶんだよ
おかしいな サッちゃん”

 

・自分のことをさっちゃんと呼ぶのはおかしいというのは本当か?

さて、サッちゃんは何がおかしいのだろうか。おそらく自分のことを「サッちゃん」と呼ぶことをおかしいと言っているのだろう。自分のことを”ちゃん付け”で呼ぶなんておかしなことだとこの歌詞は指摘しているのだ。つまりは自分のことを”ちゃん付け”で呼ぶな、今は幼いからそれでも許されているけれど成熟した大人になったらそれでは許されないのだという人間社会の常識やルールが暗示されているようにも感じられる。確かに大人のおばさんが自分のことを「サッちゃん」と呼んでいたら驚愕するのは間違いないだろう。

それでは、なんと呼べばいいのだろうか。サッちゃんは自分のことをなんと呼べば許されるのだろう。自分のことを「サチコ」と呼びなさいとこの歌は訴えかけているのだろうか。確かに自分のことを「サッちゃん」と呼ぶよりは「サチコ」と呼ぶ女性の方が、まだ常識のあるきちんとした大人という風に感じられる。

しかし自分の名前が「サチコ」だからと言って自分のことを「サチコ」と呼ぶだけでは常識ある人間として不十分だ。本当の成熟した大人ならば自分のことを「サッちゃん」でも「サチコ」でもなく「わたし」と呼ぶだろう。この歌はおそらく自分のことを「わたし」と呼びなさいと訴える幼児の自らに対する呼び名の矯正の歌ではないだろうか。

 

 

・自分のことをもっくんと呼ぶのはおかしいというのは本当か?

ぼくの中でこの歌が印象に残っているのは、ぼくも小さい頃自分のことを「もっくん」とあだ名で呼んでいたからだ。サッちゃんが自分のことを「サッちゃん」と呼ぶのはおかしいと訴えかけるこの歌は、ぼくが自分のことを「もっくん」と呼ぶことを異常なことだと否定されているみたいで悲しい気分になった。自分のことをあだ名で呼んではいけない、自分のことを「ぼく」とか「俺」とは呼ばなければ異常な人間だという植え付けや洗脳が、この歌から幼き日のぼくの精神へ向かって漂ってきた。

しかし幼き日のぼくはなぜ自分のことを「もっくん」と呼んではいけないと否定されるのか全くわからなかった。もっくんはもっくんなのだ。なぜかといえば、みんなぼくのことを「もっくん」と呼んでいたからだ。お母さんも、お父さんも、おばあちゃんも、おじいちゃんも、みんなぼくのことをもっくんと呼んでいた。だからやっと言葉を覚えたぼくもみんなと同じようにこの人間や肉体や意識のことを「もっくん」と呼んだだけなのに、それを間違いだと指摘されるなんて納得がいなかった。

例えばお母さんやお父さんやおばあちゃんやおじいちゃんが、みんな「りんご」と呼んでいるものを「りんご」と呼ぶのはとても当たり前の自然な行為で、生まれて初めて「りんご」と呼べたときにはみんなぼくが「りんご」という言葉を新しく覚えたのだと喜んでくれたはずだ。同様にみんなが「まねきねこ」と呼んでいるものを「まねきねこ」と呼ぶことや、誰もが「月」と呼ぶものを真似して「月」と呼ぶこと、「トビウオ」という言葉を覚えて「トビウオ」と呼ぶことは賞賛されるべき素晴らしい成長だと見なされるのに、この世でたったひとつ「もっくん」に関してだけはみんなのように「もっくん」と呼ぶことを許されない行為だと否定されるなんてとても悲しいことだった。

必死にみんなに追いつこうとして、ちゃんとした人間になろうとして、「りんご」や「まねきねこ」や「月」や「もっくん」や「トビウオ」という名前を覚えてきちんと発音することができたのに、なぜか「もっくん」だけは例外としてそう呼んではいけないと説得されるのだった。

 

