他人の役に立つこと(労働)をすれば人間は幸福になれるというのは本当か? 〜働きたくないと感じるあなたへ〜

 

ぼくたちはよく人生の中で「こんな時間早く過ぎ去ってしまえばいいのに」と願ってしまう。

他人の役に立つこと(労働)をすれば人間は幸福になれるというのは本当か? 〜働きたくないと感じるあなたへ〜

・「こんな時間早く過ぎ去ってしまえばいいのに」と願うこと
・美輪明宏「給料というのは我慢料だ」
・知らず知らずに人生が早く過ぎればいいのにと願っているぼくたち
・ぼくたちはどう生きるべきだろうか
・徹底的に自分自身のために生き抜いた先に立ち現れる慈悲の世界
・「慈しむように」

・「こんな時間早く過ぎ去ってしまえばいいのに」と願うこと

人生には「こんな時間早く過ぎ去ってしまえばいいのに」と感じる時間がしばしば訪れる。労働の時なんか特にそう思って過ごしている人が多いのではないだろうか。労働時間に早く労働を終えて家で休みたいと願っている人は多そうだ。

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ぼくは医者として病院で働いているときには、夜間の救急外来当番だった際に「この時間が早く過ぎればいいのに」と願っていた。夜間の救急当番は全く眠れない上に次の日は通常通り労働せねばならず、確実に労働基準法に違反している人間らしからぬ労働を強いられていたからだ。安らかに眠れず、しかもいつ重症の患者さんが来るのかわからないような緊迫した夜というものは肉体にも精神にも相当に苦痛であり、地域の人々の健康のために働く医者自身は確実に不健康であり、ぼくは救急当番の夜が早く過ぎ去ればいいのにと心から願っていた。

 

 

・美輪明宏「給料というのは我慢料だ」

労働しているときに早く終わって家に帰りたいなぁ、早く時間が流れないかなぁと感じている人は、みんな口にはしないだけでかなり多いと予想される。美輪明宏さんは「給料というのは我慢料なのよ!」と言っていたが、労働というものはそのようにめんどくさく嫌なことをして、職場の苦手な種類の人や人間関係にも耐え、我慢して我慢して我慢した後にやっとお給料をもらって、ぼくたちは米を買いガス代を払い家賃を払えるということになっているらしい。それが現代という時代に生まれた人生のシステムなのだそうだ。

「サザエさん症候群」という言葉があるように、当然のことながら多くの人は日曜日が終わって明日から労働の日々が始まるという事実を憂う性質があるらしい。それくらいに休日というものは尊く、労働というものは人間にとって嫌で我慢する種類の行動なのだろう。それほどまでに嫌な労働に、なぜ人間たちはみんな揃いも揃って従事するのだろうか。

それは生きていくために他ならない。新鮮な米を買い、必要なガス代を払い、綺麗な家の家賃を払って人間らしい尊厳に満ちた生活を営みたいと誰もが願っている。また資本主義の現代においてはお金を稼ぐことが最も偉いことなので、みんなお金を稼ぐために生まれてきたのだと言わんばかりに自分の貯金と、国家という人間集団の経済的成長のために労働する。

もしも「あなたには生きていくだけの十分なお金を定期的にあげるからこれからは労働しなくていいよ」と誰かに言われれば、労働しないことを選択する人は多いのではないだろうか。けれどこんなことを優しく言ってくれる気前のいい人はどこにもいないから、人々はみんな別に働きたくないのに働き、いやいや労働していると予想される。

 

・知らず知らずに人生が早く過ぎればいいのにと願っているぼくたち

しかし考えてみれば「労働」という行動はほとんどの人にとって、人生の中で若くて健やかでなんでもできる輝きに満ちた時期の大半を占めるはずだ。そのような人生の輝かしいはずの時間のほとんどを嫌で、めんどくさくて、楽しくなくて、苦痛で、大いに我慢すべき労働に費やしてしまってもいいのだろうか。

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労働の際多くの人が「この時間が早く過ぎ去ればいいのに」と願っている。それはすなわち人間は、健康で若さがあふれたなんでもできる可能性に満ちた人生のほとんどの時間を「この時間が早く過ぎ去ればいいのに」と願いながら生きているということだ。そしてその「この時間が早く過ぎ去ればいいのに」という願いを繰り返し繰り返し心に思い描いた後に、ようやくその願いが達成された暁に人間にもたらされるのは、老いた肉体と精神と、定年後の老後の日々である。

