中島みゆきの恋愛観とは?!夜会の中で中島みゆきは男と結ばれて幸せになれないというのは本当か?

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幸せになんか、なっちゃいけないんですわたし!!!!!

中島みゆきの恋愛観とは?!夜会の中で中島みゆきは男と結ばれて幸せになれないというのは本当か?

・夜会の中で中島みゆきは男と結ばれて幸せになれないというのは本当か?
・夜会Vol.7「2/2」
・夜会VOL.13 「24時着 0時発」
・夜会VOL.14 「24時着 00時発」
・夜会Vol.20「リトル・トーキョー」
・「悪女」
・「霙の音」
・夜会や楽曲に共通して見られる中島みゆきの恋愛観とは?

・夜会の中で中島みゆきは男と結ばれて幸せになれないというのは本当か?

中島みゆきの「夜会」とは、中島みゆきが作詞、作曲、脚本、歌、主演のすべてを務める世界でも類例を見ない音楽劇だという。夜会は1989年に始まって以来、これまでに20の演目が開催されている。ぼくが昔の映像作品から最新作の夜会「リトル・トーキョー」までの夜会をすべて鑑賞して感じたことは、夜会のストーリーにはある法則があるのではないかということだ。

確かにひとつひとつの演目のストーリーは時代も場所もバラバラで特に統一性はなく、全くなんの関係もないように見えるが、それぞれの物語に通底している思想を覗き込んでみると、ある共通点を見出すことができる。それは中島みゆきが演じる役が、最後の結末の場面には”幸せ”にはならないということだ。

「幸せ」って言ったって抽象的な概念なので何が幸せなのか断言しにくいが、世間一般で言われているような、男と結ばれて結婚して末長く一緒に暮らすという意味での”幸せ”には決してならないという意味だ。中島みゆき自身が幸せになるというよりもむしろ、中島みゆきが他者が幸せになれるよう手助けをし、幸せへと導いて消えてゆくというような描写をしていることが多い。ここではその例を見ていこう。

 

 

・夜会Vol.7「2/2」

「幸せになんか、なっちゃいけないんですわたし!」というセリフが印象的な夜会Vol.7「2/2」では、主人公の莉花(りか)が幸せなろうとすると、無意識に自らそれを妨げる行動をとってしまうという呪いにかかっている。その呪いの原因が、遠い昔の幼い頃、叔母さんによって語られた「ヒトゴロシ」というたった一言による心の深い傷だったことが判明する。実は莉花は茉莉(まり)という双子の姉とお腹の中で一緒だったが、出産で最初に出てくる莉花が難産だったばかりに、もうひとりの茉莉が死んでしまったというのだった。

しかしそれは完全なる嘘で誤解なのだと、他ならぬ死んでしまった茉莉自身が幽霊として登場し莉花に説明することで、莉花の呪いは浄化されていく。そして結局莉花は彼氏と結ばれるのだが、この最後の場面が面白い。中島みゆきは最初〜ほぼ最後までは妹の莉花の役だったので、そのままいけば彼氏と幸せに結ばれる役を演じられたはずなのだが、最後の場面だけ中島みゆきは姉の茉莉の役に変わってしまうので、莉花を浄化し幸せへと導いた後、幸せなふたりを見届けて成仏してひとりきり消えていくのだった。

ぼくの言いたいことが伝わるだろうか。ストーリー的には、夜会「2/2」は最後には男と結ばれて幸せになるという物語なのだ。しかし中島みゆきは男と幸せに結ばれる役ではなくむしろ、妹が男と幸せになることを手助けする姉の役割を果たして、舞台の真ん中で堂々と抱きしめ合う幸せな2人を見届けて、ひとりで裏へと消えていくような役なのだ。妹を幸福へと導くことに成功した姉の役なのだから、男と結ばれるという妹よりもさらに高次元の幸福を享受している可能性はあるが、男と結ばれて末長く一緒になるという”世間一般的な幸せ”を、中島みゆきは演じないのだ。

 

・夜会VOL.13 「24時着 0時発」

次の例は、夜会VOL.13「24時着 0時発」だ。中島みゆき演じる主人公のあかりは、最初の場面では籍は入れていないものの男と一緒に質素に暮らしているのだが、そこから一気に不思議の世界へと迷い込み、紆余曲折あって現実世界へと戻ってきたときには、元の世界とは異なる少し違ったズレた世界へと帰ってきてしまったことに気がつく。最後の場面、戻ってきた部屋には男はおらず、一緒に男と暮らしていたこともなかったことになっている。その代わり元の世界では貧しい暮らしをしていたあかりだが、帰ってきた世界でははるかに高級な部屋に住んでいるような印象で、経済的には成功しているように見えた。

異界へと迷い込み、帰ってきたときには少し違った世界だったというシナリオは、日本の伝統芸能である「能」の物語そのものである。夜会「24時着 0時発」では最初は男と暮らしていたにもかかわらず、最後の場面では男と暮らしていたことは全くなかったことになっている、独身の世界へと移行した結末となっている。中島みゆきの役は、男と結ばれるという結末にならないように決められているのだろうか。

