徹底的な儒教のヒエラルキー!年上を敬うべきであるというのは本当か?

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日本という国は、目に見えなくとも儒の思想に根深く支配されている。

 

年上を敬うべきであるというのは本当か?

・見えにくい儒教の洗脳
・日本の日常にあふれる儒の思想
・数字により人間は分断される
・年上を敬うべきであるというのは本当か?
・分断を退けた方が真実は近づく
・空海の聾瞽指帰(ろうこしいき)
・まとめ

・見えにくい儒教の洗脳

日本という国は、儒教の思想に根深く支配されている。儒教とは古代中国から続く思想の宗教化された体系であり、孔子が始祖と言われている。儒教の代表的な書物として広く知られているものには「論語」があるだろう。これは孔子の思想をまとめたものであるとされる。

しかし、孔子の誕生前のもっと古くから「儒」という思想は古代中国の間に広く浸透しており、それは中国人のものの考え方や主に死生観を示しているという。そしてその儒の思想は、ぼくたち日本人にとっても無関係ではありえない。たとえば「位牌」というものの形も儒の思想から生まれた人間の姿を象ったものであるというし、お盆というシステムも儒という中国的死生観から発生したものである。

日本人の宗教といえば「神道」や「仏教」を思いつく場合が多く、日本人は神様やお釈迦様を信仰しているという考えには自然な感じを覚える。それは主に、神道や仏教には目立つ宗教施設が日本中に溢れていることが理由だろう。日本人の中で、神社やお寺に行ったことがないというほど、神道や仏教は日本国民に広く浸透している。

それに対し儒教というものは、日本にあまりその宗教施設を持たない。中国色の強い長崎や沖縄ならば、儒教の宗教施設いわゆる孔子廟を発見することもできるが、日本に普通に暮らしていて日常で儒教の廟に巡り合う機会は極めて少なく、馴染みも薄い。それにもかかわらずぼくの感覚では、仏教や神道と同様、いやもしかしたらそれ以上に、儒の思想はぼくたち日本人のものの考え方に影響を及ぼしていると言えるだろう。

 

 

・日本の日常にあふれる儒の思想

上記のお盆の際の先祖が帰ってくるという死生観もそうだし、位牌も儒教的な物質だ。親孝行の「孝」だって儒の思想だし、仁義や礼儀も儒教的傾向の強い観念である。死生観に関しては不思議なもので、日本では仏教的なお葬式をあげて49日には輪廻転生しどこかで生まれ変わったという行事まで執り行うにもかかわらず、実際には誰ひとり、死者が生まれ変わって新たな生を歩んでいるとは信じていないようだ。

死んだ後に生まれ変わり別の人生を歩んでいることを信じているのならば、どうしてお盆にご先祖がこの世に帰ってくることなどありえるだろうか。生まれ変わって別の人生を歩んでいる人が、また生前の姿へとわざわざ逆戻りして、生前関わりあった人々の元へ帰っていくことなどありえない。そんな器用に転生したり逆再生したりできるほど、魂のシステムは都合よく安易ではないはずだろう。

日本人の真の死生観の中では、死んだ人はそっくりそのままの形で空とか天とかに住んでいると思っているような節がある。それゆえにお盆ではご先祖様が空から帰ってくるのを待つことができるのである。そしてこれは古代中国から続く明らかな儒の思想である。この傾向は特に中国の近隣である沖縄で濃厚に確認することができる。沖縄のお盆というものは、日本のそれよりもっとはるかに重要で大掛かりな行事だ。

きっと仏教というものは、日本人にとってはまだ新興の宗教の類なのではあるまいか。それよりもはるか古くから脈々と受け継がれてきた古代中国の儒の思想の死生観が仏教の形式的な死生観を乗り越えて、いまだに日本人の心の根幹に居座っている。仏教という目新しい死生観が、日本人の儒の思想に色濃く染められた死生観をまだまだ退けることができずに、真には定着していない様子を伺い知ることができる。

そしてこのような日本人にとって最も根深い儒の思想の中で、ぼくたちの日常生活に最も影響を及ぼすことは、目上を敬わなければならないという思想である。

 

 

・数字により人間は分断される

ぼくたちは小さい頃は、人はみな平等だと教えられる。小さい子供達はそれを当たり前だと思い自由な気持ちでのびのびと育ってゆく。しかし中学校に入った時から様子は一変する。人間は平等だと言い張っていた大人たちが意見をガラリと変え、この世には上の人間と下の人間がいるのだと教え始める。突然の儒の思想の洗脳の始まりである。

中学校では、年が1年が違うことでもはや同じ地位の人間ではなく、絶対に敬い慕うべき相手だと教え込まれる。そして敬い慕っていることを示すために、言語体系を変えろと通達されるのだ。敬語というシステムの始まりである。

