少年の頃、ぼくは生まれ変わると知って嬉しかった。
仏教的思想への反骨心!解脱せずに生まれ変わり輪廻転生し続けることが、悟りを開けない悪い状態だというのは本当か?
・人は誰もが必ず絶対に死ぬという事実
・中島みゆき「時代」からの輪廻転生の発見
・解脱せずに生まれ変わり輪廻転生し続けることが悪いことだというのは本当か?
・人生を否定する仏教、生命を肯定する少年
・教科書に書かれた仏教の教えが常に真実か?
・人生の否定というはるか異国の穢れ
・高畑勲「かぐや姫の物語」に見る日本的感性の仏教への反骨心
目次
・人は誰もが必ず絶対に死ぬという事実
幼い頃の忘れもしない記憶のひとつに、人間はみんな絶対に死ぬと初めてお母さんから教えられたことが挙げられる。人間は誰もが死ぬということは、自分も死ぬということだ。幼かったぼくにとってそれは衝撃的でかなりショックな事実だった!生命力溢れる幼少期のぼくは自分が永遠に生きられると、お母さんにそう教えられるまではなんとなく信じていたからだ。
それ以来ぼくは自分が死ぬことが悲しくて悲しくて、寝る前に自分のお墓を思い浮かべては涙を流す日々が続いた。自分はどうせ死ぬのになぜ生きていくのだろうと考え、お父さんもお母さんも周りのみんなも、自分がいつか死ぬことがわかっているのにどうしてのうのうと平然とした態度で生きていられるのか不思議でしょうがなかった。
大人というものは、馬鹿らしいほど鈍感で感受性の低い生き物なのだろうか。自分がいつか死ぬとわかっているならば、みんなぼくのように寝る前に嘆き悲しんで泣きながら生きるべきだ。どうしていつか死ぬとわかっているのに、みんな平気で笑って生活できているのか不思議でたまらなかった。
・中島みゆき「時代」からの輪廻転生の発見
そんな風に自分が死ぬことについて必死に悩んでいた幼き日のぼくは、ある歌によって心がある程度救われることになる。それは中島みゆきの「時代」という歌だ。「時代」の中で、彼女はこのように歌っている。
”まわる まわるよ 時代はまわる
別れと出会いを繰り返し
今夜倒れた旅人たちも
生まれ変わって歩き出すよ”
その歌詞を聞いて幼き日のぼくはハッとした。そうか死ぬことが終わりではなく、命はまた生まれ変わって生き直すことができるのだ。死ぬことで全てが消滅するわけではなく、また生まれ変わって生きていけるのだからそれで安心ではないか。お父さんやお母さんやみんなと離れ離れになって別の人生を歩むことになるかもしれないけれど、また生まれ変わって生きられるのであればこんなに嬉しいことはないと、ぼくの心は次第に安心を取り戻した。ぼくは生まれ変われることが嬉しかったのだ。
・解脱せずに生まれ変わり輪廻転生し続けることが悪いことだというのは本当か?
しかし大人になって仏教を学んでみると、生まれ変わることは喜ばしいことではなくむしろその真逆だということに気付かされた。仏教の根本原理では、人生を苦しみととらえる。ぼくたちの人生は生老病死(しょうろうびょうし)、すなわち生まれて老いて病んで死ぬという苦しみの連続であり、その苦しみから解き放たれる”解脱”こそが人間の目的だというのだ。つまり輪廻転生の円環の中でやたらと生まれ変わってばかりいる状態では、悟りを開いて解脱した状態であるとは見なされず、迷いの世界をさまよっているふさわしくない魂の状態だと言うことができる。
ぼくは大人になって輪廻転生することはよくないことだと知った時に、心の中で反発もせずに素直に受け入れた。人生は苦しみであるという仏教の根本原理にも深く共感したし、そこから解き放たれることこそが確かに人間にとって最高の喜びであるかもしれないと感じた。そのような仏教的思想が現代に至るまで2500年以上もアジアで受け継がれきたのだから、この思想に自然と共感してしまうのもアジア人として至極当然というべきだろう。
それではぼくの少年時代の思想は全くの間違いだったのだろうか。輪廻転生できるなんて嬉しいと心を安心させた少年のぼくは間違っていたのだろうか。
・人生を否定する仏教、生命を肯定する少年
確かに昔むかしの偉いお釈迦様が「輪廻転生は悪いことでそこから解脱することこそが人生の目的である」と説かれたのに対し、ただのそこらへんの幼い少年が「輪廻転生ができて嬉しい!また生まれ変わって生きられるなんて幸せだ!輪廻転生できてよかった!」と言ったところで、みんなお釈迦様の方がありがたく正しい教えだと思うだろう。
偉大なお釈迦様とは真逆の主張を唱える少年は、幼くて無知なゆえに間違っており愚かで未熟で、もっと勉強してお釈迦様の考えをしっかりと学ぶべきだと教科書を押し付けられるだろう。しかし浮世のそのような態度は、果たして本当に正しいのだろうか。
「輪廻転生から退くべきである」というお釈迦様の意見と、「輪廻転生できて嬉しい」という少年の意見の違いは、生命に対する根本的な意見の相違から立ち現れてくるように思われる。すなわちお釈迦様は、人生は苦しみばかりに満たされており早く人生なんて脱出するべきだという、人生への否定的な思いがふんだんに込められているのに対し、少年の心は人生は楽しい、人生は幸福だ、生きることは幸せなことだという愚直なまでの人生への肯定に満ちあふれている。ぼくはもう一度生まれ変われることが嬉しかったのだ。それは生きることが幸福だと感じていたからに他ならない。
・教科書に書かれた仏教の教えが常に真実か?
