人間は他人の裸を見たがるものだというのは本当か? 〜中島みゆき「愛と云わないラヴレター」考察〜

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”裸な文字を探り当てるために読み進む”

人間は他人の裸を見たがるものだというのは本当か? 〜中島みゆき「愛と云わないラヴレター」考察〜

・人は裸体に大きく心を突き動かされる
・クレヨンしんちゃんはよくヌード写真集を立ち読みする
・女性の着替えを命がけで覗こうとする思春期の男子たち
・裸体を見たいという衝動は人間の本質
・中島みゆき「愛と云わないラヴレター」に出てくる”裸な文字”
・肉体の裸、心の裸
・裸な文字を探り当てるために読み進む具体的な人々

・人は裸体に大きく心を突き動かされる

人間は様々な点で他の動物たちとは異なっているように見えるが、その中でも最も特徴的な相違点のひとつに”服を着る”という習慣が挙げられる。世界で様々な動物を観察しても、全ての動物が大らかに全裸で自らの肉体を大自然と対峙させているのに対して、服なんて着て裸体を隠しつつ密やかに生きているのは人間だけだ。

これは実に不思議な人間のみの習慣であり、旧約聖書ではアダムとイヴが禁断の実を食べたから、人間が裸を恥ずかしく感じるようになってしまったと記されている。しかしいくら旧約聖書に人間が裸を恥ずかしがり服を着たがるのは禁断の果実のせいだと言われても大した説得力もなく、結局なぜ人間だけ服を着たがるのか謎のままである。

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人間の世界では服を着るのが常識的であるとされているので、逆に服を着ないという珍しく異常な状態を目撃すると、人間の心はひどく揺れ動かされるようである。裸体を見て心を突き動かされるというのは、人間なら誰もが経験するありふれた体験ではないだろうか。

 

 

・クレヨンしんちゃんはよくヌード写真集を立ち読みする

アニメ「クレヨンしんちゃん」を見ていると、しんのすけがカスカベ書店という本屋さんでヌード写真集を立ち読みするというシーンがしばしば出現する。本当にヌード写真集を見たがる5歳児がいるのかは不明だが、男性なら誰でもヌード写真集に興味があるのだという常識的な世間の雰囲気が、クレヨンしんちゃんに投影されているように見える。

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・女性の着替えを命がけで覗こうとする思春期の男子たち

ぼくが中学生の時の合宿では温泉の女風呂の風景が見えるからと言って、ベランダから落ちそうになりながら必死に女風呂を覗いて喜んでいる男子たちがいた。ベランダから落ちたら死ぬかもしくは大怪我は免れないというのに、そのような危険を冒してでさえも、思春期の男子たちは異性の裸体をなんとかして目に焼き付けたいという衝動を抑えることができないのだった。

 

・裸体を見たいという衝動は人間の本質

このように裸体を見たいという衝動は生命の根源から訪れる性欲によって支配され、人間が遺伝子を後世に残したがる動物である限り、決して消えることのない「人間の本質」なのだろう。きっとどんなに国家権力がヌード写真集の発行を禁止しても裸体の写真は世間に出回るだろうし、どんなに時代が移り変わっても女風呂を覗こうとする思春期の男子たちは出現するだろう。どんなに国が変わろうとも、時が変わろうとも、引き継がれていくであろう裸体を見たいという思いの中に、変わることのない人間の本質的な衝動が燃えている。

また挙げた例のように、人間が裸体を見たいと願うのは一般的には異性のそれであるが、たとえ同性の裸体であっても、服を着ないということが人として異常な状態である限り、服を着ているという普通の状態よりはその裸体が気になってしまうに違いない。

 

・中島みゆき「愛と云わないラヴレター」に出てくる”裸な文字”

中島みゆきの「愛と云わないラヴレター」の歌詞の中には、印象的な一節がある。

”読みたい文字 他人は探して読み進む
裸な文字を探り当てるために読み進む”

