「かぐや姫の物語」は、ぼくにとって忘れられない名作だ。
高畑勲監督「かぐや姫の物語」の魅力を徹底考察!生まれ変わる輪廻転生は苦しみであるというのは本当か?
・高畑勲監督「かぐや姫の物語」に陶酔する
・人の一生における生きる喜びに満ちている
・常識でこうだと決めつけられたものを本当かどうか突き詰める
・人間が本当は何のために生まれて来たのかを追求する
・仏教的な輪廻転生の予感が物語を貫く
・人生は苦しみであるという仏教の概念を否定する
目次
・高畑勲監督「かぐや姫の物語」に陶酔する
高畑勲監督の「かぐや姫の物語」を最初見たときから、ぼくは完全に心を奪われてしまった。なんて素晴らしい映画なのだろうと、映画を見ている間ずっと感動し泣きそうになっていた。こんなにも映画が流れている全ての時間で感銘を受け、泣きそうになりながら必死に映画を見た経験は初めてだ。こんなにも素晴らしいものすごい映画を作ってしまって、高畑勲さんはもうすぐ死んでしまうのではないだろかと心配していたら、この作品が高畑勲さんの最後の作品になってしまった。しかしこんなにも感動的な作品をこの世に最後に残して旅立ったのだから本望だったのではないだろうか。
この映画は宮崎駿作品のように大ヒットしたわけではないし、すべての人に安易に感動を与えうるものではないのかもしれない。ぼくは友人2人とこの映画を見に行ったが、その2人は「よくわからなかったね〜」などとポカンとしているような感じで、心は感動とは遠い位置にいるようだった。ぼくがずっと泣きそうになりながらしがみつくように映画を見ていたという話をすると、「え!何で?!」と訝しく思われる有様だった。ここではぼくがどのような観点から、これほどまでに「かぐや姫の物語」に感動したのかをお話ししてみたいと思う。
ぼくの人生の中では、この「かぐや姫の物語」がひどく感動した最後の映画作品だ。後にも先にもこんなにも素晴らしい映画にぼくは出会ったことがない。それほどまでにぼくの中では感動的な映画だったことを、ここでは少しでも伝えられたらと思う。
・人の一生における生きる喜びに満ちている
まず「かぐや姫の物語」のあらすじは、ぼくたちが知っているただのかぐや姫のお話だ。幼い頃に絵本で読み聞かされたかぐや姫や、日本昔ばなしで見たかぐや姫や、高校生の古典で習う竹取物語と根本は大きく変わるところはない。それなのに作り手がかぐや姫にアニメーションとして生命を吹き込むことによって、こんなにも生き生きとした感動的な作品になるのかとは思いもよらない発見だった。
かぐや姫とは基本的に、かぐや姫の一生の物語である。竹から赤ちゃんとして生まれ、それがすくすくと成長し、美しい姫となり、やがては月(=死)へと帰っていく。そのような人間の一生やその家族には、当然たくさんの感動が生まれるものだが、そんな人間的で肉体的な人間としての感動が、絵本や短いアニメや古典ではいまいち伝わりにくい。しかしこの「かぐや姫の物語」では、人が一生において与えられる感動的な場面が余すことなく描かれている。
ぼくには8歳年下の弟がいるが、8つも離れていると赤ちゃんの頃からよくお世話をし、赤ちゃんがどのような過程で成長し人間らしくなっていくのかをつぶさに見、思い出として記憶されている。ただ寝ていることしかできない赤ちゃんが初めて寝返りを打ったときのことや、初めてハイハイをしたこと、初めて座ったこと、初めて伝い歩きをしたこと、初めて言葉を発したことなどは、その時抱いた感動と共に今でもありありと思い出すことができる。赤ちゃんの成長は、家族にとってひとつひとつが感動的な出来事だ。しかし人は生きていくごとにそんな感動を忘れてしまう。歩くことも、話すことも当たり前だと思うようになり、もっと勉強してほしいとか、他人の役に立ってほしいとか、もっとお金を稼いでほしいとか欲を出すようになってしまう。
しかしこの「かぐや姫の物語」の中では、そのみずみずしい人間としての根本的な感動を忘れ去ることなく、人の一生の何ものにも代え難い感動的な場面を、優しく丁寧に描ききっている。かぐや姫が初めて立って歩いた時の翁の嬉しそうな表情とかぐや姫を抱きしめた時の愛おしさ。竹から生まれた異形の者であろうと、翁はかぐや姫を神からの授かりものだとして実の娘のように可愛がり、心から大切にしている。誰もが忘れかけていた、人が初めて立って歩いた時のあの喜びを、決して忘れ去ることなく描かれた登場人物の生き生きとした様子は、まさに「人間の生きる歓び」を最も的確な形で表現していると言っても過言ではないだろう。
