他文化を受け入れ尊重するのが正しいというのは本当か? 〜タイにおけるチップ文化という悪習〜

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チップ文化は相対的にぼくたちを悪者にする。

他文化を受け入れ尊重するのが正しいというのは本当か? 〜タイにおけるチップ文化という悪習〜

・タイにも広がりつつあるチップ文化
・マナーという言葉の怪しさ
・他文化を受け入尊重するのが常に正しいというのは本当か?
・チップ文化がないのに向けられる笑顔の純粋な美しさ

・タイにも広がりつつあるチップ文化

まったく知らないことだったが、タイにもチップ文化があるらしい。チップ文化ってアメリカとかヨーロッパのものだと思っていたので、東南アジアのタイにもチップ文化があるなんて知らなかった。インターネットで調べるとレストランやマッサージ点、タクシーなどにもチップを支払うべきと書いてあるが本当だろうか。

チップの習慣というのは実に厄介だ。ぼくはそんなこと知らなかったのでもちろんタイでチップなんて払っていなかったのだが、そうするとぼくはチップを支払わなかったすごくケチな人かすごく常識外れの悪い人のように見なされていたことになる。チップを渡さないという日本でごく当然のように振る舞える普通の行動が、外国のチップ文化圏に来た途端に悪者になるだなんて、チップ文化というものはなんて日本人にとって大迷惑なものだろう!

日本を否定して外国がぶれをすることで自己を成り立たせているような種類の日本人は、チップがない日本の方がおかしいんだよ外国では普通だよとかのたまいそうだが、外国では当たり前だからといってそれが日本よりも正しいと見なして従うべきだと主張するなんて思考停止した実におかしな意見である。きちんとなぜ欧米発祥のチップ文化が東南アジアにまで進出しているのか、どのような仕組みでそれが広まってしまい、それによってどのような種類の人が得をしてどのような種類の人々が搾取されるのかを自らの頭で見定めなければならない。

 

 

・マナーという言葉の怪しさ

まずよく書かれている「チップはマナー」という言葉自体が怪しい。「マナー」というのは非常に疑わしい言葉だ。「Aはマナーである」と言ってしまえば、“Aをしないなんてありえない”、“Aをしない人間は異常“、”Aをしないことは人間としてゆるされない“というような強迫観念を人間に簡単に植え付けることができる。

それゆえに権力者が自分が得をするために、愚鈍な民衆たちに「ぜひAをさせたい」と考えた際に、「Aはマナーである」という観念を世の中に広めてしまえば、思考停止している民衆たちはまんまと操られ権力者の思いのままにAという行動をふるまってしまうのではないか。Aは実はマナーなんかじゃ決してないのに、Aをさせたいという強い権力や圧力が渦巻く人の世の中でそれはマナーだと発信された際に、Aをしなければならないという強制力が働いてまんまと民衆たちはAをしようと動き出すだろう。

「マナー」という言葉には常に疑ってかからなければならない。誰かが民衆を操りたいと企ててはいないか、小賢しく人々を洗脳しようとしていないか、それにより搾取し大きな利益を得ようとしているのではないか、気を配って見つめる必要がある。マナーかマナーじゃないかなんてどうでもいい。重要なのは自分自身で本当にそれが必要なのかを深く追求し、必要なければその洗脳から解き放たれるという思考だ。「マナー」と同じ強制力を発動させる怪しい言葉に「義務」というものがある。

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・他文化を受け入尊重するのが常に正しいというのは本当か?

そもそもチップという文化が広がっていくのは自然なことだ。既定のメニューの料金よりも余分に多くの金を奪うことができるのだから、金儲けを第一に考える資本主義社会においては、金を客からより多くよりたくさん奪い取れるチップという制度は願ったり叶ったりの制度だろう。タイでも白人文化の真似をしてチップの制度が定着するのも、ごく自然な成り行きと言える。

またはたくさんの白人たちがタイに旅行に訪れ自分の国と同じようにチップを置いていくようになったから、これはこの文化を根付かせた方が自分たちははるかに得だと考え、タイ人の社会の中で無理矢理にチップ文化を根付かせたのかもしれない。もしそうならばチップ文化を西洋からアジアに輸入するなんてものすごく迷惑な行為だとぼくは強く感じる。

