とめどない他者からの影響!人間はマイペースに自分の速度を保ちながら生きられるというのは本当か?

 

あなたは本当の自分の歩く速度を知っていますか?

とめどない他者からの影響!人間はマイペースに自分の速度を保ちながら生きられるというのは本当か?

・ぼくはマイペースな人間
・二人で道を歩くということ
・群衆の中を歩くということ
・周囲の状況に自らの運命を決められてしまうという虚しさ
・自分自身の速度を取り戻すために孤独へと帰り着け

・ぼくはマイペースな人間

ぼくは小学校や中学校の個人懇談で先生に必ず「マイペース」だと言われ続けた。「マイペース」とはその名の通り、自分自身の独自のペースを保ちながら生きている様子をいうのだろう。自分では自分のことをマイペースだと思ったことがなかったので、いつも先生に言われるのが不思議なくらいだった。

マイペースという言葉が褒め言葉であるのかどうかは疑問である。マイペースとは自分独自の速度で生きているという以外に、他人に合わせていないという意味合いも含まれるだろうと推測されるからだ。周囲の環境や他人の状況を顧みず影響されずに、自分独自の世界観を保ちながら生きているからこそその人はマイペースだと言われるのだろう。マイペースという言葉の裏側には、もっと他人や周囲の状況に合わせるべきだという助言が密やかに含まれていたのかもしれない。

しかしぼくとしては、自分が割と周囲の状況や他人の心理状態を鑑みて行動していると思っていたのでマイペースだと言われるのは心外だともちょっと思ったが、それでも自分の気づかないところでどうしようもなく独自の世界観を築き上げてしまっていたのだろう。個人懇談で毎回先生に言われると次第に、そうか自分はマイペースな人間なんだと納得し受け入れるに至った。

 

 

・二人で道を歩くということ

しかしこんなにも他者と関わり合って関係し合いながら生きるしかないこの世の中において、自分のペースや速度をしっかりと貫いて、自分独自の世界観を確立しながら生きていくなんて本当に可能なのだろうか。

人間は自分の思い通り自分の速度で生きているようなつもりでも、他者との関わり合いの中で知らず知らずのうちに少なからず影響を受け、自分自身を喪失して他人の速度が自分の精神に侵入してくるという状況はよくある。

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例えば誰かと二人で道を歩くとする。二人で歩くということは、そこにはふたつの独自の歩く速度が存在しているということだ。別々の人間なので、当然二人の歩く速度が完全に一致することはない。必ずどちらかが一方より歩くのが遅く、もしくはどちらかが一方よりも歩くのが速いに決まっているのだ。しかし二人がそれぞれの自分のペースを貫き通したのでは、二人で仲良く道を歩くことはままならない。

人間が二人で道を歩くとき、必ずどちらもが自分の本来の歩く速度を喪失し、相手の速度に影響され相手の速度に合わせようとお互いに計画することを通して、初めて人間の二人は一緒に道を歩くことが可能になるのだ。

 

・群衆の中を歩くということ

もしくはたとえひとりきりで道を歩いていたとしても、都会のような人間密集地帯で人ごみの中を歩いているような場合では、人間は自分独自の歩く速度を喪失する。誰だって人ごみの中で、見知らぬ人にぶつかって痛い思いをしたり非難されたくない。人ごみの中を歩くとき、人は知らず知らずのうちに自分の本来の歩く速度を見失い、ぶつからないように衝突しないように、周囲の人々の状況や速度に合わせて細かく自分の速度を調節してゆく。

このような場合たとえひとりで街中を歩いていたとしても、自分らしくマイペースに自分独自の速度で歩いているとは到底言うことができない。ぼくたちは無意識のうちに他者から多大なる影響を受け、自分自身の直感的な本来の速度を見失い心が疲弊してしまうようだ。

誰かと二人でずっと延々と一緒に歩き続けていると、いつの間にか自分のペースで歩けないことにうんざりし心も体もやがて疲れてこないだろうか。そしてたまにはひとりで歩きたいと願うことがないだろうか。人ごみの中を一日中歩き続けているとなんだか足が重くなってくるような気がしないだろうか。この群衆から抜け出して自分の速度で歩きたいと願わないだろうか。

 

 

・周囲の状況に自らの運命を決められてしまうという虚しさ

ぼくは今、新しい日本一周の旅をするために関西地方から長崎県まではるばる運転してきた。ぼくが運転して嫌いな道は、瀬戸内海沿いの車がいっぱいの渋滞しやすい道だ。特に大阪〜神戸〜岡山辺りまでは車がわんさかいるので苦手である。

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何がそんなに嫌かと言うと、自分の思い通りの速度で運転できないからだ。必ず前の車や周囲の渋滞状況に応じて自分の車の運命が勝手に決められてしまう。自分が進みたいと願っても進めず、自分が止まりたいと思っても止められず、周囲の状況の引き起こされるがままに他者から影響されるしかない自分の運命に疲弊してしまうのだ。

逆に車も人もあまりいない緑溢れる田舎の道を、自分の思い通りの速度で運転できる心地よさは何ものにも勝るまい。やはり人間は孤独の中で誰からも影響されず、他者ではなく自分自身だけと向き合い見つめ合い、自分本来の独自の速度を取り戻した時に心が安定し落ち着いた精神状態を取り戻せるようだ。誰かと一緒に歩くこともさみしくないので悪くはないが、やはり人間には孤独の中、自分だけと対峙する時間が必要なのではないだろうか。

 

 

・自分自身の速度を取り戻すために孤独へと帰り着け

人は誰だって自分の根源から沸き起こる自分の直感的な速度によって支配され、その通りに行動するのがストレスなく最も心地よいものだ。しかし完全に自分自身の直感的速度に支配されることは自分のことなのに矛盾するように難しく、たくさんの人々の肉体や精神と関わり合う中で、自分自身の本当の速度を見失い、他人の速度に自分の一部を支配されることを許してしまう。

自分一人で孤独に、自分の思いのままに歩けていた時には世界は心地よく美しいので何の迷いもなかったが、人間社会において多くの他者と濃密に触れ合うことで自分の速度のある部分が他者に支配されると次第に、自分の人生なのに自分の直感の思い通りに動かなくなる。しかし自分を生きているのは自分自身だと信じ込んでしまっているので他者からの大いなる介入と影響に気づきもしないまま、おかしな違和感や迷妄を心に抱いたままで人生を歩くことになってしまうのだ。

人間として生きている限り誰にも影響されないことなんて不可能だ。しかし自分を孤独の中に置き去りにし、自分独自の直感的速度を取り戻す機会を自分自身に与えてやることはいくらでも可能ではないだろうか。木漏れ日の美しい誰もいない森の中を歩いてみる、通る人の誰もない海沿いの道をさみしく歩いてみる、そのような時に人は本来の自分自身の速度を取り戻すことができるだろう。自分自身の速度で歩くとき、それは自分が自分へと帰り着ける瞬間だ。誰でもない自分だけに配られた鏡に触れる時、人はしばし迷いから目覚め生まれた意味を純粋に問い始めるだろう。

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