・常識でこうだと決めつけられたものを本当かどうか突き詰める
しかしそのような翁のかぐや姫に対する心からの思いやりも、かぐや姫が成長していくにつれて徐々にズレが生じ始める。大自然の山奥で、鳥や虫や獣のように友達たちと遊ぶことが生きる歓びだったかぐや姫に対し、翁は京の都に出てそこで豪華で高貴な暮らしをすることこそがかぐや姫の幸せだろうと思い込み、かぐや姫の意見も聞かずに翁と嫗と3人で山奥から京の都に引っ越すことを決めてしまう。この場面では幼い子供の人生は親の決めた運命に逆らうことが決してできなのだという、いたたまれなさが込められているような気がしてならない。特にこの時代では、親の言うことに逆らってはならない、特に父親の言うことは絶対だという儒教的な観念が、今よりももっと強かったのではないだろうか。
その後も翁のかぐや姫に対する思いやりは暴走を続け、彼女の思いを無視しながら翁は彼女の幸せを見つけようと必死になる。貴族たちに見初められることが幸せ、帝に嫁ぐことがこの国最大の幸せと、一般的な幸福論をかぐや姫に浴びせかけては、全くそうだとは思えないかぐや姫を苦しめる結果となる。「お父様が願っていたその幸せが、私には辛かった」というかぐや姫の台詞からは切ない思いがこみ上げてくる。翁だって決してかぐや姫が憎くて彼女に一般的な幸せを押し付けていたわけではない。本当に大切に思っているかぐや姫に幸福になってほしくて、自分の思う幸福をかぐや姫に与えてきたのだ。
しかし人間の思い描く幸福はそれぞれに異なるものだ。たとえそれが親子であったとしても。翁の思う幸福は、かぐや姫が京の都という都会に出て来て、そこで高価な着物を着ながら立派なお屋敷に住み、高貴な教養や流儀を身につけ、お金持ちの男性に見初められて嫁いでいくという、いわば世間一般に言われているような絵に描いた「幸福」だった。それに対してかぐや姫が望んでいたことは、生まれ育った山奥の地で、慣れ親しんだ友人たちと、鳥や虫や獣のように伸びやかに自然に生きていくことだった。翁とかぐや姫の思いが一致するはずもなく、やがて苦しみのあまりにかぐや姫は月に助けを請うて、月から迎えが来るという結果になってしまう。
このことに限らずかぐや姫の思考回路は、世間一般で言われているものが本当にそうなのかと疑う疑問の思いで満たされている。上記のように幸福に対する概念もそうだし、高貴な姫君は歩かない、お歯黒をしなければならない、会ったこともない男性と結婚するという、当時で言えば常識やしきたりだと言われていたものたちにことごとく反発し、自分自身の感性でどのように人生を生き抜いていくかと考えながら行動しようとする、革新的な姿勢が見て取れる。当時であれば、おとなしく世間のことに疑問を持たずに他人のいうことに従って生きていくという女性像が当たり前だったのかもしれないが、かぐや姫の人物像はその真逆で描かれていることが興味深い。
・人間が本当は何のために生まれて来たのかを追求する
自分が何のためにこの世に生まれてきたのか、人間ならば誰もが一度は考える疑問だろう。しかしそれを深く長く追求し思考する者は少ない。誰もが自分の生まれてきた意味を考えることすら忘れて、世の中が、世間が、常識が教え込んでくるように生きることが当たり前だと居直ってしまう。その方が考え込んで思い悩むことも少なくなるし、生きることが楽だからだ。しかしこの物語のかぐや姫のように、この世の中の常識というものに疑問を抱き、ひとつひとつそれが本当なのかを思考しながら生きる人にとっては、自分が何のために生まれてきたのかは生涯忘れ難い問題である。
本当に浮世の人々が教え諭すように、お金持ちになって、いい着物を来て、高貴な男性に見初められ、嫁いでいくことが女の、人間の幸せであり生まれてきた意味なのだろうか。かぐや姫はこの問いに対して、翁のように世間の声に惑わされることなく、自分自身の奥底から聞こえてくれる本当の願いに耳を澄まし、その答えを自ら見出す。
「ああ私は、生きるために生まれてきたのに、、、鳥や獣のように!」
このように自分の生まれてきた意味に気づいても、もはや月へと帰らなければならない自分自身の運命、そして自分の地球における一生が全くこの通りにはならなかったこと、人生は自分の奥底からの祈りの通りには進まないことを痛感し、絶望し涙を流す。彼女の頰に流れる涙は、他ならぬぼくたちの頰にも同様に流れている涙なのかもしれない。