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・夜会VOL.14 「24時着 00時発」

夜会VOL.14 「24時着 00時発」は夜会VOL.13 「24時着 0時発」の再演だが、最後の場面はやや異なる。不思議の世界から帰り着いた世界では、主人公のあかりはVOL.13 「24時着 0時発」とは異なり、元の世界と同様に男と一緒に暮らしている。しかも男と一緒に暮らしていることは変わらないのに、経済状況もよくなり豊かな暮らしをしているように見える。

中島みゆきの役もやっと男と結ばれて幸せになれるのかと思いきや、最後の場面であかりを演じているのは中島みゆきではない。なんと不思議の世界へ行っている間に、あかり自身とあかりの影が入れ替わってしまい、最後の場面で男と幸せに暮らしているのを演じているのはそれまでずっと影を演じていた香坂千晶さんである。最後の場面の前まではずっとあかりを演じていた中島みゆきは、最後の場面だけはあかりの影の役となり(途中からはどちらが影でどちらが本物かわからなくなる境界線を超越した陰陽的世界観?)、幸せなあかりたちを部屋の片隅で見守る役に転じているのだった。やっぱり中島みゆきは、自分の役は男と幸せにならないように物語を調整しているのではないだろうか。

VOL.14 「24時着 00時発」でも幸せになった2人を微笑ましそうに見つめて消えていくところは、何となく夜会「2/2」を彷彿とさせる。自分が男との一般的な幸せを獲得するのではなく、誰かが男との幸せを獲得するのを片隅で助けたり見守ったりするのだ。

 

・夜会Vol.20「リトル・トーキョー」

最新の夜会Vol.20「リトル・トーキョー」でも同様の傾向が見られる。中島みゆき演じる主人公の杏奴(あんぬ)は密猟者から山犬を守ろうと雪山に入り、雪崩に巻き込まれて死んでしまう。しかし雪崩からたった1匹生き残ってしまった山犬の子供が気がかりで、幽霊として出現し、山犬の子供をクラシックホテルまで連れて帰り元気になるまで育て上げる。最後の場面では杏奴が幽霊であることが判明し、彼女が雪崩を導きクラシックホテルは崩壊する(山を自然保護区にするためにホテルを崩壊させる必要があった?)。

崩壊してしまったクラシックホテルの中で、幽霊となった杏奴を旦那のふーさんは探し求めるが、旦那の心は自分にはなく愛人にあることを既に知っている杏奴は、もはや死んでしまった自分を探すよりも愛人の方へと帰って行きなさいと、旦那の背中を優しく押してやる。ここでも中島みゆきの役は男と結ばれて幸せになることはなく、むしろ愛する男が他人と結ばれ幸福になることを助けている。

 

・「悪女」

しかしよくよく考えてみれば夜会で見られるこのような場面は、夜会用ではない中島みゆきの歌の中でも昔から散見されるので、これが中島みゆきのひとつの恋愛観なのだろうか。例えば有名曲「悪女」などはどうだろう。

”女のつけぬコロンを買って
深夜のサ店の鏡でうなじにつけたなら
夜明けを待って一番電車
凍えて帰ればわざと捨て台詞

涙も捨てて 情けも捨てて
あなたが早く私に愛想をつかすまで
あなたの隠すあの娘のもとへ
あなたを早く渡してしまうまで”

この歌の中でも自分が男と結ばれて幸せになるわけではなく、むしろ好きな男が他の女と結ばれて幸せになれるように、自分が敢えて悪者になるという健気な女性が描かれている。男が別れを切り出しやすいように、そしてその際に罪悪感を感じないように、自分が悪女になってしまえばいいという発想は大胆で極端だが、慈悲深くもある。自分ではなく他人が幸せになれるように、自分の気持ちを犠牲にして手助けしたり努力しているようにも見える。これは夜会の男女の観念と繋がっているように感じられないだろうか。

 

・「霙の音」

また比較的最近の楽曲「霙の音」などはどうだろう。

”今夜のうちに話してしまいたかったの
私の嘘と過ちのこと”

と女が男に自分の浮気を告白するような場面から歌は始まるが、歌の終盤になると

”私は手札をテーブルの上に
愚かに顕わに放り出し
あなたは静かに窓の外を見てる
静かに誰かを隠してる”

と実は男の方が浮気していることが示唆されている。男に好きな他の女がいると知って、男が別れを切り出しやすいように「私が浮気しました」と言い出すという女性の風景は、まさに「悪女」と重なるものがあるのではないだろうか。ぼくは「霙の音」という楽曲は、現代版の「悪女」であるような気がしている。

 

・夜会や楽曲に共通して見られる中島みゆきの恋愛観とは?

このように男と決して結ばれるということはなく、むしろ好きな男が別の女と結ばれることを健気にも手助けしているのが、中島みゆきの夜会や楽曲内に共通して頻出する女性像であるが、中島みゆき自身がこのような恋愛をしてきたのかはもちろんよくわからない。しかし多くの作品にこの観念が反映されているところをみると、恋愛観のひとつであることに間違いはなさそうな気もする。

 

 

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