死を待つ人に死生観を問うてはいけないというのは本当か?

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果たして死んだらぼくたちはどうなるのだろうか?

死を待つ人に死生観を問うてはいけないというのは本当か?

・死んだ後どうなるかを誰も知らない
・ぼくたちは根拠のない死後の世界を信じることしかできない
・死を待つ人に死生観を問うてはいけないというのは本当か?
・ぼくたちの一部である病と死は敵なのだろうか
・死生観を語ることは自分自身を語ること

・死んだ後どうなるかを誰も知らない

ぼくたちは必ず死ぬ。それはどうしようもない、この世に生まれた瞬間から定められた運命である。生まれた瞬間から死ぬということは決まっているのに、ぼくたちは死に怯え、死にたくないと嘆き、死から逃げ、なるべく死を遠ざけようとする。それはもはや人間というよりも、動物的直感として当たり前の行為である。

しかし、誰もが必ず死ぬというのに、死んだらどうなるのかをきちんと知っている人はこの世にひとりもいない。こんなに科学が発達して、学問も成熟して、偉そうな顔をしてふんぞり返っているおじさんもたくさんいるのに、その誰もがぼくたちに必ず訪れる死の後がどうなるか知らないなんてとても滑稽な話である。早い話が、ぼくたちはぼくたち自身について何も知らないのと同じだ。

権力のある国会議員も、なんでも知っているような顔をしている教授も、人の命を扱っている医師も、誰一人その答えを知らない。ぼくたちは何も知らないまま、無知の状態で死後の世界へと飛び込んでいくしかないのだ。それはそれで不思議な冒険感があるとも言える。

 

 

・ぼくたちは根拠のない死後の世界を信じることしかできない

ぼくたちは何も死後については知らされず、ただ「信じる」ことでしか死後の世界を知ることはない。たとえば死んだから生まれ変わるのだと信じる。死んだら川を渡って、そこにはもう死んだ家族みんながあたたかく健康な状態で待ってくれているというのもあれば、死んだらみんな仏になって極楽浄土で幸せに暮らせるのだというのもある。

それもこれも根拠のないことだらけだが、わからないならわからないなりに人間たちは古代から死後の世界を妄想して、生きる自分を奮い立たせて来たという歴史もあるのだろう。そしてそのような原始的民俗学的な死生観が、いつしか宗教として成立している例はよく見かける。

 

・死を待つ人に死生観を問うてはいけないというのは本当か?

ぼくは医師として、医学的にどうしても治らない病気の患者さんをお看取りするという場面に遭遇したことが何度かあった。医師は病気を治すだけではなく、どうしようもない死と向き合うお手伝いをすることも大切な仕事だ。突如として命に関わる病気になり病院へ運ばれて、意識のないまま亡くなってしまう患者さんもいれば、癌のようにじわじわと衰弱していく患者さんと最期の時まで意思疎通し、関わり合うということもあった。

ぼくが気になったことは、人々の死生観を聞き取り、語り、患者さんの死に向き合う姿勢をとらえようとすることが、なんとなくタブー視されているような風潮があることだった。医療者たちの間でも「死」というものを意識から遠ざけ、なるべく話題にせず、忌むべきだという人間的、潜在的な観念があり、それにとらわれているような気配があった。

しかし死と直面している患者さんに対して、果たしてそれはふさわしい姿勢なのだろうか。いくら死が得体の知れないものだからと言って、死というものを間近に感じている患者さんと、死というものについて語り合うことは絶対的に悪いことなのだろうか。もちろんきちんと関係性を築けていて段階を踏んでいる場合に限るが、むしろ最期の瞬間を任されている人間として、患者さんの死生観の詳細を知り、死についてどのように感受しているのかを共有し合い、患者さんが今まさに向かっている「死」という国へのふさわしい旅立ちの準備の手助けを行うべきなのではないだろうか。

 

 

・ぼくたちの一部である病と死は敵なのだろうか

医療においては、死というものは「負け」である。ぼくたちは病を治し、人々をなるべく死や病気やそれに伴う苦しみや痛みから遠ざけることが仕事なのだ。医療者にとって、病や死は戦うべき明らかな「敵」となる。それはあらゆる医学の根底にある基本的な通念だろう。しかしぼくの野生的な直感は、この通念をいささか西洋がかった怪しい観念だと訝しげに感じてしまう。ぼくの直感的な感性が医学というものに完全にそぐうことがないのは、この確かな違和感が原因である。