・仏教的な輪廻転生の予感が物語を貫く
彼女が子供時代に、山奥で友達の子供達と歌っていたわらべ歌がある。
まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ
まわって お日さん 呼んでこい
まわって お日さん 呼んでこいとり むし けもの 草木 はな
春夏秋冬 連れてこい 春夏秋冬 連れてこい
この歌は映画のごく最初の場面、田舎の山奥ののどかな場所でかぐや姫が思い思いに子供達と戯れる場面で子供達が歌っているのだが、ぼくはこの歌を最初に聞いた時から、これはただのわらべ歌ではなく、輪廻転生の観念を歌っているのではないかとはっきりと予感した。
ぼくが素晴らしいと感じる尊敬すべきアーティストの人々は、大抵最後に遺作として輪廻転生の物語を作り出す傾向にある。三島由紀夫の遺作も「豊饒の海」という「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」の輪廻転生をテーマとした壮大な四部作であるし、中島みゆきなどはデビュー当時からずっと輪廻転生を歌い上げてはいるものの、晩年になってからは彼女の作り出す音楽劇「夜会」で輪廻転生をテーマとする傾向がますます強くなっている。
ぼくが映画の最初の子供達のわらべ歌の場面で感じたこの映画における輪廻転生の予感は、映画の最後の最後、かぐや姫が月へ帰る場面、いわばかぐや姫の死とも言える場面で確実なものとして表現されている。映画の最初では水車、季節がまわることを歌っていたわらべ歌が、最後の場面では歌詞を変え、まわるのは生命だとして子供達に高らかに歌い上げられる。
まわれ まわれ まわれや 水車まわれ
まわってお日さん呼んでこいとり むし けもの 草木 はな
咲いて 実って 散ったとて
生まれて 育って 死んだとて風は吹き 雨が降り 水車まわり
せんぐり いのちは よみがえる
せんぐり いのちは よみがえる
この歌が歌い上げられた後に、かぐや姫は月へと帰っていく。それはまるでかぐや姫の死を意味するかのようであり、最後の最後のシーンでは、月の面にかぐや姫の赤ちゃんだった姿が映し出され、この映画は終幕を迎える。かぐや姫は月に渡り、死を経験するものの、生まれ変わりよみがえり、また赤ちゃんとして最初からいのちをやり直すのだということが暗示されているようだ。このような輪廻転生の観念に抱かれて、高畑勲さんの最後の作品は終わりを迎える。彼が亡くなってもいのちはよみがえるのだというメッセージを、彼自身が亡くなる前に自分で発信したような気がしてならない。
・人生は苦しみであるという仏教の概念を否定する
月からの迎えとしての天女たちが奏でる不思議なメロディーは、この映画の見どころのひとつだろう。そしてその天女たちの中心には、観音様を思わせる仏様が立っておられる。竹取物語が作成された頃には、もう日本には仏教の教えが浸透していたのだろうか。子供達のわらべ歌の輪廻転生の暗示と、天から舞い降りる仏教的な観音様のお姿は、切り離して考えることはできない。
かぐや姫が天女に連れて行かれそうになる直前、かぐや姫は天女に”忘れの衣”をかけられそうになる。翁と嫗と別れるのが悲しくて仕方がなく、泣き崩れているかぐや姫に向かって天女はこう囁く。
「さあ参りましょう。清らかな月の都へお戻りになれば、そのように心ざわめくこともなく、この地の穢れも拭い去れましょう。」
仏教では人生は苦しみであると説かれている。人間の生命は生まれ老い病み死んでいくだけの苦しみであり、その人生を苦しみだと受け入れたその先で、どのように生きていくべきかを考えることが仏教の基本的な姿勢である。当然ぼくたちの住んでいる人の世は迷いと煩悩に満たされた苦しみの地であり、この浮世は仏教では「苦海」と表現されたりもする。そのような仏教的観点から言えば、天女の上の台詞は至極真っ当であるように感じられる。
しかしそのように人生や人の世の中を否定的なものとしてとらえる天女や観音様に向かって、かぐや姫は自分の意見を毅然として述べる。そこには常識や既存の教えにとらわれず、なんでも疑う自分自身の感性で考えた上で生き抜くという、映画全体を通して表現されているかぐや姫の生き方が貫かれている。
「穢れてなんかいないわ!