・自分のことを「わたし」と呼ぶ人と、自分のことを名前で呼ぶ人の違い

では自分のことを「サッちゃん」「サチコ」「もっくん」と呼ぶような精神状態と、自分のことを「わたし」「ぼく」と呼ぶような精神状態とでは一体どちらがまともなのだろうか。もちろん普通の一般的な人間からすれば自分のことを「わたし」「ぼく」と呼ぶ方が人間として素晴らしいし、常識があるし、成熟しているし、信頼できる人間像だと見なすだろう。しかしそれはなぜなのかと問われても誰も答えられる人はあるまい。それはただそういうものだと言われるがままに、思考停止して周りにつられて思い込んでいるだけの固定観念だからだ。自分自身でここから思考を始めたとして、「サッちゃん」「サチコ」「もっくん」と自分を呼ぶ人間像と「わたし」「ぼく」と自分を呼ぶ人間像にはどのような違いがあるのだろうか。

「わたし」「ぼく」というのは自分の名前ではなく、関係性を示す言葉だ。まさか名前が「わたし」さんとか「ぼく」さんであるという人はいるまい。「わたし」や「ぼく」というのは、「わたし」ではない何者か、「ぼく」ではない何者かの存在を前提として初めて成立する呼び方だ。「わたし」ではない誰かがいる、「わたし」とは異なる誰か、絶対に「わたし」にはなれない誰か、「わたし」と対立するところの誰か、「わたし」とはかけ離れたとことにいる誰か…「わたし」ではない誰かを意識し、その人は絶対に「わたし」にはなれないのだと悟るとき、人間の中に「わたし」という一人称が誕生する。

「わたし」とは、「わたし」ではない何者かを徹底的に否定したときに立ち現れる自分自身の感触だ。だからこそ自分を「わたし」と呼ぶためには、自分ではない何者かが常に必要となる。自分ではない何者かの存在を自分ではないと否定したときに初めて「わたし」は出現できるからだ。言い換えれば「わたし」とは、「わたし」ではない徹底的に否定された何者かによって存在を保たれている儚くも脆い存在だ。「わたし」ではない誰かとの関係性が断ち切れたときには消滅してしまう相対的な自分自身の正体が「わたし」であると言えるだろう。

それに比べて「サッちゃん」「サチコ」「もっくん」というのはその人の名前そのものだ。お母さんも、お父さんも、おばあちゃんも、おじいちゃんもそう呼んでいるところの、「りんご」や「まねきねこ」や「月」や「トビウオ」と同様であるただの人間の名前だ。机の上にある果物を「りんご」と呼ぶように、店先に飾られた動物の像を「まねきねこ」と呼ぶように、天空に浮かぶ黄色い丸を「月」と呼ぶように、海原を駆ける不思議な飛翔体を「トビウオ」と呼ぶように、ただそのように純粋な気持ちで、なんらかの関係性やしがらみなど一切意識せずにまっすぐな心で、そこにいる人間のことを「サッちゃん」「サチコ」「もっくん」と呼んでいるだけなのだ。

つまり「サッちゃん」「サチコ」「もっくん」とは、絶対的な自分自身である。「りんご」は何が起きてもそこに「りんご」として存在しているように、「月」がどんなに時代が経っても天空に「月」として変わらず君臨しているように、「サッちゃん」も「サチコ」も「もっくん」も何者にも左右されない絶対的な存在としてただそこにある。「わたし」や「ぼく」のように「わたし」ではない何者かを必死に否定することによってかろうじて存在を成り立たせているもの、もしも「わたし」ではない何者かを認識することに失敗したらたちまちにして崩れ去ってしまうような不安定で脆い概念ではなく、「サッちゃん」も「サチコ」も「もっくん」も他者との関係性によって存在を成り立たせていない分、ただそこにいてただ存在している分、強固で頑丈な人間像としての圧倒的絶対感がそこにある。

 

・絶対的人間としての幼児と相対的人間としての大人

自分のことを「わたし」「ぼく」と呼ぶような人はどうしても他者を意識せざるを得ない相対的な人間になってしまう一方で、自分のことを「サッちゃん」「サチコ」「もっくん」と名前で呼ぶ人は絶対的な人間性を保っていられる。考えてみれば「サッちゃん」「サチコ」「もっくん」などと自分を名前で呼ぶのは大抵幼児であり、自分のことを「わたし」「ぼく」と呼ぶのは大抵幼児から成長を遂げた大人だ。

