偏差値が20違うと会話が成り立たないというのは本当か?

 

そんなわけないやろ!!!!!

偏差値が20違うと会話が成り立たないというのは本当か?

・偏差値が20違うと会話が成り立たないというのは本当か?
・偏差値高い人でも、偏差値の低い人から学び取れることはたくさんある
・偏差値の高い人は、低い人の知識量や理解力に合わせて会話を成り立たせる努力をすべきだ
・偏差値が高く均一だった大学生活と、偏差値の多様性にあふれた中学高校生活の比較

・偏差値が20違うと会話が成り立たないというのは本当か?

よく世の中の噂で「偏差値が10違うと会話していて疲れる」「偏差値が20違うと会話が成り立たない」などという内容を耳にするが、果たしてそれは本当だろうか。

ぼくの人生の経験から言うと、そんなわけないやろ!と思ってしまう。なぜならぼくには偏差値が10も20も30も違う友達がいっぱいいるからだ。それでも楽しく会話することは可能だし、わかり合うこともできる。「偏差値が20違うと会話が成り立たない」などというのは、偏差値でマウンティングを取りたいだけの偏屈な人のただの思い込みではないだろうか。

 

 

・偏差値高い人でも、偏差値の低い人から学び取れることはたくさんある

ぼくは中高6年間ずっと成績学年1位であり、全国模試も偏差値70以上あるのが普通だった。それゆえ校内にはぼくより偏差値の低い人しかいなかったし、偏差値が10も20も30も離れている同級生と会話することなんて普通だった。もしも「偏差値が20違うと会話が成り立たない」が本当ならば、ぼくは学校内でほとんど友達を作ることができずにいただろう。同級生はそれくらい偏差値の離れた人ばかりだったからだ!それでもみんなとそれなりに仲良く楽しくやっていたのでもちろん会話は成り立っていた。

確かに偏差値の低い人は高い人に比べて、物事を深く洞察したり論理的に思考することが苦手だったり、把握している知識の量が少ないという傾向にあるかもしれないが、だからといってすべてにおいて偏差値の低い人が劣っていると決めつけるのは早急である。偏差値の低い人からだって、学べることや吸収できることはいくらでもあるはずだ。

例えば偏差値の低い人が北海道出身で、偏差値の高い人が東京出身だったら、偏差値の高い人は低い人から北海道の情報をたくさん教えてもらうことができる。いくら偏差値が高かろうとも、東京出身の人が北海道出身の人よりも、北海道について詳しいことなんてないと思われるからだ。もしも東京出身の人が机上で必死に本をたくさん読んで北海道について詳しくなっていたとしても、北海道の大地に根を張り、北海道の大地の上でずっと生まれ育ってきた北海道出身の人のリアルで生々しい情報には敵わないだろう。

また偏差値の低い人が女で、偏差値の高い人が男だった場合、偏差値の高い人は低い人から女についてたくさん教えてもらうことが可能だ。いくら偏差値が高かろうとも男として生きている以上、女として生きている人よりも女の肉体や心理について詳しいということはないと思われるからだ。男がいくらアダルトビデオを必死に見て女の肉体についてわかったつもりになっていても、実際に女の肉体として生々しく生きている人間よりも女の肉体を熟知しているということはないだろう。

このようにしてたとえ偏差値に大きな違いがあったとしても、そんなことは全く関係なく相手からいくらでも聞き出せたり教えてもらえる興味深い情報があふれているはずだ。それを手がかりとして会話を膨らませ、実り多き時間を過ごすことは可能である。「偏差値が20違うと会話が成り立たない」などと言っている人は、ただ単に楽しく会話しようとする努力を怠っているだけではないだろうか。

 

 

・偏差値の高い人は、低い人の知識量や理解力に合わせて会話を成り立たせる努力をすべきだ

もしも偏差値の高い人が偏差値の低い人と会話をしていて「偏差値が20違うと会話が成り立たない」と本当に感じてしまったならば、相手を思いやり、相手の知識量や理解力に合わせて会話のレベルを調整するように気を遣うことが重要ではないだろうか。相手にそんなに知識量や理解力がないのに、自分の知識をひけらかそうとして難しい専門用語や高度な論理を展開していないだろうか。ひけらかすのは結構なことだがそれを相手が理解できなければ意味がないし、会話が成り立たなくなってしまい疲弊し、失望するのは自分自身である。それならば最初から相手の知識量や理解力を見極め、きちんと会話内容や語彙をその人に合わせてあげるのも偏差値の高い人の務めではないだろうか。