喜びも 悲しみも この地に生きるものは みんな彩りに満ちて
とり むし けもの 草木 人の情けを…!」
と叫んだところで、かぐや姫は期せずして”忘れの衣”をかけられてしまう。そして翁と嫗、地球のことも全て忘れ去り、月の都へと帰ってしまうのだった。ぼくはこの場面でどうしても泣いてしまう。仏教的な天女がこの地を仏教的に「穢れている」と否定的に表現したのに対し、かぐや姫は毅然と反論する。「この地は穢れてなんかいない!」その台詞には、この地に生きる人々の喜び、感動、素晴らしさが惜しげもなく込められていて、生きることに対する尊い肯定で満ちあふれている。かぐや姫自身は映画全編を通して、悲しみ、苦しみ、後悔する場面の方が多かったが、それでもなお、生きることは素晴らしいことなのだとぼくたちに訴えかけているのだ。
この場面はいわば、仏教というインドで生まれた新興宗教と、日本民族の純粋な感性との対決であるともとらえることができる。「人生は苦しみである」と仏教は教える。自分が賢いと思われたい日本人は、自分でよく考えもせずに、ありがたい外国からの仏様の教えなのだからと「人生は苦しみである」ことを容易に受け入れ認めてしまうだろう。しかしそのようなはるか遠く、中央アジア人たちの感性によって生まれた仏教という教えに託された思いが、そっくりそのまま極東アジア人である日本人の感性に合うのだろうか。「人生は苦しみである」「この地は穢れている」と異国の宗教たちが叫ぶのを、そのまま受け入れるのではなく、本当にそうなのか導入する際に再考しなければならないのではないだろうか。
ぼくたちは誰もがこの一生の終わりに”忘れの衣”をかけられる存在だ。そうしてこの一生のすべてを忘れ去り、どこか遠いお国へ旅立っていく。”忘れの衣”を身にまとえば、確かに悲しみも苦しみも感じない清らかな”悟り”の世界の中で安らかに生きられるのかもしれない。しかしその代わり喜びも幸せも、この世に生きる躍動や燃え盛る思いさえ感じることがない。仏の国の民族たちが目的だとする清らかな”悟り”の世界が、本当に全ての人々が目指すべき浄土なのだろうか。清らかで澄んでいて何も感じない悟りの世界よりも、愚かしくもがき苦しみながらもその中にわずかな光や炎を見定めるという生き方を、尊いと選び取る民族もあるのではないだろうか。
インドの感性では輪廻転生の輪から抜け出すことを目標とする。この世に生まれつくことを悪であるとし、この世に生きることを虚しいこととし、この世界からの解脱を常に目指している。もしも死んだ後に生まれ変わってこの世にたどり着いたとて、それは決して喜ばしいことではない。むしろ嘆かわしいことだと見なされる。しかしもう一度この世に生まれ変わることが、そんなにも悲しいことなのだろうか。もう一度この世に生まれ変わったことを、心から祝福してはいけないのだろうか。
ぼくたちの住むこの地は穢れてなんかいない、この地は彩りに満ちている。それがかぐや姫が一生をかけて必死に地球を生きた結果の答えだった。その答えが、いま地球を生きるぼくたちにとってどれほど救いになることだろう。どんなにインドの偉い人が人生は苦しみである、この世は苦海であると教え諭したとしても、ぼくたちはこの東の島国に生きる民族として、生きることはどういう性質であるかを、自らの感性を以ってしっかりと感じ受け止めて行かなければならない。かぐや姫の物語の中で、かぐや姫が命をかけてそうしたように。