料理男子がモテるというのは本当か?

 

ぼくは料理する男子である。

料理男子がモテるというのは本当か?

・実際に褒め称えられる料理男子
・料理男子は自分の料理が最も美味しい
・料理男子はお金を節約できる
・料理男子は料理の簡単さを知る
・料理男子は「いただきます」の深遠な意味に触れる

・実際に褒め称えられる料理男子

ぼくは料理する男子である。研修医として病院で働いていたときも、毎日お弁当を持っていっていたのですごいねとよく周囲の人に褒められていた。なぜか料理をする男子が良い印象を与えるようになってから久しい。やはり男子が料理をするということ自体まだ珍しいことらしく、その上それをお弁当として、忙しい研修医生活の中で携えてくることは素晴らしいことにようだ。しかしぼく自身はそのように感じたことはない。

ぼくが毎日職場にお弁当を持って行っていたからと言って、毎朝毎朝早起きしておかずを作っていたわけではない。めんどくさがりのぼくにとって、そのようなマメなことは決してできなかった。それではどうしていたかと言えば、土日の時間のある時に大量におかずを作っていたのだ。それもおかずは一品か二品に限られる。それを冷蔵庫に入れて5日間お弁当として病院に持って行くのだ。

毎日同じものを食べていて飽きないのかと問われることもあるが、ぼくはお腹が空いていれば、それが昨日と同じものであろうとなんであろうと非常に美味しく感じるので、とても得な性格だったと思っている。どんなものでも自分で作ったものを食べていれば、幸福を感じられるのだ。

おかずには様々なものを作った。なるべくその一品の中にたくさんの種類の食材を入れられるもの、たくさんの栄養素が含まれるものを選んだ。例えばカレーとか、シチューとか、ハヤシライスとか定番のものから、お好み焼きを最初の最初から作ったり、肉じゃが、親子丼、牛丼、その他パエリヤなど小難しいものは本を見ながら作るのも楽しかった。

ぼくが自分で料理していた理由には主に次のようなものがある。

 

 

・料理男子は自分の料理が最も美味しい

まず、自分で作ったものが一番美味しい。これに尽きる。外食で食べる味付けの濃いものより、スーパーで買うお惣菜よりも、自分でじっくりと時間をかけて作ったものが一番美味しいと感じてしまう。これはぼくだけなのだろうか。それとも誰もが思うことなのだろうか。

自分で作っているものなので、何が入っているのかも確実にわかっており、そのような心理的な安心感も、自分で作ったものが最も美味しいと感じる理由になっているのかもしれない。どこでその食材を買ったかとか、それが国産かどうかなどすべてのことが自分の掌の中にあるのだ。

安価で良質な食品を求めて、食材探しをすることも楽しくなる。ぼくは沖縄でメジャーなサンエーで食材を買うこともあったが、地元の野菜や果物が揃う市場のようなところへ買い出しに行って、そこで食材を選ぶという楽しみも覚えることができた。沖縄の市場なので内地(沖縄ではない日本の場所)でできる作物とは異なり、マンゴーやドラゴンフルーツやゴーヤなど、南国的な風土の中に確かに生きている自分自身を感じることも可能だった。

 

 

・料理男子はお金を節約できる

このような買い物の仕方は、お金の節約にも繋がった。食材など特別ものすごく節約するべきだとも思わないが、自分の最も若くなんでもできる健やかな時間を労働に捧げて、その代償として手に入れた神聖なお金というエネルギーを使うためには、良質なものを安価で買うに越したことはないだろう。

毎日お弁当を病院に持って行くことによって、本来ならば300〜500円毎日かかるはずのお弁当代を節約することができただろう。それは1ヶ月にすれば割と大きな金額になることだろう。しかも、その上自分の作ったものが自分で一番美味しいと感じるのだから、いいことずくめである。

 

 

・料理男子は料理の簡単さを知る

そして料理というものは意外と簡単なものであるということも、ぼくが料理を好きな理由のひとつである。料理というものは手軽だ。大学でやる細かな化学実験の方が、明らかに細かく難しいに違いない。理系的な実験の緻密さを思えば、多少量がズレても問題のない料理というものは、なんとも大らかで楽しいものである。

自分で食べるだけなので、いびつな形でも適当に色々と野菜や肉を切って、調味料を色々使用して、そんな風にして適当に作ったものが意外と美味しくなるから面白い。料理というものは、失敗よりもはるかに成功だと思うことが多く、ささやかな成功体験も獲得できる。調味料の量などは絶対値を記憶するよりも、その比率を覚えると効率がよく、醤油、みりん、出汁の割合を覚えて料理すると理系的で面白い。

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しかも今となってはインターネットに料理の仕方が数多く掲載されており、無料で手軽に作りたい料理の作り方を調べることができる。こんなに料理する機会に恵まれている時代はないのではないだろうか。

また手軽に料理しようと思えばできるものの、料理というものから東洋的な哲学を感じ取ることも可能だと知って感動したこともある。それは、食材にも”陰”と”陽”に分けられ、それらを順に重ねることで、調味料を使わなくても、野菜の生み出す組み合わせの原理だけで旨味を発生させるという手順である。それは「重ね煮」という技術であり、ぼくはその発想に大阪の梅田の小さなカフェで出会って、その出会いをとても尊いものだと思っている。

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・料理男子は「いただきます」の深遠な意味に触れる

しかし、これらのことは単なる俗的な意見に過ぎない。ぼくが料理をしていて最もよかったと思うことは、自分が生命を殺して、それを摂取して生きているのだという根源的な事実を、まざまざと実感できるところにある。

料理をしていると、ヌメヌメしたりネチャネチャすることが多い。それは何となく気持ち悪い。お肉などを直接皮膚で触ったときには特にそう感じる。このお肉は、ぼくに食べられるために殺された生命であり、ぼくはこの鶏やら牛やらが生きることよりも、自分という人間が生きるということの方が世界にとってふさわしい価値あるものだと腹の底で思っているからこそ、自分はこの肉を料理できているのだと感じるとき、自分という生命はなんて残酷な悪人なのだろうと感じる。そして生きるということはなんとむごいことなのだろうと感じるのだ。

ぼくたちはスーパーで牛肉やら鶏肉やらを買い上げるので直接的には感じにくいが、それを買って食べるということは、自分のこの手で牛やら鶏やらを殺しているに等しい行為なのだ。そしてそれは肉のみならず、人参さんでもキャベツさんでも同じことである。あらゆる食事は生命を残酷に奪い取って得られる産物であり、いわば食卓は生命の死骸が並べられたステージであり、レストランはいわば生命の死体陳列所である。

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そうは言ってもこの生命は生きることを中止することができない。自分自身が生きるという罪の重さを、料理することによって深く感じたにも関わらず、それでも生きるということを止めようとは思わない。ああ、なんとも厚かましいこの生命であることよ。

だからぼくたちは食べる前に「いただきます」という。まさにぼくたちは別の生命から生命を確かにいただいて生を継ぐのだ。このような素晴らしい日本語を使用する民族に生まれついたことは、ぼくにとっての誇りである。中国でも韓国でも、食べる前は何も言わないらしい。西洋では食べる前に「グーテンアペティート」「ヴォンアペティート」という。いずれも「よい食欲を」と相手に向かって食欲を促すための言葉であり、大した感慨を感じない。

「いただきます」という、自分に命を与えてくれる全ての生命に感謝するという言葉を、日常でごく普通に使用している国に生まれついたことは、非常に喜ばしい事実である。そしてそれは、確かに食事というものの真実に向き合ったからこそ発明された、苦しみの果ての哲学的な言葉であると思う。

 

 

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