病気や死が人間の敵であるというのは本当か? 〜医学の最果て〜

仏教では、人生は生老病死の苦しみに満ちていると表現される。人間は誰でも、生まれ、老い朽ち、病み、死んでいく運命にあるのだ。それはまぎれもない事実であり、この流れにそぐわない人間は人類の歴史上誰ひとり存在していない。どんなに特別な英雄であろうとも、どんなに神秘的な聖人であろうとも、病と死から逃れられた者はない。病と死は、医学が語るようにぼくたちの敵ではなく、ぼくたちの確かな一部なのだ。

ぼくたちは、ぼくたちの確かな一部を敵と見なすべきなのだろうか。攻撃すべきなのだろうか。ぼくたちの一部を忌み嫌い、見ないフリをして、最期までシラを切ることができるのだろうか。自分の一部と、自分自身と、真剣に真正面から向き合うことはしなくていいのだろうか。果たしてそれが人間にとってふさわしい生き方なのだろうか。

もちろん痛みや苦しみを取り除きたいという願いは人々にとって当たり前だし、ぼくたち医療者はその願いを的確に叶え、癒しや幸福を人々にもたらすことが重要な役割だ。しかしどんなに一時的にぼくたちが病を人々から取り除いても、必ず取り除けなくなる時が訪れる。この世で死から逃げられる人はいないのだ。

そのように究極的な状態に陥った場合に、病と死を敵だと見なし戦うべきだと戦闘的になっていた精神に、果たして何ができるのだろうか。誰もが必ずたどり着く「死」という最終駅で、病と死を敵だと見なす医学は果たして何をもたらすだろうか。人間にとって普遍的な死という究極の旅立ちにおいて、医学という学問は無力となり得るのだろうか。人間の究極の岸辺において、医学は何者となるのだろうか。

 

 

・死生観を語ることは自分自身を語ること

ぼくたちは「死」というぼくたちの確かな一部を、無視したり見ないフリをしたり忌み嫌ったりしないで、もっと真剣に向き合うべきではないだろうか。病と死はぼくたち人間の敵だという植え付けを取り払い、自分自身を興味深く知るように、ぼくたちの一部としての死生観について語り合うべきではないだろうか。死に向き合い、問いかけ、そして表現すべきではないだろうか。その先にこそ、通常の医学ではたどり着けない人間の究極としての癒しの浄土が待ち構えているのではないだろうか。

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死というものは急に訪れる。元気なうちから死に向き合い、死について考察している人は非常に少ない。そして突如死に向き合わなければならなくなり、何の準備もできていないことに困惑する。しかしどんなに死について考えたことのない人でも、その風土や土地に根付いた潜在的な死生観があるはずだ。それを自然と引き出し、共有し、無理なく語り合うことで未知への不安が癒されることもある。

ぼくは信頼関係が築けていることを前提として、死の受容の段階を意識しつつ、自然な会話の流れでそうなり得るなら、なるべく死生観について患者さんに尋ねるようにしていた。死生観というものは本当に様々で、たとえばぼくは日本出身だが、働いていた宮古島の人々の死生観は全く異なっているように感じた。ぼくたちは目の前にいるのは同じ人間だからと言って、自分の中の死生観を患者さんにあてがってそれを前提として会話すべきではない。死生観というものは同じ民族の中でも多様性に富んでおり、その違いを理解することで死と向き合う患者さんへの対応が微妙に変わっていくこともあるだろう。

もうすぐ人生で初めてアメリカに行く人が隣にいたら、アメリカについて話し合うのは至極当然の会話の流れだ。しかし初めて「死の国」を訪れる人となると、話は違ってくるようだ。けれど人生の中でアメリカに行く日本人は珍しくても、すべての日本人は死の国へと旅立つのであり、むしろ会話は死の国の情報の方がかなり重要ではないだろうか。死について語り合い、その観念を共有し合うことで、その得体の知れなさが緩和され、不安や恐怖が少しは取り除かれ、必ず訪れる死の国を身近に感じる可能性もあるかもしれない。必ず訪れるのならば、身近に感じておいて損なことはないだろう。

死は本当に、口にするのもはばかられるほど恐ろしいものなのだろうか。ぼくたちがこの世で愛したすべての人々ですら、余すことなく死の国へと旅立っていくのだ。そう考えればそんなに恐ろしいものでもなく、むしろ親しみ深い異郷なのかもしれない。

 

 

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