幼児とは絶対的な存在である。自分が世界の中心だし、自分が一番偉いし、自分が世界中から愛されるべきだと心から信じられる、幼児的万能感を保っていられる時期だ。しかしそこから人間社会の中で並べられ、比較され、数値化され、人間という存在は絶対的な存在から相対的な存在へと移行する。自分はあいつよりイケメンではない、自分はあの人より頭が悪い、自分はあの人より背が低いなどと、さまざまな残酷な比較にさらされては、相対的人間像は完成していく。人間はもはや、他人との比較なしに自分を語ることができなくなっていく。そのように、人間社会が仕組んでいるのだ。「サッちゃん」「サチコ」「もっくん」の呼び名から「わたし」「ぼく」の呼び名への移行は、そのまま幼児的万能感、絶対感を喪失し、相対的人間へと取り込まれたことを意味しているのではないだろうか。

 

 

・人間社会は都合のよい相対的人間の量産を求め続けている

絶対的人間と相対的人間の、どちらが素晴らしいのだろうか。絶対的人間は常に自信に満ちあふれ、他人を意識することが皆無だから比較されて落ち込んだり嘆くようなこともない、絶対的な幸福を約束されている存在だろう。しかしその一方で、他者を意識しない分協調性がないという可能性も高い。人間は社会的生物であり、互いに協力しないと生きていけない人間社会において協調性のないことは「欠点」だと定められるはずだ。

一方で相対的人間は、常に他者との関係の上で成り立っている。あの人と比べて自分は勝っているとか、あの人と比べたら自分がなんて出来損ないなのだろうと、比較する対象によって自分という存在が波のようにグラグラと揺れ動き落ち着きがない。自分が感じる幸福も他人と比べることでしか得られないから、比べたり意識する人によって幸福感は左右され、自分が幸せなのか不幸なのかわからないまま心を惑わせながら人生を生きることになる。不動の絶対的幸福感を味わっている絶対的人間の方が圧倒的に安定した平穏な心を保ちながら生きられるだろう。その一方でいつも他人と比較している相対的人間は、他者との関わりの中で生きていくべき社会的生物としての人間にとってとても都合のよい存在だ。他人を意識し、他人と比較し、それに合わせて自分を柔軟に対応させることによって上手に世渡りし社会で生きていくことが可能だろう。

「サッちゃん」という歌詞が「サッちゃん」と呼ぶのは異常だ、おかしい、大人になったらちゃんと「わたし」と言うんだよと暗に訴えかけてくるのは、まさにサチコを、ひいては自分を名前で呼んでいる日本中の子供たちを、絶対的な存在から相対的な人間へと引きずり下ろすための罠ではないだろうか。どうしてそんなことをしなければならないのか、理由は簡単だ。絶対的人間は協調性がなく、他者を気にもせず、自分自身で思考することによって自らの人生を切り開き、人間社会(集団)の中の部品としてうまく作動しにくいのに対して、相対的人間は人間社会によって都合がよく、扱いやすく、思考を停止させておとなしく従順な部品として作動させるのに大いに役立つからだ。

人間社会にとって必要なのは、個人の幸福を犠牲にして集団の利益を貪るというシステムの部品として重要なのは、いかにして絶対的な人間たちを都合のよい相対的な人間に転換させるかだ。自分のことを「サッちゃん」と呼んでいる幼児のサッちゃんも、やがては成熟した大人になり自分のことを「わたし」と呼びながら相対的な人間の仲間入りをするだろう。それは自然な成長で仕方のないことだが、しかし心の中で自分を「サッちゃん」と呼び続けるか、心の中でまで「わたし」と呼び自分を相対的な人間に引きずり下ろすかで、サッちゃんの人生も変わってくるのではないだろうか。

どうかこの歌に惑わされず、絶対的な人間像を保ってほしい。真実の幸福は、孤独な絶対的人間の感性によってしか成し遂げられないものなのだから。

 

 

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