真実の愛とは!マイナスを返されてもなお愛し続けられるというのは本当か?

 

愛は見返りを求めないものだというけれど…。

真実の愛とは!マイナスを返されてもなお愛し続けられるというのは本当か?

・「愛」とは見返りを求めないこと
・「愛」と「恋」の違いとは?
・中島みゆき「笑ってよエンジェル」
・中島みゆき「I Love You,答えてくれ」
・認知症の初期症状「物盗られ妄想」
・愛情を注いでも犯罪者にされる「物盗られ妄想」の悪夢
・人生の終わりに老人は”真実の愛”について我々に問いかける

・「愛」とは見返りを求めないこと

人生において、人は誰かを深く思いやり愛するという場面に遭遇する。愛するという行為は無償であり、与えっぱなしであり、見返りを求めないものであるということから、誰かを愛したのにその代わりとして同じ量の愛を返されないからといって嘆くことは浅はかであり、またそのようなものは「愛」ですらないとされる。

 

 

・「愛」と「恋」の違いとは?

人間はそれぞれ別の生き物であるから、確かに同じ量の愛を返されないことは仕方がないことかもしれない。こちらが10与えたとして、10返されないことも致し方のないことと言えよう。こちらが10与えたのに、あちらからは9しか返ってこない、これも通常ならやや不満に感じることもあるかもしれないが、別々の人間である以上、同じ量の愛を発生させられないのは自然な成り行きと言えるだろう。同様に、8しか、7しか返ってこない場合も、5とか4しか返ってこない場合も、最終的には1しか返ってこない場合も、まぁこんなものさと諦めるしかないこともあるだろう。

もしかしたら0しか返ってこない、何も返ってこない場合すらあるかもしれないが、ぼくたちはそれを甘んじて受け入れなければならない。なぜなら愛とは見返りを求めないものであり、与えっぱなしの神聖な行為であるからだ。愛したからといって何も返されないと泣いたり不平不満を言ってしまうのは、それが愛ではなく単なる恋であるからに他ならない。「恋」は本来「乞ふ」の意であり、相手の心を欲しい欲しいとどこまでも求めてしまうことだ。「物乞い」の「乞い」と同じものであることをふまえればそのイメージを描きやすい。女子高生が「恋をしちゃった!」と瞳を輝かせたところで、決してめでたがるような種類の行為ではないだろう。

それでは「愛して」いるのだから0しか返ってこなかったことも諦めるとして、もしもマイナスが返ってきてしまったとき、一体人はどうなるのだろうか。

 

 

・中島みゆき「笑ってよエンジェル」

”愛しさ余れば憎さが募る
あれは嘘っぱち 愛しさ足らず
たとえ労いひとつ返されなくても
嘆くようじゃまだまだ半端な恋さ”

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・中島みゆき「I Love You,答えてくれ」

”何か返してもらうため
君に愛を贈るわけじゃない
後で返してもらうため
君に時を贈るわけじゃない”

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・認知症の初期症状「物盗られ妄想」

長寿の国日本では多くの老人が次第に認知症となり問題を抱えてゆく。アルツハイマー認知症の初期症状として典型的に現われてくる症状は「物盗られ妄想」だ。「妄想」とは、はたから見れば明らかにありえない間違いだとわかるのでそれは違うと必死に説得しても、本人はそうだと固く信じて疑わず修正不可能な思い込みのことをいう。認知症の初期には「物盗られ妄想」が発動し、財布を盗られたとか、通帳からお金を勝手に引き出されたと言って、認知症患者の老人は騒ぎ出すこととなる。

財布を盗んだ者、通帳からお金を勝手に引き出した犯人として槍玉に挙げられるのは、決まって最も近くにいる人物、すなわち最も親密に認知症患者に寄り添って世話を焼いたり、最も思いやりを持って慈悲深く介護しているような人間である。それは大抵、近くに住んでいるその人の子供のことが多い。

思いやりを持って寄り添えば見返りとして感謝され愛されるというのは本当か? 〜「物盗られ妄想」の悪夢〜

 

・愛情を注いでも犯罪者にされる「物盗られ妄想」の悪夢

親子の愛は深く、子供は自分が赤ちゃんの時代からここまで育ってきたのは親のおかげだと見返りを求めずに親に愛情を注ぎ、認知症になった親の面倒を見、介護しようと務める。しかし思いやり愛を10注いだ後に返されるのは、10でもなければ0でもなく、−10だったとしても人は耐えられるのだろうか。自分は親のためだと思いやりを持って色々と尽くして身の回りの世話を焼いているのに、最も近くにいるからという理由で、いつしか認知症患者によって財布を盗んだとか、通帳からお金を勝手に下ろしたとかいう妄想をぶつけられ、”犯罪者”にされるとはなんと悲しい結末だろうか!

しかもそんなことはあり得ないと否定し、認知症患者の思い込みを訂正しようと試みても無駄である。”妄想”とは、修正不可能であるから”妄想”と名付けられているのだ。一生懸命に面倒を見ている親が自分を「泥棒」だと信じ込んでいる”妄想”は決して修正されたり消えることはなく、その思い込みが存続したままやりきれない介護は続いていく。介護とは、よそから見ているだけではわからない虚しさに満ち溢れた行為なのかもしれない。

 

 

・人生の終わりに老人は”真実の愛”について我々に問いかける

愛を与えた後に返されるのが、愛でもなければ0でもなく、泥棒という犯罪者だという烙印だとしても、人は愛を与え続けられるものなのだろうか。虚しくなったり、絶望したり、やりきれなくなったりして、投げ出してしまいたくはならないものなのだろうか。そのようにしてどんなにプラスの愛情を注いだところで返されるものがたとえマイナスであっても、そこから身を退いたりせずに見返りのマイナスと向き合い、なお寄り添い続けられる心があるとしたならば、それこそまさに”真実の愛”と言えるのではないだろうか。

心の中にあるその思いが果たして「愛」であるのか、ぼくたちは非常に気づきにくい迷妄の世界に生きている。自分はこの人を愛しているんだと固く信じ込んでいたとしても、それは生殖による快楽という見返りをもたらしてくれるからかもしれないし、その人が自分のためにお金を運んできてくれるからかもしれないし、その人が自分の人生に非常に都合がよく便利で利益になる人物だからかもしれない。本当にそれが「愛」であるのかは、見返りが0になったときに徐々にわかり始め、さらにマイナスになったときにはより深く実感できるようになるのではないだろうか。

そのような観点から言えば人生の終わりの時期に「物取られ妄想」にかかる認知症老人は、人々に”真実の愛”について気づかせようとする種類の生き物なのかもしれない。人は人生の終わりに、その正常な認知と引き換えに”真実の愛”の意味について身をもって教え諭しながら、満足してこの世を去るのかもしれない。

 

 

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