これは自分が他人の手紙やメールやラインを盗み読むと仮定すると、ものすごく納得のいく歌詞である。他人の手紙をわざと盗み読んだとき、あるいは偶然にも他人の手紙を読むような機会を得たときに、あなたは手紙の内容のどのような箇所に着目するだろうか。きっと手紙を書いた人が普段は世間に見せないような意外な素顔、手紙の送り主にしか明かさないような秘密、手紙という閉ざされた文字空間だからこそ出現するその人の弱みや弱点などを、無意識のうちにでも探そうと努力してしまうに違いない。この歌詞の中ではそんな秘密のことを”裸な文字”と表現しているのではないだろうか。

普段は見せない他人の秘密や弱みを密かに発見してしまったときに、人は内心、醜く喜ぶ。自分よりも弱いもの、自分よりもかわいそうなもの、自分よりも不幸なものを見つけてしまったときに、人は自分よりもかわいそうな奴がいるものだと、醜く心を慰められる。

この中島みゆき「愛と云わないラヴレター」の歌詞は、誰に盗み見られても他人にはわかりやしない、ふたりだけにしかわからない、「愛」と文字に書き表すことがないところの”密やかな愛の表現”を含んだ手紙を書くという内容となっている。手紙を盗み見る際に誰もが共感してしまう歌詞をあっさり書けてしまう中島みゆきに感心しつつ、実は彼女自身も他人の手紙を盗み見るときにそのような気持ちになるからこそ、このような歌詞を書けるに違いないのだろうと感じる。自らの具体的な経験なしに、このようなつい見逃してしまいそうな繊細な心の動きを描いた歌詞が書けるだろうか。彼女の個人的なありふれた体験が、人間としての普遍性を帯びて、このように歌詞と音をつけて歌として世界に出現するのは尊いことだ。

 

 

・肉体の裸、心の裸

そして人間は、本能的な性欲に支配されて肉体としての”裸”を追求するばかりではなく、中島みゆきの歌詞にあるように心の裸さえ盗み見たいと欲望してしまう生き物らしい。肉体の裸体の場合は本能だからと言い訳できるが、心の裸体を見たいのだといういやらしさに対して、人間はどのように言い逃れができるだろうか。

他人の心の裸体を盗み見たいのは、そこに弱みを握りたいという欲望があるからだ。他人の弱みを握り、他人の弱みを盗み見て、自分だけが弱いのではない、自分よりもかわいそうな人間がいるのだと、相対的に自分を慰め元気付けてやりたいからだ。しかしそれはなんと醜い自慰行為だろうか。他人を心の中で蹴落として自分を相対的に持ち上げて楽に一時的な偽物の幸福を得るよりも、相対性から解脱して絶対的な幸福を見出せるように、日々自らと向き合うべきである。

 

 

・裸な文字を探り当てるために読み進む具体的な人々

上級医からの暴言と暴力!病院は研修医が受けたパワハラにきちんと対応してくれるというのは本当か?

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ぼくのこのブログ「みずいろてすと」を読んで、他の記事に関しては全く反応しないのに、ぼくが病院でパワハラに遭ったという記事に関してだけ興味を持ち、やたらとしつこく追求してくる友人が数人いて不思議だった。ぼくはただ病院での医者としての自分の体験を珍しいだろうと思って書いただけだったが、彼らもやはり、ぼくのブログの中で”裸な文字”をいやらしく探り当てていたに過ぎない。どこかに弱みはないだろうか、どこかに憐れみはないだろうか、他人を相対的に不幸に陥れて自らを慰めるために、彼らはせっせと”裸な文字”を探し続ける。

しかしそのような相対性の海の中で溺れていては、真の幸福は永遠に訪れないと断言できるだろう。人の弱みを探るという救われない哀れな作業を中断し、自分が本当は心から何を求めているのか再考すべきである。

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