ぼくたちには誰しも、出会った瞬間から、あ、この人なんだか嫌いだなと思ってしまうような人がいる。
直感で嫌いな人には近づかない方がいいというのは本当か?
・直感から来る嫌悪
・関わりたくないけれど関わって来る
・悪口を噂し合う人々
・直感の不明
・直感の教え
・直感から来る嫌悪
それからちょっと話をしてみると、あ、やっぱりなんか嫌いだなと実感する。そしてしばらく話をして、それは確信に変わる。
理由なんかわからない。言葉にならない、野生的なもの、直感的なものだ。虫の知らせとでも言うのだろうか。神ではなく自らの感性を信仰するぼくとしては、この直感に従って、あまりその人に近づかない、なるべく関わらない方がいいだろうと、そう固く信じていた。
そしてその人となるべく関わらないように努力する。大抵は努力なんてしなくても、その人とものすごく関わる機会なんてないから安心なのだが、時々あっちの方がら、なぜかものすごく接近してくる人もいる。
・関わりたくないけれど関わって来る
そういう場合には努力が必要だ。
なぜこちらがあまり関わりたくない空気を全面に押し出しているのに、向こうからものすごく積極的に関わってくるのか全然わからないが、それでも関わってくるので対応する。関わってくれようとすることを、明らかに無下にできるほど無慈悲ではないし、その人と関わりたくない理由が“自分の直感”であるという点も、関わらないのが本当に正しいのかをやや不明にさせる。
そんな日が何日も続く。ああ今日は関わったけれど明日はなるべく関わらなければいいなと願う。そしてその次の日も関わりはやって来る。次第にこれは運命なのではないかと徐々に受け入れ始める。この人なんだか嫌いだなという直感的な違和感は残るものの、そうやって最初からその人を否定しないで、ちょっとくらいいいところも見つけてみようと努力する。
しかしそれはとても簡単なことだ。人間には無限の側面があるのだから、ある面ではものすごく悪質な人でも、良質な面のない人間なんてありえない。ちょっと視点を変えれば、たとえばぼくの場合は直感的に見るのをやめてみれば、そんなに嫌な人ではなくたくさんのいい面を持っていることに気がつく。
・悪口を噂し合う人々
これは浮世の中を生きる上で非常に重要なことだと思うが、人の悪口ばかり言っているという人がいる。大人になれば、小学生のようなそのような行いは慎まれるものなのかとぼくは人間というものに期待していたが、愚かな人間は大人になっても愚鈍なままである。
ここにはいない誰かの悪口を言い合って、噂し合って喜ぶという品のない人間が、一定数存在する。それは知識量や偏差値とは関係なく、どのようなレベルの人間においてもある一定の比率で存在するようだ。
彼らは誰かの悪口を言う。誰かの悪い側面を言い合って、そしてその人を蔑んで満足する。しかし先ほども申し上げたように、悪い側面だけしかない人間なんてこの世にいないのだ。
どんなに質の悪いと思われる人間でも、必ずよい面がたくさん潜んでいるもので、それは視点を変えてみればたやすく見つけることができる。悪口ばかりを言っている人間は、その人自体が、人間の悪い部分にだけ焦点を当ててしか人間を見つめることができないのだと、そのような心の瞳しか持ち合わせることができない存在なのだと、自分の精神的視野の狭さを自ら発信しているに過ぎないのだ。
・直感の不明
まさにそのようにしてぼくは、直感的に嫌っていたその人のいい面を認めていく。すると自分自身の直感さえ、揺らぎ始める。
ぼくは自分自身の直感は、絶対的に正しいものであり信仰するべき確かなものだととらえてきたが、それさえ傲慢な思い込みなのではないかということに気がつく。この人は自分の直感が伝えるほど、嫌うべき人間ではないのではないだろうかという考えにたどり着く。
自分の直感がこの人をなぜ嫌ったのかはわからない。もしかしたらぼくが前生でこの人の前生であるところの人に殺されたのかもしれないし、この人の先祖と自分の先祖が仲が悪かったことを遺伝子が覚えていたのかもしれない。
直感の詳細はまったく不明だが、もし自分が前生でぼくがこの人に殺されていたとしても、直感はぼくに警告を促すが、この人はもはや前生の人とは違う人物なので、直感を信じなくてもよいのではあるまいか。しかし殺し殺されるという因縁が、一生の枠を超えてまでふたりにつきまとっているのならば、この限りではないが、今のところそのような心配はなさそうである。
…そもそも殺されたのかどうかもわからないし!
・直感の教え
そしてぼくたちは次第に仲良くなり、毎日ご飯を一緒に食べに言ったり、お出かけするほどの仲になった。
ぼくは彼に感謝している。なぜなら、自分の言葉にならない直感を信じることがいつも正しいわけではないことを、彼は教えてくれたのだから。すべての人には素晴らしいよい面が存在するし、それを認め直感に逆らってでもその人の心に近づくことの大切さ、尊さをぼくは学び取ることができた。それはかけがえのない経験だろう。
すべての人間はぼくの先生でありえるし、ぼくはすべての人間から学び取らなければならないのだ。
そして得体の知れない自分の直感というものを、いつも信仰していればよいとは限らない。もちろん自分の人生のかけがえのない瞬間の際は、透明な自分の直感を信じるべきだが、大して重要でもない人間関係の時などは、手綱を緩めてみるのもまた一興かもしれない。