人間は生きているだけで価値があるというのは本当か?

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生きていてくれてありがとう。

人間は生きているだけで価値があるというのは本当か?

・ぼくには8つも離れた弟がいる
・笑うだけで褒められる時代の終焉
・どこまでも求めすぎる人の心
・「生きていてくれてありがとう」

・ぼくには8つも離れた弟がいる

ぼくには8つ下の弟がいる。8つも年が離れていると喧嘩をすることもなく、赤ちゃんの頃からずっと成長を見守り続け、悪いことをしたらきちんと叱って、兄弟というよりもむしろ親子のような感じさえする。

最初はずっと仰向けで寝ているだけだった赤ちゃんが、時が経つごとにすくすく成長し、初めての寝返りをした時、初めてお座りをした時、初めて伝い歩きをした時の感動は、今でもありありと思い出せるし、それを思い出すだけで心があたたかくなる。いないいないばあをしたらものすごく喜んだり、お馬さんをしたらとても喜んだり、一緒に手をつないでよーいどんと言ったらちょこちょこと走り出したり、8つも離れた弟との思い出は、自分が大きかった分より一層鮮明な記憶として心の中で残り続けている。

 

 

・笑うだけで褒められる時代の終焉

赤ちゃんというものはある意味気楽なもので、笑っているだけでもみんなが褒めてくれる。ひとつ言葉を話したり、ハイハイしたり、歩いたり、ご飯を食べたりそんな人間にとって基本的な何気ない行動も赤ちゃんにとっては大きな意味があり、周囲の人たちはその度に笑顔になり、喜び、いい子だねと褒めてくれる。それは今忘れ去ってしまっているとしても、赤ちゃんの時には誰もが経験した出来事だろう。生命としてそこにいるだけで、みんなから注目され褒め称えられる赤ちゃん。しかしそんな時代も長くは続かない。

赤ちゃんが大きくなって一人前の人間になっていくにしたがって、当然だが赤ちゃんの頃のような褒め称えられ方をすることはなくなる。小学生になるときちんと勉強していないと褒められなくなるし、テストの点が悪いと叱られることも増えるだろう。何か優れた点がないと賞賛されたり肯定される機会も減る。その傾向は中学、高校に行くにしたがってますます顕著になっていく。尋常の小学生になって、ひとつの言葉を話したり、ただ歩いただけで褒めてくれるなんてことは普通ならありえないだろう。周囲の大人たちは欲深くなり、もっと価値ある偉大なものを子供に求め出す。

結局資本主義のこの世の中で、大人たちは子供に競争に勝利し、いい仕事に就き、たくさんのお金を稼ぐことを望むようになる。勉強ができる子供を褒め称えることだって、大人たちは学問そのものに価値を見出している訳ではなく、いい仕事に就くための手段としての勉強だと見なしていることが大半である。人間は他人の役に立たなければならないと世間では言われるが、それだって他人の役に立つこと=労働を獲得し、お金を稼ぐべきだという前提の上に成り立った思考である。

笑顔になればみんなを幸せにすることができ、褒め称えられた赤ちゃんの時代を通り過ぎ、人間にはやがて他人の役に立たなければ誰からも褒め称えられることがなく、肯定もされない時代がやって来る。

 

 

・どこまでも求めすぎる人の心

ぼくが8つ年下の弟と接する際に、赤ちゃんの時代から成人した今に到るまで一貫して心がけていることは「あなたが生きているだけでぼくは嬉しいよ」という思いを胸の中に抱くことである。それが彼に伝わるか伝わらないかは全く重要ではない。ただそう思い続けることが重要だと信じているのだ。

赤ちゃんの頃には誰もがそのような思いを他人から受け取る。生まれたての赤ちゃんを目の前にして誰もが、生きているだけで尊い存在だ、生きていてくれて嬉しいと心から感じるだろう。しかしそのような慈しみの心は次第に人々の心から失われてしまう。赤ちゃんが大きくなり一人前の人間になっていくにしたがって、もはや彼が生きているだけでは誰もが満足しなくなる。生きているだけで肯定されたり、褒め称えられることは皆無となる。一人前の人間にとって、生きているということは当たり前の大前提となってしまうからだ。周囲の人々は当然のように高望みをし、もっと優れたものを提示されることを期待する。

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きちんと勉強ができたり、スポーツが得意だったり、何らかの特別な才能があったり、それらを駆使して他人の役に立ったり、それらを利用してお金を稼いだりしないと、誰も肯定してくれない時がやって来る。逆に何も優れたものを持っていなかったり、他人の役に立っていなかったり、お金を稼ぐことが苦手だったりすると、人々は彼を心の中で非難し、否定する。生きているだけで肯定のシャワーを浴びられる日なんて、もう来ない。他人の役に立たなければ、否定される日々が必ず人間には訪れる。

 

 

・「生きていてくれてありがとう」

ぼくは人間たちのそのような様子を眺めながら、なんて悲しい習性だろうと思った。生きているだけではなぜだめなのだろうか。他人の役に立ち、お金を稼ぐということだけが本当の生きている価値なのだろうか。生きていることは、決して当たり前なんかじゃない。大切な人が共に生きていてくれるということは、それだけで尊いことだ。しかし生きていることなんて当たり前だと見なしがちな日々の中では、そのような心さえ失われてしまう。

「生きていてくれてありがとう」。赤ちゃんの頃に誰もが享受したはずの尊い慈悲の心を、大人になってから受け取ることができずに、人々の心は迷っているのではないだろうか。この世に生まれたての頃に受け取った、欲望の付着しないあたたかな本来あるべき人の心を、生きていく度に見失っては孤独に打ちのめされているのではないだろうか。人がこの世で心から切望しているものは、自分が何かを成し遂げた際の拍手や、貢献や役立ちに対する賞賛ではなく、何ひとつ成し遂げなくても、誰の役にも立ってなくても、ただ生きているというだけで肯定されるという、あの懐かしい風景なのではないだろうか。

誰かの役に立つことは重要ではない、何かに貢献することなんてどうでもいい、損得を超越して、利害を退けて、ぼくは大切な弟に、自分が自分のために生きているという尊さを肯定する気持ちを与えることを忘れない。「生きていてくれてありがとう」。それを言葉にすることは決してない。ただ胸の中に強い思いを抱くだけ。伝わっても伝わらなくてもいい。ただ与えられていることだけでいい。与えることは喪失であるとは限らない。与えることで与えられるという真実。

与えられる人間に価値があるというのは本当か?

ぼくが8歳の時、家に天使のような赤ちゃんがやって来て嬉しかった。小さな命が、あたたかな体温を持って生きていてくれるだけで嬉しかった。そんな思いを、どうして人は忘れてしまうんだろう。もっと欲深いものを望んでしまうのだろう。赤ちゃんの時に惜しみなく与えたその思いを、今でもひとつも変わらずに与え続けよう。

 

 

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