先程も申し上げたが、チップ文化は日本人にとってチップなんて払わないというごく普通の生活様式を、相対的にケチまたは常識外れの悪者に仕立て上げられてしまうものすごく厄介な文化である。

他者の文化について言及しない方がいい、他者の文化は受け入れ尊重すべきだという声が聞こえてきそうだが、果たしていつの場合でもそれは真実だと言えるだろうか。ぼくたちは日本の風土や制度で育ってきた者としての感性を発揮して、自分の感性からしたらこれはおかしい、これはいいだろうという風に主観的な考えを思い切り主張し、そして世界の主張と照らし合わせてきちんと議論し最もよい世界の形を導き出すべきではないだろうか。文化を受け入れるのがいいことだ、文化を尊重することが正しいというのは、教科書をコピーしたままの思考停止の言葉である。人間は自分の生命というものを持ち、自分の脳からの思考をほとばしらせているのだから、それを目一杯表現しながら生命を全うすべきである。自分の生命を自分の炎で燃やし尽くすべきである。

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タイのチップ文化の歴史の詳細を調べたが何も出てこなかった。インターネット上のページでは、タイではこんな時にチップを渡すとか、どれくらい渡すとか、つまらない世渡りの情報ばかりが溢れていて、本当に肝心な、なぜタイにチップ文化がいつどのように導入されたのか、誰の企みで誰が得して誰が搾取されるのか、本当にこのままチップ文化を「文化だ」などと主張して受け入れて持続させるほどの価値のある文化なのか、そういうことはほとんど書かれていないようだ。(書かれたものがあれば教えてください!)

しかし昔はタイにチップ制度なんてなかったのにという投稿をちらほら見かけたことから、ごく最近に根付き始めた文化なのだろうか。だとすればそれほどまでに歴史の浅いものをまだ文化と名付けられるのかは定かではなく、チップ文化を根付かせたいという権力や圧力を取り除くためにはまだ遅くないのかもしれない。

 

 

・チップ文化がないのに向けられる笑顔の純粋な美しさ

ぼくたちに馴染みの薄いチップ文化にはメリットもあるらしい。従業員がチップ欲しさに頑張って愛想をふりまいたり気持ちのよいサービスをしたりするというのだ。それにより良好な人間関係を築くのに役立つのだと言うが、チップをもらえることを前提にしないと頑張ってサービスできないなんて、日本人からするとものすごく人としてレベルの低い話のように感じてしまうがどうなのだろうか。逆にチップ文化だと従業員のすべての善意や愛想が金と結びつけられたものとして考えられてしまい、なんだか人間関係が虚しいように感じられないだろうか。

接客などでものすごく親切で優しい笑顔の人がいて、けれどそれもこれもすべてはチップのため、金のためなんだよなぁと思うと心の底でものすごい虚無感を覚えてしまう。逆にチップの制度なんか存在しないのに、親切で優しく笑顔でふるまっていてくれたなら、純粋な無償の愛を提供されたような気がして心あたたまる思いがしないだろうか。その方が素晴らしいあるべき人間関係ではないだろうか。人間にとって無償の愛を見ず知らずの人々に向けることはとても困難なことだ。しかし日常においてそこはかとない気配を感じ取れるということは、チップ文化のない文化の素晴らしい利点ではないだろうか。

すべての笑顔や努力がことごとく金と結びつけられてしまうという一点において、ぼくはチップ制度が大嫌いだ。人間の欲望は際限がないゆえ、もらえるものならばどこまでももらってやろうと願うのが人間の心理だろう。上限なく貪欲な醜い精神を掻き立てるようなチップ文化は世界から消えてほしいと思うし、そう願うことはぼくの自由だろう。

これ以上タイのように新しいチップ文化圏を拡大させないためにぼくができることといえば、このようにしてブログで文章をしたためて発信することと、ぼくはチップ文化に賛同しないという確かな考えを明確に表示するために、チップを支払わないことでチップ文化の拡大に拒否を突きつけることくらいだろうか。しかしそんなことをしてもただのチップ文化を知らない馬鹿な日本人かケチな人としか見なされないと予想されるので悩ましい思いである。このようにむやみやたらと広がる「文化」というものの悪しき(と自分で感じる)侵入に対して、個人としてできることなんてほとんどないものだろうか。蠢く集団の中での個人という存在の無力さを思い知らされる思いだ。

 

 

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