儒教は中国からやってきた。
儒教を生んだ国!中国には敬語がないというのは本当か?
・ぼくたちの生活を取り巻いている儒の思想
・古代中国からの儒の思想に支配される抹消の国々
・中国語を学んでも敬語が一切出てこない謎
・中国人に実際に中国語には敬語がないのか聞いてみた
・ぼくたちの生活を取り巻いている儒の思想
今なお日本を潜在的に取り巻き支配している儒教の観念は、もともと古代中国で生まれた。儒教の思想を知るには孔子の「論語」が適切だと言われているが、「儒」という思想そのものや感性自体は孔子のずっと前から古代中国に根付き存在していた民俗的なものの考え方である。
「儒」の感性や死生観は今でも日本のぼくたちの社会に根深く浸透し、ぼくたちの心の動きを支配している。ぼくたちは日本人の感性という自分自身の正体を本当に突き止めたいと願うならば、儒教の洗脳の追求を避けて通ることはできない。
・古代中国からの儒の思想に支配される抹消の国々
偉大な古代中国で生まれた儒教の考え方は、時代が経つにつれて末梢の東アジアの国々にもその影響を及ぼしていった。その東アジアの国々のひとつは言わずもがな我が国日本であり、その他には韓国、台湾、ベトナムなどが含まれている。いずれもかつては漢字文化圏の国々であり、ぼくたちは漢字を教えてもらうと同時に儒教の思想さえ受け継がれていたようだ。
日本の社会では平等であるはずの人間を目上目下で分け隔てるシステムが横行しており、そのシステムに従って尊敬を表現するためにわざわざ言葉の形態まで変える必要がある。
韓国語をよく聞いていると、よく彼らは「〜ニダ、〜ニダ」と話しているが、これは韓国語における丁寧語の言葉のようだ。日本語でいうと「〜です」ということになる。韓国も日本と同様に、いや日本以上に濃厚に儒教の思想に支配され、日本と同じように言葉の形態さえ変えて尊敬の表現を強要される文化のようだ。
・中国語を学んでも敬語が一切出てこない謎
しかしぼくが疑問に思ったのは、日本や韓国のような東アジアの抹消の地域には儒教の目上目下の観念から来る敬語の観念が残っているのに、大学で中国語を学んだ際には、一切敬語を学ばななかったということだ。
もしかして中国語には敬語がないのだろうか。儒教の観念を発明し、さらにそれを抹消の国々まで伝え運んだというのに、目上目下というおかしな観念が言語体系として日本や韓国などの抹消の国々にのみ残っているなんて、こちらからすれば大迷惑な話である。
この目上目下の観念や言語体系がなければ、ぼくたちはもっと生命と生命をぶつけ合い美しく火花を散らしながら本音を語り合い生きられたのかもしれないのに、古代中国からの思想のせいで嘘や偽りや体裁ばかりの後ろ暗い世の中が形成されてしまっている。せっかく言葉や考えを持ってこの世に生まれてきたのに、目上にならば自分の意見を言うことさえもゆるされない。せっかく生命をもらってこの世を生き抜いているのに、ただ従えばいい都合のよい部品のように見なされやすい浮世。
このような世渡りばかりで生命の本質や世界の真理を教えない思想の種を末梢の国々にだけ植えつけておいて、当の自分は敬語を言語体系の中から捨ててしまっているとはどういうことだろう。
・中国人に実際に中国語には敬語がないのか聞いてみた
大学で中国語を学んだときも、独学で中国語を勉強したときも、やはり敬語は出てこなかった。中国語に敬語がないというのは本当だろうか。ぼくは日本に住んでいる中国人の友達に直接聞いてみた。
すると彼の回答は、やはり中国語に敬語はないということだった。やはりないのだ。古代中国から脈々と儒教の観念は伝わってきたのに、現代の中国には敬語がないなんて摩訶不思議である。もしかして昔はあったけれど、文化大革命ですべて滅んでしまったのだろうか。それとも儒教と敬語というものはそもそも関係のないものなのだろうか。
彼が言うには、敬語らしいものは一応ありそれは「謙遜」のようなものであるという。たとえば中国人のお父さんは自分の息子を目上に紹介するときには「犬のような息子」と紹介するようだ。これは日本語でいう「愚息」のような感じだろう。
日本語には丁寧語、尊敬語、謙譲語と多種多様な敬語があり、それをいちいち使い分けて言語生活を営んでいるというのに、儒教を生んだ中国語には簡素な謙遜しかないというのはお気楽なものである。日本は敬語という制度によって、人間同士の関係におかしな機能不全がたくさん生じ健全な人間の生命活動の妨げとなっているとぼくの目には見えるが、儒教を生んだ当の中国では敬語の言語的制度はなく、そのような心配はなさそうだ。