上級医からの暴力と暴言!パワハラをした医者がパワハラを研修医から訴えられると心が傷つくというのは本当か?

 

不条理に悲しむからこそ、人間は哀れで愛おしい。

上級医からの暴力と暴言!パワハラをした医者がパワハラを研修医から訴えられると心が傷つくというのは本当か?

・指導医から受けた暴力と暴言
・「パワハラ」という言葉を充てがわれた指導医の暴力行為
・自分の実行した「パワハラ」に指導医はショックを受けていた
・人の悲しみは他者には計り知れない宇宙

・指導医から受けた暴力と暴言

ぼくは研修医時代に指導医から何度も暴力や暴言を受けた。暴力の内容としては、胸ぐらを掴まれたり、壁に打ち付けられたり、椅子を倒されて床に叩きつけられたりもした。それは周囲に誰もいないこともあれば、看護師や同期の医者がそばにいても行われることもあった。

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ぼくが興味深かったのは、目の前で暴力をふるされている場面を見ているにもかかわらず、そばにいた看護師も同期の医者もぼくを決して助けてくれなかったことだ。それはその指導医が権力を持ったかなり年上の上級医だったという儒教的観点から、彼に逆らうことができなかったという側面が強いかと思われるが、年上、目上に逆らってはいけないという儒教的観点が、一方的に暴力をけしかける悪しき者に対抗することすら妨げて悪をはびこらせてしまうという現実を目の当たりにして、儒教というものが日本社会に与える害悪というものを思い知らされた気がして興味深かった。

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特にその暴力を受けていた時に隣にいた同期の医者は創価学会の会員で、いつもぼくを勧誘するためにいかに創価学会の教えが素晴らしいか、どのように考えていかに明るく素晴らしく生きていけばいいのかなどのもっともらしい意見を創価学会の教えをもとにぼくに説いていたのに、いざ目の前で一方的に暴力をふるう者と暴力をふるわれる者が登場した際に、暴力をふるう悪しき者を妨げることも暴力をふるわれている者を救おうとする仕草すら見せないなんて、なんのための宗教なのだろうと疑問を抱かせる。どのような宗教の教えや正しささえ儒教の観念を倒すことはできないのだと、儒教がいかに日本人の心に根深くはびこっているのかを思い知らされた。

 

 

・「パワハラ」という言葉を充てがわれた指導医の暴力行為

ぼくはこのままでは指導医に怪我させられるかもしれないと思い、病院組織に相談すると、ぼくが「パワハラ」という言葉を一切使わなかったのにもかかわらず、この出来事は「パワハラ」の事案だとして話が進んでいるようだった。ぼくが「パワハラ」と言うことはなく、暴力や暴言などの具体的な指導医の行動を日時も含めてきちんとメモしていたものを示して、彼らがそれを「パワハラ」と名付けたのだから、本当にそれは確実なパワハラだったのだろう。

ぼくはその指導医がきちんとぼくを熱心に指導しようとしてしてくれていたのも知っているし、その延長炎上として熱くなってしまいいつも暴力に移行することを知っていたので(移行することが問題なのだが)、「パワハラ」なんて悪いイメージを持つ言葉を使ってしまえばあまりに彼が可愛そうなので、ぼくは彼に「パワハラ」をされたと決して言わなかった。しかしそれは病院の中では勝手に「パワハラ」と名付けられてしまったので、指導医にはぼくが「パワハラ」だと言って訴えているのだと自動的に伝わったことだろう。

 

 

・自分の実行した「パワハラ」に指導医はショックを受けていた

ぼくが「パワハラ」を受けていると病院に相談していることをその上級医が病院から聞いた後、彼はとてもショックを受けているように見えた。寂しそうでもあり、悲しそうでもあり、泣きそうでもあった。ぼくは彼を見て、なんて可哀想なのだろうと思った。

常識的に考えてみれば、彼が暴力や暴言を弱い立場である研修医に向けて放ったのだから、その事実を自分自身が突きつけられたところで悲しんだりショックを受けたりするのはお門違いもいいところであるが、そういう常識や普通の感覚など超越して、彼が直感的に悲しみ、ショックを受けているのは揺るぎない事実だった。

彼の中では熱心に指導してきた部下が病院に自分の暴言や暴力を相談されたのが、自分が裏切られたような気持ちになってやりきれず悲しかったのかもしれない。彼の間違った価値観の中では暴言も暴力も熱心な指導の一環であり、それを訴えられるのは不本意であるという悔しさも滲んでいたのかもしれない。もしかしたらこの研修医は大人しそうだから主張したり訴えたりしないと予想しており、予想が外れたので慌てふためいたのかもしれない。こちらの研修医側からすれば、信頼していた上級医が暴言や暴力を放つことの方がかなりの裏切り行為であるが、そのような価値観を彼と共有するには至らなかったのかもしれない。

おかしな歪んだ価値観ではあっても、彼の人格がそのようである限り、彼が悲しんだという事実が生まれたことが、ぼくにとっては興味深かった。そしてぼくは彼がなんとも可哀想で哀れな存在であると感じた。

 

 

・人の悲しみは他者には計り知れない宇宙

暴力や暴言は一般的に言えば悪である。そのような悪を弱き者に解き放っておいて、自分が深い悲しみに暮れるとは見当違いだが、そんな見当違いやおかしな不条理が内面に発生する方が人間らしくて愛おしい。弱き者に解き放った暴力や暴言で自分が悲しむことができるなんて、彼にとって暴力や暴言はどのような意味があったのだろうか。

どのような意味があったにせよ、それにより自分が悲しみ、心乱され、ショックを受けている様子を見て、ぼくは彼が悲しみから解き放たれることを願った。他人が他人の悲しみを計り知ることはできない。ぼくが彼の悲しみを解釈などできないし、知ることもできない。

彼は彼自身の悲しみと向き合い、よそから見れば不条理であるようなおかしな悲しみに見えても、彼にとってそれが確かに真実の悲しみである限り、この世で修行を完成し、その哀れな心を慈しんで、自らでその呪いから解き放たれる道を見つけるより他はない。彼がこの世で修行をきちんと完成させ、平穏な心を取り戻せることを心から願っている。

 

 

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