浜崎あゆみが年相応でなく痛いというのは本当か?

 

「昔はよかったのに…」

浜崎あゆみが年相応でなく痛いというのは本当か?

・浜崎あゆみの昔はよかった
・浜崎あゆみはいつの時代も叩かれる
・20年の月日のあとで
・「年相応ではない」と年齢に支配される儒教精神
・年齢という呪縛からの解放
・M 愛すべき人がいて

・浜崎あゆみの昔はよかった

浜崎あゆみが叩かれている。ヤフーニュースになればコメント欄には写真の修正がすごいだの、太っただの、音楽で話題にならないだの、引き際を間違えただの、年相応の格好さえしていれば…などと否定的な言葉が目立っている。

youtubeで全盛期の動画を見ていれば「可愛すぎる」「この時期最強すぎる」「この時は好きだった」「みんなの憧れだった」「昔は良かったのに」など、過去を絶賛しては今の浜崎あゆみの状況に関してはほとんど悲観的にとらえられているようである。

確かに浜崎あゆみの全盛期はすごかった。ルックスは比類稀なきほどに完璧で、声も透き通っていて綺麗、か細く高い声が哀愁や孤独感を漂わせてそれが人々の心を掴んで離さなかった。それに自分で書く歌詞の巧妙さや繊細さも、同世代の共感を呼び覚ますのに役立っていた。

そんな風に「完璧だった」とまで言われるほどの彼女の全盛期の時代に、彼女はインターネット上でも絶賛され、今のようにけちょんけちょんにけなされることなどなかったのだろうか。

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・浜崎あゆみはいつの時代も叩かれる

いや、浜崎あゆみはいつの時代も叩かれていた。今となっては「完璧だった」と絶賛される西暦2000年前後の全盛期でさえ、インターネット上の掲示板では毎日のように、整形女だ、歌詞はパクリだ、なんか下品など、アンチの人々のコメントで賑わっていた。彼女はいつの時代においてもインターネット上の人々にとって、攻撃し、傷つけるための対象であるようだ。

インターネット上の悪意に理由などなく、攻撃対象を見つければとにかく攻撃したくなるようだ。しかし人間として、理由なく他者を攻撃することはできない。そこでなんとか攻撃したり傷つけたりする理由をせっせと探しながら、攻撃する理由を後付けしつつ、アンチ活動は継続される。そこまで自分の人生と体力を浜崎あゆみに費やしているようなら、それはもはやアンチではなくてファンのような気もするが、彼らがそれに気づく機会は少ないだろう。

そして今となっては「完璧だった」と人々に言わしめる奇跡的な全盛期の間でさえ、浜崎あゆみを否定し、傷つける人々は後を絶たなかった。彼らは浜崎あゆみを攻撃し、否定できればなんでもいいのであって、それこそが彼らの狙いだった。おそらく今彼女がものすごくいい歌を作っても、ボイストレーニングを頑張って歌声を洗練させても、年相応の似合う服装をしてみても、彼女を攻撃する人々は消えることはないだろう。きっと別の後付けの理由を用意して再度彼女に攻撃を仕掛けるだろう。浜崎あゆみは、いつの時代も叩かれる運命にあるのだ。

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・20年の月日のあとで

しかしよくよく考えてみたら、時が経っても変わらない人なんてこの世に存在するのだろうか。浜崎あゆみの奇跡的な全盛期から約20年。20年経って、変わらない歌声で、変わらない体型、顔も老けることなく、変わらない歌詞を書き、変わらない活動を営んでいる人なんているのだろうか。確かに全盛期の彼女は人形のようだったが、彼女は人形ではなくナマモノの人間なのだ。変化していくことは自然なことであり、それが他者の望むように変化しようが思い通りの変化が訪れなかろうが、彼女の預かり知るところではないだろう。

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・「年相応ではない」と年齢に支配される儒教精神

最近の彼女の批判として最も多く目立つのは「年相応ではない」ということだ。しかし考えてみればこれも結構なことではないだろうか。

日本人を含む東アジアの国々は、儒教の影響か年齢というものにものすごく敏感である。そして何歳ならばこのようなあるべきだという固定観念や恐れが他国の人々に比べてとても濃厚であるように感じる。そして自分が何か行動を起こさないその言い訳として「もうそんな年でもないし…」と自分の行動を起こす勇気を持たないことの言い訳として、年齢を持ち出すことも多々あるようだ。行動を起こさないことが、自分が勇気のないのが原因ならば自分が責められるような気がしてしまうが、年齢という自然現象のせいにしてしまえば自分が傷つかずに済むからだ。小賢しく軽薄な傷つき回避法だと言えよう。

このようにして日本や韓国や台湾、中国などの儒教国家は特に年齢という数字にあまりに縛られすぎて、そして年齢という観点から自分が他者からどのように見られているのかを気にしすぎて、年齢を超越して自分らしく生きることを忘れているのではないだろうか。そのような閉塞した空気感に、「年相応ではない」浜崎あゆみは風穴を開けてくれるのではないだろうか。

 

 

・年齢という呪縛からの解放

実際には、何歳になろうと自分の思い通りに生きればいいとは思わないだろうか。何歳であろうと、自分の好きな服を着てどうして悪いのだろう。何歳だからやってはいけないことなんて、本当にこの世に存在するのだろうか。そのような年齢制限が存在し、自分が心の底から願う通りに生きられないのならば、それは悲しい世の中のあり方ではないだろうか。何歳から新しい挑戦を始めたっていいし、何歳でも刺激を受ける体験をしてもいいのではないだろうか。

せっかくこの世に生まれてきたのに、たかが年齢という数字に大いに支配され、それによる固定概念や常識に縛られて、他者の目に怯えながらコソコソと生きるなんて、そんな人生を送りたいと本当にぼくらは願っているのだろうか。年齢や数字なんて超越し、本当に自分が心の底から願うように生きられるなら、それは素晴らしいことではないだろうか。

”どこにもない場所で
わたしはわたしのままで立ってるよ
ねぇ君は君のままでいてね
いつまでも君でいてほしい”

 

・M 愛すべき人がいて

8月1日、浜崎あゆみ公認の彼女が主人公の小説が出るらしい。しかもなんと彼女の所属するエイベックスの会長松浦勝人(マックス松浦)との過去の実際の恋物語のようだ。インターネット上には今日も否定的なコメントであふれている。彼女はどんな時代でも叩かれる。どうして今更…という声も多い。

けれどどんな時代であろうとも、本当に価値のある作品は輝き、そうでないものは忘れ去られていく、ただそれだけのことだろう。

 

 

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浜崎あゆみがすごかったというのは本当か? 〜A Song for XXの真実〜