病気や死が人間の敵であるというのは本当か? 〜医学の最果て〜

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医者はいつも、病気や死と闘っている。

病気や死が人間の敵であるというのは本当か? 〜医学の最果て〜

・医学の前提
・人生は生老病死の苦しみに満たされている
・病や死を取り除きたいを願う時に生じる矛盾
・自分自身を否定することは悲しい
・ぼくたちが必ずたどり着くその駅は

・医学の前提

ぼくたちが意図せずして何らかの病気にかかった時、ぼくたちは何を思うだろうか。一刻も早く自分を苦しみへと陥れ、もしかしたら死へと導かれるかもしれない病気というものを取り除き、もとの健康を手に入れたいと考えるのだが普通だろう。

病気というものは取り除くべきものだ、死の気配は退けるべきだ、そのような思いは生きている人間にとってごく自然な考えだし、このような考え前提として、医学や医者という仕事は成立している。

病気という敵をどのようにして取り除こうか、死という避けるべき間違いをいかにして退けるか、考え続けてきた歴史が医学の体系を作り、現在の医学の発展に貢献してきた。病気で苦しんでいる人の病気を治すことは、決して悪ではありえない。死に直面している人から死を遠ざける行為が、間違いであると見なされることはない。

その意味で言えば医者は常に人の役に立つことができるし、必ず善行へと立ち向かって進むんいくことができるという珍しく神聖な職業であると言えよう。どこまでも病気や死という敵と闘うための最新の知識や古代の知識をひたすらに吸収し続けながら、人間社会に貢献すべきであると見なされる。そしてそれは本当のことだろう。

 

 

・人生は生老病死の苦しみに満たされている

仏教の根本原理では人生は苦しみであると説かれる。それは人生というのは誰もが、まさに生老病死、生まれて、老いて、病んで、死ぬというルートを辿り、誰もその運命から逃れることができないからだ。ぼくたちは誰もが生まれた瞬間から老い始め、どんなに健康な人でもやがては病み、寿命のうちに死んでいく。これまでの人類の歴史の中で、死ななかった人など存在しない。ぼくたちは誰もが、必ず、絶対に、そう長くない人生を終えて、死んでいく運命にあるのだ。

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仏教とは、人生はそのような苦しみの海の中を漂うようなものだと主張し、その苦しみを受け入れたその上で、いかにしてよりよい人生を送っていくかを説くという、いわば根底はネガティブから入りそこから這い上がりやがてはポジティブへと変換していこうとする宗教であると言える。

 

・病や死を取り除きたいを願う時に生じる矛盾

仏教の根本原理は絶対的に真理であると言えよう。ぼくたちは生まれ、老い、病気にかかり、死ぬという命の経路に何の疑いを持つ余地もないだろう。その真理としっかり向き合い受け止め、自分の中で十分に解釈し、その時点から生き抜いていこうとしてこそ本当の人生が始まるのだ。

仏教が最初の最初で説いているように、老いも、病気も、死も、ぼくたちという人生の確かな一部である。そのような病気や、死を敵と見なし、綺麗に除去したりはるか遠ざけようと懸命になるということに、若干の違和感を覚えはしないだろうか。

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病気も、死も、ぼくたちの生命の確かな一部なのだ。ぼくたちの確かな一部を敵だと見なし、排除すべき対象だと信じる時、ある矛盾が生じ始める。ぼくたちは、自分の病気や死を取り除くことによって、自分自身を守ってやりたいと切に願うのに、その一方では、病気や死という自分自信を否定してしまっているのだ。自分を大切に思うあまりに、自分の人生の確かな一部を否定して生きざるを得ない現実に、まるで自分の身が引き裂かれるような、どうしようもない矛盾を感じはしないだろうか。

 

 

・自分自身を否定することは悲しい

どんな人生であろうとも、どんな生命であろうとも、たとえそれが一部であったとしても、自分が自分を否定するためには痛みを伴うものだ。ぼくたちは知らず知らずのうちに、敵だと見なしたものを打ちのめそうとして、実は自分自身を傷つけ、引き裂き、自分の魂を彷徨わさせている。

ぼくたちは必ず老いるのに、老いないように老いないように願う。アンチエイジングをすればするほどに、老いるという自分自身の自然な本当の正体を否定し、誹り、けなし、敵意をむき出しにしては叩き潰そうとする。自分を美しく保ち自分を可愛がってやろうとするその心が膨張する矛盾を生じさせ、精神は飲み込まれ、健やかな自分自身を失って生きることになる。

病気や死からはるか遠く離れて暮らしていたいというのは、ぼくたちの自然な願いだ。そのような自然な願いが当然のように誰の心にも宿るからこそ、医学というものは社会の中で役割を担っていく。容易く治りゆく軽い病気ならば、薬の力で苦しみを除去しているうちに、自分の免疫の力で次第に治ってゆく。それではどうしようもない、運命的に生命を死へと突き進ませるような病気ではどうだろうか。

 

 

・ぼくたちが必ずたどり着くその駅は

治りようもない病気や、どうしようもない運命に打ちひしがれる時に、ぼくたちはどのように病気や死という苦しみと向き合っていくべきだろうか。それはおそらくもはや敵ではない、それは自分自身の人生や生命に組み込まれゆく、紛れもない自分自身だ。それはやがて誰にでも訪れる、自分だけに不運にも襲いかかったわけではない、平等で公平な自分自身の一部という苦しみだ。

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それを最後まで敵や間違いだと見なし、最後まで闘うべき憎むべき相手だと心が傾くとき、果てしない矛盾の中で苦しみは否応なく膨張するだろう。自分の心が敵を作り出して敵を憎むとき、まるで鏡のようにその憎しみが自分にも降り注ぎ、自分すら愛せなくなる時を知る。

病気や死を敵だと見なす医学では、最後の最後には人を救えない。ぼくたちは自らの中にいつまで敵を作り出すべきなのだろうか。西洋からやってきた映画のように、正義と悪が対決し、正義が勝利すればすべて終わりだろうか。そのような単純な構造として、果たして世界は組まれているだろうか。ぼくたちが本当に闘うべきなのは、世界を分け隔てる自分自身の意識なのではないだろうか。

人の生命を最後に救うのは、何かを敵だと見なしながら憎み闘ってゆく手段ではなく、むしろ敵も味方も自分自身なのだと居直り、受容し、敵も苦しみも間違いも自分自身なのだと迎え入れ、自らの中で同調していく交わりの過程ではないだろうか。

病気が悲しみであるかどうか、死が悲しみであるかどうかは、その肉体によるのではなく、すべてはその心にかかっているのだ。死は、すべての命の終着駅だ。それを敵だと憎み、それを悲しみだと見なすとき、ぼくたちの中でこの世の全ての生命が悲しみの色に染まることだろう。そのような世界を生きているわけにはいかない。ぼくたちが必ずたどり着くその駅は、悲しみなどに彩られてはいないと、誰か語ってはくれないか。ぼくたちが必ずたどり着くその駅は、ぼくたちにとっての敵なんかじゃないと、誰か憎しみから目を覚まさせてはくれないか。ぼくたちが必ずたどり着くその駅は、ぼくたちのあらゆる命は、本当は間違いなんかじゃないんだと、たわごとを言ってはくれないか。

悲しみは死そのものが作りだしていたのではなく、死とは遠く離れた国で、人間の心が作っていたのだ。

 

 

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