浜崎あゆみはいつの時代も叩かれている。
浜崎あゆみの全盛期は完璧すぎてアンチなんていなかったというのは本当か?
・浜崎あゆみの最近の評判
・歌もルックスも完璧だった浜崎あゆみの全盛期
・全盛期が完璧だったからこそ完璧じゃないことを憎まれる運命
・浜崎あゆみ「vogue」
・浜崎あゆみ「Don’t look back」
・彼女は完璧な全盛期であろうと非難、否定され続けてきた
・ぼくが浜崎あゆみを尊敬する理由
・浜崎あゆみ「alterna」
・浜崎あゆみ「1 LOVE」
目次
・浜崎あゆみの最近の評判
インターネット上で最近の浜崎あゆみの評価を見ていると「年相応ではなく痛い」「安室ちゃんと違って引き際を逃した残念な人」など否定的なコメントで溢れているが、最も多いのは「昔は本当にいいアーティストだったのに」「全盛期は最強だったのに」「全盛期はみんなの憧れで可愛くて大好きだったのに」など、浜崎あゆみの全盛期を懐かしむ声だ。
・歌もルックスも完璧だった浜崎あゆみの全盛期
確かに浜崎あゆみの全盛期は最強だったとぼくも思う。浜崎あゆみの全盛期にも様々な意見や定義があるだろうが、おおよそ1999年〜2005年くらいだろうか。大きな目の完璧に可愛いルックスと、それに似合わない孤独で痛烈な歌詞、そして泣き叫ぶような切ない歌声は、確かに多くの若者の共感を呼び、特に女の子はみんな彼女に夢中になっていた。
ぼくが医学部で形成外科の授業を受けていると、女の子の整形の注文が変わったのは浜崎あゆみの出現がきっかけだったと語っていた。女の子の整形の注文を変えた、すなわち「女の子の可愛い顔の概念」を変化させたのは、自分が医者をしていた歴史の中では浜崎あゆみただひとりだったと語っていた。それほどに影響力のある唯一無二のアーティストだったのだ。
・全盛期が完璧だったからこそ完璧じゃないことを憎まれる運命
全盛期が完璧すぎたからこそ、月日が経つにつれての彼女の変化についていけず、昔はよかったのにとファンをやめていった人も多くいるだろう。完璧だった昔を懐かしみ、衝撃的だったそのルックスや歌声を思い出し、変わってしまった今の浜崎あゆみを残念に思いながら、変わり果てた今の浜崎あゆみを逆に嫌いになる人もいるのかもしれない。
しかしそれはかわいそうなことだ。人間は誰でも年をとるからだ。年をとらずに、変わらずに生きられる人はいない。浜崎あゆみは人間としてごく自然な変化を起こしているだけなのに、昔が完璧すぎたからといって、その自然現象さえ否定され、今の姿を憎まれるなんてあまりにかわいそうだ。ぼくたちは素晴らしい輝きをひとときでももたらしてくれた彼女に感謝し、慕うべきではないだろうか。
・浜崎あゆみ「vogue」
君を咲き誇ろう
美しく花開いた
その後はただ静かに
散っていくから
・浜崎あゆみ「Don’t look back」
ねぇ誰もが思い出すのは
一番輝いていた頃の自分なんて
それは悲しすぎるわ
・彼女は完璧な全盛期であろうと非難、否定され続けてきた
ではしきりに「昔はよかったのに」とその全盛期を惜しまれる浜崎あゆみだが、当時の全盛期では本当に彼女はみんなから好かれていたのだろか。最近の人々は昔の完璧だった浜崎あゆみを懐かしみ、その反動として今の彼女を非難し、否定しているけれど、じゃあ完璧だった彼女は誰にも非難されず、否定されていなかったのだろうか。
いや、彼女は全盛期の方がインターネットで非難、否定されていたとぼくは記憶している。歌詞がパクリだとそのパクリ箇所をいたるところに貼り付けられたり、絶対に整形していると言って昔の彼女の写りの悪い写真をアップロードされ比較されたりしていた。その憎悪の熱量は凄まじく、ぼくはテレビの中で輝いている彼女と、インターネット上に渦巻いている彼女に対する悪意や憎悪のギャップに驚いた記憶がある。
