武士は人殺しをしても罪悪感を感じなかったというのは本当か? 〜武士が僧侶になる時〜

 

暴力や人殺しが得意な人間が、今も昔も世界を支配できる。

武士は人殺しをしても罪悪感を感じなかったというのは本当か? 〜武士が僧侶になる時〜

・日本には武士の時代があった
・今も昔も暴力が得意な者が世界を支配する
・武士は人殺しをしても罪悪感を感じなかったというのは本当か?
・日本昔ばなし「対馬の赤牛」に見る武士が僧侶になる心理

・日本には武士の時代があった

日本には武士が天下を取り、政治的権力を握っていた時代が存在していたことは、日本史を学んだことのある全ての日本人なら誰もが知っていることだろう。鎌倉時代から江戸時代にかけて、日本は武士に支配されていた。

武士とか侍とかもはや遠い昔の話であり、当然今生きているぼくたちの周囲に武士や侍などいないのでどのような人々だったのかいまいちよく分かりにくいが、武士はみんな刀を持ち、何やら戦さを主に頑張っていたというようなイメージがある。実際には戦さ以外の時には公務員のような仕事もしていたようだが、ぼくたちが脳内に思い浮かぶ「武士」の姿というものはいつも、刀を取り出したり馬に乗ったりして敵に向かって切り掛かっていくような、荒々しく勇敢な姿である。これはテレビの影響だろうか。

 

 

・今も昔も暴力が得意な者が世界を支配する

戦国の世、武士の時代というと戦いが強ければ天下を取れるという時代だったようだ。戦いが強ければ天下を取れるということは、もっと具体的に言えば暴力や戦争や人殺しが得意だった者たちが国家を掌握できたということだ。日本史で戦国時代の歴史を学んでいる時でも、織田信長や豊臣秀吉や徳川家康が天下を取ったと聞いても嫌なイメージなど一切なく、むしろ誇り高き英雄のような印象が強かったが、暴力や人殺しが得意だったと言い換えると、そんなにいい人たちだとも思えないから不思議だ。

そんな暴力や人殺しが得意な人々に力で押さえつけられて支配されるような野蛮な昔の世の中に生まれなくてよかったと感じそうになるが、しかし実際のところ今の世界もそう変わらないような気がするのは気のせいだろうか。今の時代だって人間たちは戦争を引き起こし大いに争い合っているし、実際に第二次世界大戦で日本が悪者になっていることだって日本が暴力や人殺しが苦手だったから敗戦したことが原因だろう。歴史なんていい加減なもので、もし日本が勝っていたならば日本は正しくアメリカは間違っていたと認識されるだろうし、人間の掲げる正しさや間違いなんて深く考える価値もない偽物だろう。

暴力や人殺しが得意な国家が正しさを作り出し世界を掌握していくという点では、今の人間の世界は、戦国時代や昔の野蛮と言われている時代と全く変わらないのではないだろうか。

 

 

・武士は人殺しをしても罪悪感を感じなかったというのは本当か?

ぼくが気になったのは、暴力や人殺しは一般的には悪いことだと言われているのに、それらが得意であることによって英雄になれ国家を支配できるが、彼らは暴力することや人殺しすることに罪悪感などはないのだろうかということだ。とにかく強くなり、暴力的になり、人殺しが上手になり、その先で勝ち続けて英雄になれるというのならば、暴力して痛めつけた人々の心も、人を殺して流してきた血の色も、すべてなかったこととして記憶から抹消させのうのうと民衆を支配しながら朗らかに楽しく生きていくことができるのだろうか。今の世の中では人殺しが最も重い罪だと見なされているにも関わらず、その人殺しが思いのままに幸福に国家を支配していいのだろか。

武士にとって戦さや人殺しが最も重要な仕事だというのなら、そんな自分の仕事に罪悪感など感じるのはおかしな話だ。やはり今の常識とは違い戦国の世では、人殺しもたいして大きな罪でもなく、倫理的にも今ほど悪質なものではなく、天下を取るためならば仕方のないことと許容されていたのだろうか。人殺しが大きな罪であるという今の時代の認識の方が、むしろ珍しいものなのだろうか。

学校の授業で日本史の武士の歴史を勉強していても、英雄的な武士を天下を取った者だと祀り上げるだけで、その人の細かな心情や人間性が全く伝わってこないのが残念だ。本当は人間にとって、そちらの方が重要な項目ではないだろうか。武士はたくさん人を殺して頂点に上り詰め、そのことについて罪悪感を抱いているのか、全く悪いとも思わずに権力を謳歌していたのか、授業を受けているだけでは全くわからない。

 

 

・日本昔ばなし「対馬の赤牛」に見る武士が僧侶になる心理

ぼくに武士の生々しい心情を押してくれたのは、学校の授業ではなくなんと「日本昔ばなし」だった。それは「日本昔ばなし」の「対馬の赤牛」という物語である。

昔々、伊豆の対島(たじま)というところに福泉寺という破れ寺があった。その破れ寺を訪れた者は次々に跡形もなく消え失せ、村人たちは寺の池の主が池に引きずり込んだのだと噂し合った。あるとき旅の坊さんが田島を訪れ、修行のため福泉寺に泊まることを決めた。化け物が出るから行ってはならないと止める村人に「私は命に執着しておりませんので」と言い放ち、福泉寺へと向かった。「一晩を寺で明かしてその化け物の正体を見極めましょう」

坊さんは一晩かけて経文を読んでいた。すると池から「赤牛」という化け物が出てきて坊さんに語りかけた。「私はこの対島の大池に住む赤牛じゃ。魔界の者として生まれてこの方数えきれぬほど人を殺生して参った。そうして千年もの年月の間、人間のしかばねの上で暮らしてきたのだ。じゃがここへきてもう殺生がいやになった」と赤牛はその正直な気持ち坊さんに打ち明けた。すると坊さんはその代わりに、自分の身の上話を始めた。

「わしとて出家を思い立ったのは、戦で多くの人を殺したがためじゃ。あの時のわしの姿は魔界の者の姿であったろう、血に飢えた者であったろう。そして怯え引きつった顔を見ると、遠慮なく命を奪った。それは際限のない地獄じゃった。主君の命令とはいえそれは許されるものではなかった。それも自らの殺生よりも人を動かしての殺生じゃったのじゃから。今は出家し仏に帰依して亡き人々の供養をしておる身じゃ。そなたとわたしは同じ悩みを持つ者同士、それがここに相立つとは何かの因縁じゃ。これも仏の御心によるものじゃ。」

お互いを信頼した赤牛と坊さんは共に夜を徹して「ナミアブダブツ」と唱え続け、赤牛は御仏の御慈悲によって発心し、やがて浄化された。

この物語はぼくたちに、戦や人殺しを仕事とする武士にも人の心があり、人殺しを罪だと感じる倫理観があり、それゆえに出家して死んだ魂たちの供養をするほどに罪深さを心に刻んでいる武士もいたということを教えてくれる。このように人を殺めた罪深さから出家を選んだ武士は意外と多かったらしい。人はどのような荒々しい乱れた世においても、人殺しは罪だという心を忘れない生き物のようだ。

 

 

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