中学生のぼくにはこれが奇妙で仕方がなかった。なんておかしな洗脳をされてしまう国に生まれたのだろうという驚きの心境である。まず、年が1年違うだけで絶対に敬わなければならないという思想が、根本的におかしいと思うのはぼくだけだろうか。

大前提としては、人間というものは皆平等なのである。そんな生命にとって当たり前のことを、まず先生という子供を導くはずの大人たちが否定し、人間に格差を設けるように指導すること自体が驚きだった。そして百歩譲って人間が残酷ながら差別化され区別化されるべき生き物だったとして、そこで年が上なのだから絶対に敬うべきという理屈もわからない。

どうして年が上だったり学年が上だったりすると、敬うべきという義務が生じ、またそれを示すためにわざわざ言語体系まで変化させるという手間をかけなければならないのだろう。そんなことに無駄なエネルギーを費やすのなら、もっと生命にとって本当に役立つことにエネルギーを使いたいものだ。

しかし儒の思想に洗脳されたこの東アジア国家では、これは有無を言わせず強制であるという。もしもこの原則を守らなければ、社会的抹殺が用意されているという空気が漂っていると言っても過言ではなかった。なんておかしな思想に洗脳されている場所に生まれついたのだろうと、中学生のぼくは戸惑ったものである。

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・年上を敬うべきであるというのは本当か?

年上だから必ず敬うべきというのは、果たして本当なのだろうか。ぼくは何も年上を敬うのが嫌と言っているわけではない。そうではなくて、人間というものは年上だろうが年下だろうが、赤ちゃんだろうが100歳のおばあちゃんだろうが、誰であろうと平等に尊敬しなければならないと思っているのだ。どのような人間にもそれぞれ長所と短所があり、間違いだらけの部分もあれば尊敬すべき素晴らしい部分を誰もが持っているのだから、人間というものをすべて平等に尊敬したいというのがぼくの意見である。

しかし東アジア民族の社会的構造はこれをよしとしない。平等ではなく、必ず階級を設けなければ気が済まないのだ。たとえば2年生は1年生より絶対的に上、2年生は3年生より絶対的に下という具合である。これが能力や人格ではなく、年齢や学年で決定されるというのも軽薄で馬鹿馬鹿しい。ものすごく優れた1年生とものすごく愚鈍な2年生がいても、必ず1年生は2年生を敬い敬語を使い、尊敬の念を示すことを強要されるのだ。どうしてそんなに年齢や学年という数字に執着しこだわるのであろうか。数字という虚構により、等しいはずの人間が分断され、階級という次元を押し付けられるのは、不可解以外の何ものでもない。

そして尊敬されたらされたで、尊敬し返さなくてもいいという空気も非常に奇妙だ。普通人間として会話しているときに、相手に敬意をもって接されたら敬意を与え返したいと思うのが通常ではないだろうか。しかし東アジアのシステムではそうではない。この人が上、この人が下とはっきりと分断され区別されているから、1年生がわざわざ言語体系を変えて2年生に尊敬を示しても、2年生は尊敬しない言葉で1年生に返すのが普通である。逆に2年生が1年生に敬語で返したら奇妙とすら思われる傾向がある。

しかし尊敬されたら尊敬し返すということは、人間として当然ではあるまいか。敬語により相手から尊敬が示されたからといって、自分は偉いのだと思い込み尊敬しない言語で相手に返すなんて、とても傲慢で不躾な態度ではないだろうか。しかしこれが、たかが数字による階級制度の敷き詰められた東アジアの島国ではまかり通っている現実である。

 

 

・分断を退けた方が真実は近づく

本当にこのおかしなシステムに意味はあるのだろうか。このシステムを共有し、東アジアに蔓延する不思議な思想に従わなければ、何か生きる上で生命に不備が生じるのだろうか。ぼくはそれを実験するために、そしてなるべくこのおかしな不条理なシステムに巻き込まれないために、中学で敬語を使わないように努めていた。普通に考えれば、周囲と同じようにおかしな儒の思想に洗脳された方が楽に生きられるし、わざわざ流れに逆行して生きていくことは生命を困難にするだろうこともわかっていたが、このおかしな思想の正体を確かめたかったのだ。

そしてなるべく敬語を使わないように生きていたが、なにひとつ困ったことはなかった。むしろ敬語を使う時よりも、人々との間の階段を取り払うことが可能なので、年上と心から親密に仲良くなれる機会も増えたように感じる。年上と同じ目線で話すということは、非常に面白いし何かしらの学びにもなるのでとてもいい経験だと思った。そしてこの、わざわざ数字に従って東アジアの人間たちを分断し、区別し、階段を設け、尊敬し尊敬されることを強要されるシステムの無意味さを思い知ったのである。

