有名人の死であろうと、名もなき者の死であろうと、同じように悲しむ心を持て。
志村けんさんが亡くなった!有名人の逝去を嘆き悲しんで当然だというのは本当か?
・「+1」で表される名もなき人の死
・有名人の志村けんさんが亡くなった
・志村けんさんの逝去は「+1」では済まされない
・有名人の死であろうと名もなき者の死であろうと、同じように悲しむ心を持とう
・中島みゆき「顔のない街の中で」
目次
・「+1」で表される名もなき人の死
新型コロナウイルスで毎日何人かの人が亡くなっている。名もなき人がひとり亡くなった場合、ニュースやテレビでは死亡者の数に「+1」と書かれて終了する。「+1」という数字だけでは実感がわかず、その「+1」という数字の中にも様々な人生模様や幸福や悲しみがあり、それをくぐり抜けて必死に生き抜いてきた尊いひとつの生命であるはずなのに、「+1」という簡略化された数字に惑わされて、ぼくたちはついその生命を尊重し、悔やみ、思いやることを忘れ、そうか「+1」増えたのかとなんとなくぼんやりその数字を通り過ぎ、次の日にはそんなことも忘れてしまう。「+1」には名前も性別も年齢もなければ、人柄や思い出話など何もないので、そのように思いやりなく通り過ぎてしまうことは、まさに当然の成り行きであるとも言えよう。
しかしこの「+1」にも巨大な力が働く場合がある。今日のように志村けんという有名人が亡くなった時がそれである。
・有名人の志村けんさんが亡くなった
ぼくは志村けんさんという人をよく知らない。もちろん存在は知っているし、なんだか昔大人気で大活躍していたということはなんとなくアニメのちびまる子ちゃんを見て知っているが、その時代を生きたわけでもないので、そうか昔大人気だったのだなと思う程度で、自分の中で大きな存在感を占めることは全くなかった。そしてもちろん会ったこともなければ見たこともないので、ぼくにとって志村けんさんが亡くなったということは、全然知らないおじいさんが亡くなったということと同義である。
もちろん人がひとり亡くなったことは悲しい出来事であるのでとても心痛く思うが、それは知らないおじさんが亡くなったという噂を聞いたのと同じような種類の心の痛みであり、それ以上でもそれ以下でもない、「死」「人がお亡くなりになった」という事実に対して自然発生的に起こる人間としての普遍的であらゆる人に平等な感情であり、有名人が亡くなって大変だ!嘆かわしい!という種類のものでは決してない。
・志村けんさんの逝去は「+1」では済まされない
志村けんさんが新型コロナウイルスで亡くなったことは大事件であるように世の中では噂されている。テレビにも流れ、大量のニュースにもなり、SNSでも噂され、なるほど人間の世の中では有名人はただの「+1」にはならないのだと思い知らされる。世の中は有名な人間が亡くなると、衝撃を受けるのだ。
しかし有名な志村けんさんのひとつの命も、連日報道されては忘れ去られていく「+1」のひとつの命も、全く異なることのない同じ尊い生命ではないかとぼくは思うのだ。志村けんさんの高名な人生も、名もなき「+1」で済ませられてしまう人生も、同じように紆余曲折の幸福や喜びや悲しみや苦しみがあり、同じ価値に満たされたものではないだろうか。
・有名人の死であろうと名もなき者の死であろうと、同じように悲しむ心を持とう
それなのに世の中の衆生は有名な死ばかりを噂し合い、追いかけては嘆き悲しんでいる。今有名人の死に嘆き悲しんでいる彼らは、全く同じ価値があり全く同じ輝きがあった「+1」の逝去に対しても、きちんと同じように心を痛め、嘆き悲しむことができたのだろうか。有名なものばかりに注目しては嘆き悲しみ、無名の生命たちに思いを寄せることもなく無視して、無慈悲にこの世を渡ってはいないだろうか。ぼくたちは有名人の死であろうと、名もなき者の死であろうと、同じ価値のある生命なのだと見透かす真実の瞳を見開き、同じように悲しむ心を持つべきではないだろうか。
”有名である”という思い込みに、”みんなから愛された”という常識に、決して惑わされてはならない。実際に有名人というのはほとんどの大衆にとっては「見知らぬ人」であり、本当に深く心を通いあわせたり本性のままに思いやった人はあるまい。ぼくたちは有名人の悲しい報告を、見知らぬ人の悲しい報告と同じくらいに、悼むための真実の心を咲かせよう。
・中島みゆき「顔のない街の中で」
”見知らぬ人の笑顔も 見知らぬ人の暮らしも
失われても泣かないだろう 見知らぬ人のことならば”
”見知らぬ人の痛みも 見知らぬ人の祈りも
気がかりにはならないだろう 見知らぬ人のことならば”
ドキッとしてしまう歌い出しから始まるのは中島みゆきの「顔のない街の中で」の歌詞である。ぼくたちは他人を大切にして思いやりを持って生きなければならないと教えられ、またそのように信じる。しかしその実本当のところ、大量の人々が行き交う都会の街の中では、見知らぬ人のことなんて気にも止めずに歩いているのではないだろうか。むしろたくさんの人々と出会いすぎるこの街の中では、いちいちすべての他人の暮らしや心に気をとられてはいられない。人生はそれほど暇ではないし、人の心の受け止めるための容量もそんなに多くなはい。そんな当たり前の人の心の性質に、中島みゆきは真正面から言葉をぶつけてくる。
”ならば見知れ 見知らぬ人の命を 思い知るまで見知れ
顔のない街の中で 顔のない国の中で 顔のない世界の中で”