人は死んだらそれで終わりだというのは本当か? 〜四季の廻転、生命の廻転〜

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春夏秋冬 連れてこい 春夏秋冬 連れてこい

人は死んだらそれで終わりだというのは本当か? 〜四季の廻転、生命の廻転〜

・春夏秋冬 連れてこい
・四季が巡ることを知らなかった時代を覚えているか
・「春がまた帰って来るの?!」
・四季のように廻る生命の予感

・春夏秋冬 連れてこい

日本には四季がある。春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、そしてまた春に戻る。生きている限りはその巡りを享受し、感じ取る。季節を変化させる力のないぼくたちは、ただ運命のように定められた季節の巡りに合わせながら、衣を変え、心を変え、生活を変えながら生きて行く他はない。ぼくたちは四季の巡りを記憶して、その順番に遵いながら、短い一生の生命を前へ前へと進めていく。

もしも季節が急に逆転し、春の後に冬が来て、冬の後に秋が来て、秋の後に夏が来たら、これまでの四季の記憶とは違うということで人々の生活は混乱を来すだろう。また季節が急にデタラメになり、春の後に秋が来て、秋の後に夏が来て、その次にまた春へと戻ることがあったら、何がなんだかわからずに人間たちは困惑するだろう。

 

 

・四季が巡ることを知らなかった時代を覚えているか

しかしぼくたちはこの世に生まれついて初めから、四季が巡るということを知っていたわけではあるまい。もしもこの世の冬に生まれついたとして、次々に季節が変化し、暖かな花咲き誇る春が訪れ、生命が最も躍動する盛んな夏が訪れ、涼しく空高き秋が訪れ、徐々にこの世が静まり返り死を予感させる冬が訪れたとしたならば、もはや世界はこのまま終わってしまうのではないかと絶望を感じたのではないだろうか。

草木の芽生えない無の冬から、新しい生命の誕生を予感させる新緑の春、山が青々と美しく映える鮮やかな夏の後、徐々に世界の勢いは衰退し、木の葉は老いを感じさせる黄や紅に染まり、そのまま枝から落ちて死の冬を迎える。それはまるで人の一生のように、赤子として生まれて、どんどん成長し、体力と知能の盛りを迎え、徐々に老い朽ち衰え、そして必ず死んでいくという運命に似ている。「人間の生命」と「季節の巡り」は、呼応し合い共鳴し、同じような運命を辿っているように見える。

 

 

・「春がまた帰って来るの?!」

春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、そのまま世界は終わらないでまた春が来て、世界はよみがえっていく。四季が巡ることをぼくたちは経験上よく承知しており、それを何の不思議もなく受け入れている。しかし最初に四季が巡ると知った時の感動を、冬という死の季節のまま世界は滅亡せずに、また新たに息を吹き返し春という誕生の季節へと引き継がれることを知った幼き日の瑞々しい驚きを、忘れずに丁寧に描ききっている映画先品がある。それが高畑勲監督の「かぐや姫の物語」である。

「かぐや姫の物語」では、四季の巡りが繊細に丁寧に描かれている。四季の巡りを敢えて意識させるようなわらべ歌も作品の随所に散りばめられて歌われる。

まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ
まわって お日さん 呼んでこい
まわって お日さん 呼んでこい

とり むし けもの 草木 はな
春夏秋冬 連れてこい 春夏秋冬 連れてこい

かぐや姫は竹から生まれた、この世の者ではない異形の者としてこの世界で急速に成長していく。おそらく地球の自転ではなく月の自転に応じてその身を成長させているのだろうか。そして季節が一巡しない間に大人へと成長してしまう。

そして意識のある中で木々や草花の生い茂る春夏から初めて枯れ果てた冬を迎えたことで、もう山は死んでしまったのではないかとかぐや姫は勘違いする。彼女はまだ、季節が巡るという事実を知らないのだ。しかしそんなかぐや姫に、きこりのおじさんは山は死んだわけじゃないことを教え諭す。

「山は死んでしまったんじゃないかしら。葉っぱがあんなに綺麗に萌えていたのに」とかぐや姫は心配する。

「死んだんじゃない」おじさんはかぐや姫に木の芽を見せる。「見てごらん。木々はもう春の支度をしているんだ」

「春の支度?春がまた帰って来るの?!」とかぐや姫は驚く。

「ああそうとも。生き物はみんなじっと我慢しながら春の巡りを待っているのさ」おじさんは答える。

ぼくはいつもこの「春がまた帰って来るの?!」と驚くかぐや姫の言葉に感動せずにはいられない。四季が巡るということについての驚嘆と感動を、こんなにも瑞々しく新鮮に表現している作品が他にあるだろうか。というか、四季が巡るという”当たり前”のことに対して、それを”当たり前じゃない”こととして表現し、誰もが生まれたときには四季が巡ることなんて知らなかったんだ、それをやがて生きるごとに知っていくんだということを思い出させてくれる澄んだ純粋な作品が、この世の中にどれだけ存在しているのだろうか。

ぼくたちが日頃当たり前だと感じているものは決して当たり前じゃない。それが当たり前だと思い込んでしまうよりもずっと昔に、それを初めて知ってこの世界に感動した瞬間が誰しもにきっとあるはずだ。この世に生まれ落ちて、この世界の物事をひとつひとつ知っていき、やがては当たり前だと見過ごしてしまうことさえも、かつてはその事実にひどく驚いたり感動したりした時代があったのだ。そしてぼくたちは感じただろう。新鮮な驚きで満ちたこの世界は、彩りに満ちていて実に美しいものだと。そのような感覚を思い出させてくれる作品がこの世のどれだけあるだろうか。

 

・四季のように廻る生命の予感

ぼくたちは自分たちが死ぬことをひどく恐れる。誰だって死にたくないと怯えながら生きているし、それが生命の正常である。それは死んだらどうなるのか誰も知らないからだ。死んだ後に幸福な世界が待ち構えているのならば死への恐怖も少しは和らぐだろう。しかしそのような保証はどこにもない。

けれどぼくたちは今、ただ四季が巡るという事実を知らなかったかぐや姫のような状態なのかもしれないのだ。季節は春、夏、秋、冬と生から「死」へと向かい、そこで世界は終わるかのように見えても、また必ず春がやって来て、「生」への蘇りを見せつける。ぼくたちの生命だってそうなのかもしれない。生まれて、老いて、病んで、ぼくらは死んでいく。それは絶対的な定めである。その時点で自分という存在や、自分の抱く世界が、死によって消滅させられることに怯えてたじろいでいるが、もしかしたら季節のように、命さえ春に向かって再びよみがえるだけのことかもしれないのだ。

終わり切ったかのように見えても、必ずまたよみがえる。そのようなことを地球は、四季は、美しい彩りを以てぼくたち人間に教えてくれているのに、どうしてその教えを受け取りもしないで、ただただ死に怯えているだけの生活ができるだろうか。

かぐや姫が季節は冬で死んで滅びて終わらない、また春が戻って来るのだと驚きをもって知った時のように、ぼくたちもいつかはそのように自らの生命について教えられる時が訪れるのかもしれない。そして生老病死のあとで「生がまた帰って来るの?!」と驚嘆してしまうのかもしれない。そんな当たり前のことも知らなかったのかと、微笑ましく自分自身を眺める未来が来るのかもしれない。冬のあとで春がまた戻ってくるように、死のあとで生がまた戻ってくるのを知った時に、ぼくたちは心から幸せだと喜ぶことができるだろうか。

 

 

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