彼女はその歴史上、ずっと誰かに非難され、否定されていたのだ。変わり果ててしまったから今否定されているわけではない。変わり果てていようが、この上なく輝いていようが、完璧な全盛期であろうが、彼女はいつもインターネット上で否定されている。今「昔はよかった」などと言って彼女を叩いている人々は、きっと昔の全盛期の頃には「整形」「歌詞がパクリ」などと言って同様に叩いていたのではないだろうか。
・ぼくが浜崎あゆみを尊敬する理由
ぼくが彼女を尊敬するのは、彼女がどんなに非難されたり否定されたりしていることを知っていても、ひどいことを言うなと世間に向けて声をあげたり主張したりしなかったからだ。逆にその悲しみや悔しさを歌詞として昇華し、芸術作品として発表していたことは、まさにアーティストとしてのあるべき姿であったように思われる。
最近は「有名人に誹謗中傷するな!」と主張している有名人が非常に多い。なるほど確かに人の悪口を言うことはいけないことだろう。しかし有名になったのに悪口を言われないことなんて、この人の世で可能なのだろうか。ぼくが「有名人に誹謗中傷するな!」と有名人自身が主張することに違和感を覚えるのは、有名人がまるで悪口を言われまくる”弱者”のようなふるまいをしているところにある。
果たして有名人は”弱者”だろうか。少なくとも世間に対して影響力を行使できるという点において、決して弱者などとは呼べないのではないだろうか。むしろかなりの強者だろう。テレビやYouTubeなどという媒体を利用して恥ずかしげもなく国民に自分の顔を知られたいと願い、メディアを通して自分の影響力を高めたいという厚かましい野望を持っているというのに、その結果多くの人から知られることになり、誹謗中傷などされないとどうして思えるのだろう。まさか自分が影響力を持っているのに、自分はいいことばかり言われるべき人間で誹謗中傷などされないと傲慢にも信じ込んでいるのだろうか。
有名になり誰か1人に好かれれば誰か2人に嫌われてしまうくらいの心構えがないと、この世の中を渡ってはいけないのではないだろうか。それが人類の歴史上、普遍的に変わらない人間社会のシステムだろう。人間というのはそんなに善良な存在ではない。常に濃厚な悪意や憎悪を内に蓄え、隙があれば外界へと解き放ち人を傷つけようと企む哀れな心で溢れている。
自分が明らかな強者であるにもかかわらず、”誹謗中傷される”という理由で”弱者”を演じ、本当の弱者たちを攻撃している最近の有名人の様子は滑稽だし、的外れだ。自分が有名になったことでさらに影響力を蓄え、その影響力を駆使して自分に都合の悪い人間をすべて除去しようと影響力を乱用し思い上がっている。自分に都合の悪い人間は消去し、自分に都合のいい人間だけを残せるという思い込みは、悪質な幼児的万能感の名残だろう。しかし自分に都合の悪い人間だけ目の前から消去し、自分に都合のいい人間だけ残すその人生は、間違った虚しさで満たされるだろう。誰しもが自分に都合の悪い人間とぶつかり合いながら共存することで、人生の豊かな情緒が生まれていくのだ。
浜崎あゆみは全盛期であんなに誹謗中傷されても、自分が弱者であるというようなふるまいや可哀想な被害者のフリをせずに、そんな風に下品で野暮な人間にはならずに、ひたすらにその悔しさを歌詞へと昇華し、素晴らしい音楽作品を作り上げていた。彼女には弱者のフリなんかしない、強者としての誇りと品格があったのだろう。その点においてぼくは彼女と、彼女の音楽作品を尊敬している。浜崎あゆみは尊敬するに値すると、強く信じている。
・浜崎あゆみ「alterna」
変化を恐れるのなら
離れたとこで見ててよ
なんかしたってしなくたって
結局指さされるなら あるがままに
・浜崎あゆみ「1 LOVE」
いつだってなぜか列からはみ出しちゃうのが私の性分
刺すなら尖った言葉でご自由にお好きにどうぞ前になんてならっていられない
・浜崎あゆみ「(miss)understood」
大丈夫だって言い聞かせて
得意の笑顔に切り替える
投げやりだっていうんじゃなくて
開き直ったっていう感覚震える手を隠したのは 同情が寒すぎるから
中途半端で見せかけだけの
温もりなんかじゃあたたまらない
それならいっそ見ないふりして
跡形もなく砕け散るまで