直線を進むことが生命にとってふさわしく合理的であるというのは本当か?

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点を点を最も合理的に結ぶものは、直線。

直線を進むことが生命にとってふさわしく合理的であるというのは本当か?

・点と点を合理的に結ぶものは直線
・自然界に直線は存在しない
・フンデルトヴァッサーという芸術家
・人生で最高!標高4800mへの世界
・位置エネルギーを得るための時間
・階段の正体

・点と点を合理的に結ぶものは直線

ひとつの点と、ひとつの点があり、そのふたつの点を最も短く結ぶものはなにかという問いかけを、ぼくたちは数学の授業で投げかけられる。そしてその答えとは、直線であることをぼくたちは教わる。

まっすぐに直線を結び合うことは、ふたつの点を最も短く結びつける術であり、最も合理的で最も無駄が少ない方法のように思われる。最も合理的に、最も短時間で、最も早く物事を済ませることが尊ばれる今の世の中では、すべての関係性が直線になってしまうことを望んでしまいそうになる。

すべてのものが直線であれば、すべては合理的に、すべてが高速に進み行き、発展も発達も即座に達成され、競争に打ち勝つことができ、何もかもがうまくいくように思われる。ぼくたちは世界のすべてが直線になってしまうことを願うべきなのだろうか。

時間が直線であるというのは本当か?

 

・自然界に直線は存在しない

自然に目を向けてみればどうだろうか。

自然というものは、ぼくたち人間の偉大なる先生だ。(自然と人間をかけ離すと仮定するならば)自然はぼくたち人間よりもはるかに長い歴史を持ち、ぼくたちよりも世界をよく知り、生命にとって最もふさわしい方角を模索しながらこれまでの遺伝子たちを繋げてきているはずだ。

自然へと目を向けてみれば、直線であるものは何ひとつない。直線であるかのように見えるものも存在しているかもしれないが、どこかで直線だとは呼べないズレや歪みを必ず持っているはずであり、完全な直線など自然界には存在していない。

たとえば自然界において川というものは、山から流れて海へとたどり着くような仕組みになっている。どうせ山という点から流れ始めて海という点へと流れ終わると定められているならば、合理的に高速に、山と海を結び直線の川を作り上げてしまばいいものを、この世の川はすべて蛇行し、直線である川など存在しない。

合理的に、高速にという人間の脳内の理想とは全く違った思想を大自然は目指しているようであり、大自然にとって、そしてこの世の生命にとって大切なのは直線ではまったくないことが示唆されている。

 

 

・フンデルトヴァッサーという芸術家

オーストリアのウィーンを訪れた際に、フンデルトヴァッサーという芸術家の奇妙な家を見学した。彼の作品のテーマは「自然には直線がない」ということらしく、その信念の通りに、彼の芸術作品には直線がひとつもなく、その家の線ひとつひとつですら直線であることを否定したいびつな手書きのような線が描かれていた。

「自然には直線がない」。

彼にとってどうしてこれが、大切なテーマとなったのだろうか。

 

・人生で最高!標高4800mへの世界

先日、人生で最も高い場所へ赴いた。中国・雲南省・雨崩の標高4800m地点にある神湖を目指したのだ。これまでの人生で標高何mが最高なのかを考えたこともないほど、標高というものをあまり考えない人生だったが、標高4800mの世界は想像を絶した神秘的な無音の世界だった。

標高3200mの雨崩村から標高4800mまで登ったのだが、ぼくが感じたことは、どうせ4800mまで登っていくのなら、標高3200mの点と標高4800mの点を結ぶ直線の山道があればいいのにということだった。そのような直線の山道があればさほど合理的なトレッキングができるだろうと思ったのだ。しかし、当然のことながら未だかつてそのような直線の山道など見たことがない。

山道というのは、いつもクネクネしている。どうせこの道が4800m地点まで続いているのならば、いちいちクネクネせずにいっそ男らしく真っ直ぐに山頂まで向かってくれていればいいものの、世界のどこの山へ行っても山道はモジモジクネクネするばかりだ。この潔さがないところに、自然の神秘が隠されているのだろうか。

しかし実際のところ、山の麓から山頂まで続く直線の道があったとしても、その直線の坂道のあまりの急峻さに人々は登ることができないだろう。手っ取り早く、合理的なものを望んでいるにもかかわらず、実際に最も合理的な直線の道路が目の前に出現した暁には、人々は疲弊しひどくうんざりしてしまうのではないだろうか。その坂道の厳しさと険しさに、彼らは何度も休憩を取り、足取りは重く、道の先を見つめることさえ嫌になり、トレッキングを「楽しむ」という最大の目的が達成されなくなることだろう。

無理矢理に作り出した合理的な物事は、人の心を苦しめるのだ。

 

 

・位置エネルギーを得るための時間

物理学的に言えば、高さというものはエネルギーを持っている。3200m地点よりも4800m地点にいる人や物の方が、速度エネルギーなど他の形へと変換しうる位置エネルギーが大きいのだ。3200mにいたぼくたちが4800mへとよじ登りより大きなエネルギーを保持する存在になるからには、ぼくたちは「仕事」をしなければならない。その「仕事」というのが、トレッキングという運動だ。ぼくたちはトレッキングというエネルギーのチャージをするからこそ、より高い位置エネルギーを得られる存在になっていくのだ。

大切なのはその仕事にかける時間だ。3200mから4800mへと登るのにどのような経路を使っても、得られる位置エネルギーはもちろん変わらないが、それを最も短時間で合理的に直線距離で1時間で済ませるか、クネクネと曲がりくねりながら10時間かけるかで、人間の肉体にかかる負担が全然異なってくることだろう。人間の肉体というナマモノが持続的に疲労せずに働き続けるためには適度な負担の軽減と休憩が必要であり、その持続性がもたらす心の余裕が人々に楽しみをもたらすのではないだろうか。

ぼくたちが欲しいものは、合理的で高速を示す持続できない直線の道ではなく、遅くてもどんなに時間がかかってものんびりと景色を楽しみながら歩く楽しみを持続させることができる自然の遊歩道ではないだろうか。

 

 

・階段の正体

この3200mからあ4800mへと直線の合理的な道ができないかというのに似たような願いを人間世界において無理矢理に完成させたものに「階段」というものがある。階段はぼくたちを、低いところから高いところへ回り道をせずにまっすぐと運んでくれる。しかし多くの人々が気づくことだろう。直線の階段を上るより、その側にあるクネクネ曲がった障害者用のなだらかな道を通って上る方が、長くはあるが疲労はしないのだと。

 

 

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