考えてみれば英語にだって根本的には敬語はないのだ。それでみんなが普通に生きているのだから、そもそも数字による分断のシステムが人間にとって根本的に必要なはずがない。旅の中でも英語で話せば敬語というおかしな分断システムもなく、同じ目線でどのような人とも語り合えるので、非常に尊い経験をすることができる。逆にどんな人々とも同じ目線では話し合えないというのは、儒の思想による大いなる損失なのではないだろうか。

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・空海の聾瞽指帰(ろうこしいき)

真言密教の創始者、空海も儒教には多大な違和感を覚えていたようである。彼は四国から都にある、当時日本唯一の大学へと入学したが、儒教の思想ばかりを教える大学の教育に無意味さを感じ自ら退学してしまう。そして処世術やうまい世の中の渡り方ばかりを教える儒教の代わりに、生命の真理を追求するための仏教を学び始めるのである。

そのときの空海の思想は彼の書いた「聾瞽指帰(ろうこしいき)=三教指帰」で明確に知ることができる。彼はこの本の中で、儒教と道教と仏教を象徴した3人の人物たちを議論させ、仏教の優位性を強調していく。

“儒者よ、あなたは年長であるからと言って長幼の序をやかましく言い、そのしつけを核にして浅薄な思想を作り上げているが、それは錯覚である。時間にははじめというものがなく、あなたも、わたしも、生まれ変わり、死に変わり、常なく転変してきたものである。生きていることの秘密を知るについては、儒学は無力である。”

ぼくがこんなに儒学の思想にひどく違和感を持つのは、空海の開いた高野山の麓の街で生まれたことが影響しているのだろうか。儒学の無意味さを強調する念が、高野山から伝わってきていたのかもしれない。

しかし、ぼくも儒教を嫌うなら嫌うで、それならばあまり知らずに嫌うのはいけないと思い、儒教的な本を何冊か読んだ。「論語」はやはりおかしな点もあり、お父さんが牛を盗んでいることを知っていても家族ならそれを隠さなければならないなどと書かれており、やはりろくでもない思想も混じっているという印象である。もちろんそれなりに役立つことは書いてある。

しかしこの沈黙の宗教–儒教という本はそれはそれは面白かった。儒教が孔子の出現以前からの、中国人における原始の思想であるという観点から色々なものの考え方を紐解いていくのだが、日本人がいかに儒教に染まっているかが改めてよくわかるのだ。そして自分自身のことを知ることは誰だって楽しい。儒教の正体を確かめることは、日本人としての自分自身を確かめることでもあるのだ。儒教に濃厚に支配されている日本人にとっての、鏡のような役割を果たす本である。

この本を読んで「儒」を否定することは虚しいと感じた。「儒」はもはや自分たち自身であり、「儒」の否定は自分自身の否定にもなりかねない。そのような文化的な背景は考慮しつつ、それでもなおやはり真理にそぐわないと自分の直感で違和感を感じるシステムに関しては、その思想を心から退けることを辞さない構えである。

 

・まとめ

人間は皆同等で平等であるのに、人間に格を設け、区別化しようと思うその心構えがそもそも間違いであるように感じる。しかもそれが、聡明さや徳の高さによって階級が分断されるのならばまだわかるが、生まれてからの年月やそこに在籍する月日という単なる数字により決定されるというからさらにおかしなことである。もちろん年上を尊敬すべきということは人としてとてもよい心構えだが、それと同様に平等に年下でもどのような種類の人間でも尊敬すべきであり、年上や目上にだけ限定され強制されることは不可思議なことである。そしてこれらの考え方は主に儒教の思想に支配されているゆえであり、この支配は東アジア一体に及んでいる。

あらゆる人間を尊敬することは人間として当然の心構えだが、それをたかが数字によって強制されることは異常な考えではないだろうか。その強制が敬語という言葉のシステムの強要にまで及んでくるからさらに不可解だ。尊敬するのならば、別に言葉でなくとも心からの態度で示されるべきではないだろうか。年長であるからと尊敬を強制される仕組みが、そしてそれを敬語によって表現しなければならないという風潮が、本当は大して尊敬もしていない人に対しての尊敬を偽装してしまう結果となり、それが民族の陰口を言いやすい性格や後ろ暗さにつながっていくのではないかと危惧するものである。

そしてその儒教の上下関係の強制が、上にとって下の民衆をコントロールしやすい非常に都合の良い状況を作り上げてはいないだろうか。この縦社会というものには、いちいち議論をせずに上が下に命令した通りに事が進んでいくのでスムーズであるという長所もあるらしいが、それは下が心を持たないただの部品や機械のようになれということを暗に意味しているようでやりきれない。この上下関係を絶対的な確固たるものとし上からの命令が絶対であるという思想がなくても、日本のご先祖さまたちは上の命令を絶対的に聞き入れ、自らの命さえも犠牲にし、そのすべてを飛行機に乗せて敵の船に体当たりするという行為をしたのだろうか。

 

 

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