偏差値の低い人は偏差値の高い人の気持ちがわからないが、偏差値の高い人は偏差値の低い人の気持ちがわかるはずだ。なぜなら人は誰でも生まれたばかりの赤ちゃんの時は、模試の偏差値0くらいだろう。そこから頑張って這い上がり偏差値70くらいになったのならば、その途中の偏差値40や50や60の頃の自分の知識量や理解力の感覚を思い出せるはずである。偏差値の低い人が偏差値の高い人に合わせることは極めて困難なのだから、偏差値の高い人が偏差値の低い人にきちんと合わせて会話を成り立たせるために努力するのは当然のことだろう。たまたま物事を理解する能力が他の人よりも優れていたのだから、その理解力を活かして偏差値の低い人の気持ちや把握力を知るための努力を惜しむべきではないと思われる。

 

 

・偏差値が高く均一だった大学生活と、偏差値の多様性にあふれた中学高校生活の比較

中学高校と偏差値が全く異なる同級生との生活を終え、大学は国立医学部医学科へと進学すると、そこは同じような偏差値の人々と交流する世界が待っていた。医学部医学科は高い偏差値を持った人々の集まりであり、その集団の中で生活することは、自分と同じような偏差値の人々の中で生きていくということを意味していた。医学部医学科の偏差値の高い人々はやはり深い洞察力と高い理解力と豊富な知識と何事にも通じる集中力と忍耐力があると感じられた。自分と同じ偏差値の人々の中では説明しなくても通じる話題も多く、また自分の知らない深い情報を受け取ることもできたりして有意義な時間を過ごすことができた。

しかし楽しさとしては、自分と同じような偏差値の人々の集団の中で過ごした大学生活と、自分とは全く異なる偏差値の人々の集団の中で過ごした中学高校生活とでは、そんなに変わらないように感じられた。結局のところ偏差値の高い人々しか知らないようなことも多くあるが、偏差値の低い人々にもそれなりに、勉強や学問とは違った分野であっても、彼らにしか知らないような独特の話題が多くあるのだと思い知らされた。大学生活はみんなが同じように高い偏差値を保っていたので集団内の偏差値のバラツキが小さく、中学高校はいろんな偏差値の人々がいたから偏差値のバラツキが大きく、多様性があり、思い返してみると中学高校の方が話題の内容が豊富で面白かったと言えるかもしれない。いろんな人々と接し、いろんな人々の価値観に触れ、いろんな話題に触れられるからだ。

結局「偏差値が20違うと会話が成り立たない」からと言って同じような偏差値の人々で寄り集まって集団生活をするよりも、バラバラな偏差値の人々が集まった多様性のある集団の中にいる方が刺激的だし、面白いし、パワフルな人生を送れるような気がする。均一で統一された世界とは、野暮でつまらないものだ。そんなものよりも多種多様な人々、多種多様な知識、多種多様な文化に触れるようが価値があるし有意義である。

ぼくのこの価値観は、そのまま世界を旅したいという炎へと繋がっていった。この世界の多様性に存分に触れてみたい、統一された世界ではなく自分とは異なるいろんな世界に飛び込んでみたいという情熱が根源より沸き起こり、支配され、まるで運命のように抜け出せなくなり、ぼくは医者という職業を休んで世界一周の旅に出た。そしてその選択は間違いではなかったと確信している。やはりぼくは多様性に触れたいという感性を持った人間なのだ。その中で自分の立ち位置や、生まれてきた意味や、生命の価値を見抜いていきたい。だからこそ「偏差値が20違うと会話が成り立たない」などと決めつけてしまい統一された偏差値の集団の中にしか留まらない人は、何となく心が貧しいと感じてしまうのだった。

 

 

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