熱心な仏教徒ならその少年の意見は間違っていると、意義を唱えるだろう。「少年はまだ人生経験が少ないゆえに、人生の本当の苦しみを理解していない。もっともっと年をとって、人生で様々な経験をしてみるがよい、お釈迦様の言うように人生は苦しみだという意見にやがてたどり着くはずだ。何も知らない無知で未熟で馬鹿な少年が、何も経験のない状態で人生は幸福だと言い放ったところで何の説得力もありはせぬ。お釈迦様の言う人生を否定的にとらえる見方こそ正しいに違いない」と彼らは主張するかもしれない。
しかし本当に彼らは、自分で思考して自分の言葉で意見を述べているのだろうか。お釈迦様という巨大な権力を後ろ盾にして、仏教という受け継がれてきた偉大な歴史に身を任せ、思考停止した状態でただただ教科書を読み上げるようにして少年を説得させようとはしていないだろうか。
仏教の思想に大いに支配されている国・日本に生まれついたならば、全ての人々がお釈迦様の考えるように「人生は苦しみに満ちている」と人生を否定的にとらえなければならないのだろうか。人生を幸福だと感じて生まれてきたことに感謝し自らの生命を慈しんでいる少年に対してさえ、仏教という権力の下において、人生は苦しみだと語ることを強要すべきだろうか。そのようにして少年は偽りで、ブッダこそが真理だと強調すべきなのだろうか。
・人生の否定というはるか異国の穢れ
仏教ははるかインド・ネパール地域で生じ、長い月日をかけて極東の国・日本へとその教えはもたらされた。人々は異国の神だからそれはありがたいに違いないと噂し合い、長い歴史の中で信仰を深めてきた。
しかしだからと言ってインド・ネパール地域で生じた「人生は苦しみに満ちている」という否定的感性まで、そっくりそのまま日本は受け入れるべきなのだろうか。本当は日本人は、人生をどうとらえていたというのだろう。仏教という権力がこの国に辿り着く前、「人生は苦しみに満ちている」というインド・ネパール地方の風土に生きる人々の独特な感性により生じた思想が植え付けられる前には、日本の民族たちはその魂の源流で人生をどのようなものだと感じ取っていたのだろう。
教科書や難しい文献に書いてあるから人生は苦しみに違いないと、学者たちは胸を張るだろう。しかしなんの教科書も読まずに、誰からの教えも受けずに、ただ直感のままに本能のままに、生きることは嬉しい、人生は幸せに満ちているという心を自発的に抱いている純粋な少年の魂の方が、どんな教科書よりも参考になる民族の感性の羅針盤ではないだろうか。もしも植え付けられた教科書を読むことがなければ、もしもはるか異国の神々に心を穢されていなかったとしたら、ぼくたち東アジアの果てに住む民族は、生きることは美しいと生命を大いに肯定するような感性を根源から抱いていたのかもしれない。
むやみやたらと異国の神をありがたがり、異国の神の否定に心を穢されてはならない。彼らには彼らの風土から生み出される感性が、ぼくたちにはぼくたちの風土から生み出される感性がそれぞれにある。異国の素晴らしいものを取り込もうとして、魂まで奪われてはならない。異物によって瞳を曇らされ、自らを見失ってはならない。彼らには彼らの精霊が、ぼくらにはぼくらの精霊が宿っているのだから。そのようして多様性に満ちた感性と精霊を慈しんでこそ、世界はより一層の輝きを増すのではないだろうか。
・高畑勲「かぐや姫の物語」に見る日本的感性の仏教への反骨心
この記事に書いたような観点からぼくが心の底から感動した映画は高畑勲監督の「かぐや姫の物語」だ。かぐや姫が月へと帰るとき、天から観音様(仏教のほとけ)が迎えにくる。地球を離れたくないと願うかぐや姫に向かって、観音様の家来である天女が言う。
「さあ参りましょう。清らかな月の都へお戻りになれば、そのように心ざわめくこともなく、この地の穢れも拭い去れましょう。」
しかし天女に向かってかぐや姫は堂々と言い放つ。
「穢れてなんかいないわ!
喜びも 悲しみも この地に生きるものは みんな彩りに満ちて
とり むし けもの 草木 人の情けを…!」
天女の意見はいうまでもなく仏教的な世界の否定、人生の否定である。仏教由来のこの感性は、そのまま仏教を生じさせた風土の感性、仏教を生じさせた人々の感性ということもできるだろう。はるかなる異国の感性を、この日本の国において天女は唱える。
それに対してかぐや姫の意見はこの世界への肯定で満ちあふれている。これは日本民族の感性の象徴だろうか、それとも彼女の個人的な感性の主張であるかは定かではないが、少なくとも人生や世界を否定してやろうという仏教的な思想の支配を微塵も感じない、気持ちのよいほどに潔い完全な生命へのそして大自然への肯定が感じ取られる。
ぼくたちはただ気づかないだけで、たくさんの穢れに冒されている。正しく美しいような顔をして忍び寄り、やがて髄から洗脳されてしまうような恐ろしい植え付けであふれている。ぼくたちは清らかな水により、その穢れをひとつひとつ取り祓い、自らの真の根源にはどのような景色が広がっているのか見定める必要があるだろう。ぼくたちは本当は、人生をどのようにとらえていたのだろうか。全てを脱ぎ捨てたぼくたちの裸体には、何が秘められているのだろうか。