スポーツが爽やかで健やかで素晴らしいものだというのは本当か? 〜戦争の種とスポーツを嫌いな理由〜

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ぼくたちは争うことはいけないと口では言いながら、常に刺激的な争いを心で求めている。

スポーツが爽やかで健やかで素晴らしいものだというのは本当か? 〜戦争の種とスポーツを嫌いな理由〜

・争ってはいけないというのは本当か?
・スポーツが爽やかで健やかで素晴らしいものだというのは本当か?
・争いに陶酔する男女の特性の違い
・自我を発生させた時点であらゆる戦争の種は蒔かれている

・争ってはいけないというのは本当か?

「喧嘩してはいけない」「戦争はいけない」「争い合ってはいけない」と、人は誰でも当然のように倫理的に発言する。なるほど喧嘩をすれば殴り合って相手を怪我させてしまうかもしれないし、言い争いをすれば相手の心をひどく傷つけるかもしれないし、戦争をすれば人を殺す可能性は高いことから、争いなんてしたら世の中が乱れ、人々の心も荒むので、平和な世の中をのんびりと生きていきたいと言うのなら争うことはいけないと正しい顔をして主張すべきだろう。

しかしこんなにも「争いはいけない」と常識や道徳や教科書が人々に啓蒙しているにもかかわらず、人は戦争をやめないし争いのなかった国や時代などない。こんなにもいけないと徹底的に教育されているのに争いをやめられないということは、もしかしたら争い合うことは人間にとって間違いではなく、どうしようもなく付随している人間の本性ではないだろうか。

 

 

・スポーツが爽やかで健やかで素晴らしいものだというのは本当か?

ぼくはサッカーとか野球とかバスケットボールとか、そういうふたつのチームに分かれて竸技する種類のスポーツに関して幼い頃からとても違和感を感じていた。みんなで一緒に一体になって仲良く楽しく遊べばいいのに、どうしてわざわざ人間の集団を大きくふたつに分裂させて、平和な世の中に敢えて”争い”を生じさせようとするのか理解に苦しんだからだ。

どんなにチームをふたつに分けても、相手のチームは本当は敵ではなく”仲間”であり”友達”なのだ。本当は敵ではないのに、どうして無邪気に真剣に争い合うことなどできるだろうか。ぼくはスポーツに心から熱中して敵を打ち負かそうと必死になる子供達の無邪気さを、催眠術のように何かに取り憑かれ陶酔しているようにも感じたし、それがとてつもなく危険な現象ではないかと心配していた。

ぼくのように感じる子供は他にはいないらしく、彼らは人間集団を敢えてふたつに分裂させて無理矢理に敵を作り出し戦闘する競技に白熱し、夢中になっていた。ぼくはこのように世界をふたつに分裂させ敢えて争い合うという心の姿勢や構造は、そのまま人間の歴史の中で幾度となく生じてきた「人間の戦争」の根底に潜んでいる概念ではないかと危惧していた。戦争の種は少年時代から既に蒔かれ、育まれ、しかしスポーツは少年や人間たちから自発的に生み出されることを考えると、闘争や戦争の種はスポーツではなく人間自身の心ではないかとも思われる。

彼らは本当は敵同士でもないのに、ルールによって敵だと決められた相手を徹底的に自分とは違う異質なものだと分類し、敵を負かすためにひどく集中し、熱中し、白熱し、時には本気で怒り狂うような種類の人間も出現した。このような少年たちの不可思議な陶酔や熱中の熱量は、そのまま愚かな人間の戦争への陶酔へと引き継がれる可能性もあるのではないかと感じられた。「争いはいけない」と人間世界では口々に教育するにもかかわらず、人間は積極的に世界をふたつに分裂させ、敵と味方を作り、争い合うこと(スポーツも戦争もこの観点では同じもの)を心から楽しみ愛しているのだ。

 

 

・争いに陶酔する男女の特性の違い

サッカーとか野球とかバスケットボールとかのスポーツといえば、なんだか爽やかで健康的で素晴らしいというイメージが世の中を支配しているが、ぼくには全くそうは思えなかった。スポーツは爽やかな平和の象徴として人々からむやみやたらと崇拝されたり、スポーツ選手はこの世で最もいいイメージを持った種類の人間という風にメディアでも取り扱われているが、本当にそんなにスポーツというものはいいことずくめの人間の行為なのだろうか。それらのスポーツの根底にある分裂という概念は、むしろそのまま人間を大きな過ちへと導く要素を沈殿させたものではないかとぼくは危惧していた。

女子たちはあまりこのようなふたつに分裂された世界の争いに興味はなく、人間を観察しているとこれらのスポーツにひどく熱中し陶酔しているのはどこの国でも男子たちだ。テレビでスポーツ観戦をしては我を忘れて心から絶叫し盛り上がって楽しむのは、無邪気な男子たちの特権のように思われた。少年たちがサッカーや野球に夢中になっている一方で、少女たちはおままごとをしたり人形を使ったりして遊んでいた。

真実はひとつの世界を無理矢理にふたつに分裂させ、その勝敗を競い合い白熱し熱中しやすいのは、男子たちに多い傾向のように感じる。これは昔むかしの原始時代には男子たちが狩猟の役割を任されていて、とらえたい動物=敵狩りたい人間集団=味方だと世界を極端にふたつに分裂し、精神を極端に集中させて狩りに挑んだ方が動物の獲得率が高かったことなどと関係しているのだろうか。その一方で女性は家にいて子育てとか料理とか洗濯とか複数の仕事をこなしていたことから、ひとつの物事に集中する能力というよりもいろんなことを満遍なく同時に行う能力が身についたのではないだろうか。

競争や戦いや戦争という言葉を聞くとあまり女性的なイメージは思い浮かばず、それらの概念に付随するものはいつも男性的なイメージのような気がするが、やはり戦いを好みやすいのは男性の特徴と言えるのだろうか。

 

 

・自我を発生させた時点であらゆる戦争の種は蒔かれている

ぼくたちは自分を他者とは異なる自分だと思っている。自我を持っているということはそれだけであらゆる相手を否定し、そこにあらゆる相手との争いが潜在的に意識に組み込まれているということだ。ぼくはあなたではない、ぼくは彼ではない、ぼくは彼女ではない、そのようなあらゆる否定と無意識下の争いを元に、自我という現象は発芽するのではないだろうか。

ぼくたちは自我を持っている限り、自分を自分だと思っている限り、その根底にはふたつに分裂された世界と、そのための否定と争いが密かに確かに含まれている。人間が永遠に争いや戦争をやめないのは、至極当然なことかもしれない。

 

 

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