ぼくたちはせっかくお母さんによって与えられたこの命の、最も若く最も健康で最もなんでもできる素晴らしい時代のほとんどを「この時間が早く過ぎ去ればいいのに」と願うために生まれてきたのだろうか。本当は「時間なんて過ぎなければいいのに!」「時間が止まってしまえばいいのに!」と感じてしまうほどに、人生の素晴らしい時間を慈しむようにして、丁寧にひとつずつひとつずつ日々を過ごすために生まれてきたのではないのだろうか。

 

・ぼくたちはどう生きるべきだろうか

ぼくたちはどう生きるべきだろうか。「この時間が早く過ぎ去ればいいのに」と願う耐えと我慢の時間を減らして、「時間なんて過ぎなければいいのに」と願う幸福な時間を増やして生きる人生に、どのようにすればたどり着けるというのだろうか。

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ぼくたちが生きるためには「この時間が早く過ぎ去ればいいのに」と願い我慢して耐える時間を設けるより他ないのだろか。そのようにして労働し、お金を稼ぎ、支払い、また労働するというサイクルに否応なしに巻き込まれるしかないのだろうか。それがほとんどの人間に与えられる宿命だろうか。

せっかくもらったこの命の中で「この時間が早く過ぎ去ればいいのに」と願うことは、すなわち「この人生が早く過ぎ去ってしまえばいいのに」と願うことと同義であるということに、一体どれほどの人が気づいているのだろうか。ぼくたちはどうして、このような悲しい願いを心に抱かなければ生きられないように仕組まれているのだろうか。せっかくもらい受けたこの命を、もっと慈しむようにして生きられないのはなぜだろうか。

 

 

・徹底的に自分自身のために生き抜いた先に立ち現れる慈悲の世界

人間はどのような時に幸福を感じるのだろう。それは自分自身を我慢せずに遠慮なく高らかに表現し、自分自身のために惜しみなく生きていると実感する時ではないだろうか。逆に自分自身の表現を妨害されて、大きな集団の利益のために我慢を強いられる時、集団の平和のために自らを抑圧される時に、心や魂は不幸だと感じるのではないだろうか。高度に発達した自我を獲得した人間にとって、自分を押し殺して完全に集団のための都合の良い部品になることは極めて難しい。

個人の幸福よりも集団の幸福の方が重要だというのは本当か?

他人のためになること(労働はほとんどこれ)をすれば人は幸福を感じるというけれどそれは本当だろうか。それは人間が自分自身を尊重し、自分自身を思いやり、自分自身のために徹底的に生き抜いた先に立ち現れる素晴らしい慈悲の世界ではないだろうか。他人のためになることをして幸福を感じるためにまず行うことは、とりあえず手当たり次第に他人に優しくしてみるという浅はかな行動ではなく、自分自身を大切にして徹底的に自分のために自分勝手に生きてみることではないだろうか。そのような生き方が達成されて初めて、それを土台とすることで唯一、歪みのない偽物ではない、本物の慈悲をもたらす人格が形成されるのではないだろうか。自分のために徹底的に生きたことのない人が解き放つ慈悲なんて、偽物ではないだろうか。

ぼくたちは一度、世の中の常識や正しさを無視して、徹底的に自分の幸福のために生き、自分自身を抑え込まずに表現すべきではないだろうか。人間たちはそれを見下すだろう。個体が部品にならない不都合を憂う社会(人間集団)はそれを蔑むだろう。しかしその先に見定める景色こそ、人間の魂が抱ける真実の慈悲であり、真実の労働(他人のためになること)なのではないだろうか。自分が自分のために徹底的に生き抜いたその先で、自己へ慈悲が浸出するように他人にも満遍なく普遍的に行き渡って、他人のために最大限に慈悲をもたらすことができたならこんなに素晴らしい人生はないだろう。

 

 

・「慈しむように」

早くこの時が過ぎ去ればいいのになんて
思いながら生きるなんておかしい
生きている時間はあっけないほど短いのに
そう願う瞬間さえあっていいはずがない

心が熱を注ぎ込んだ時
そこには時が失われるように
どれほど過ぎ去ったかなんて
感じなくなるように

命を慈しむように時を生きて
どうか命よ消えないでと
祈るように呼吸を重ねて
美しく生きることを学ぼう

何をしていたのだろう
お母さんにもらった大切な命が
早く削り取られることを望んでいた
しらずしらずに

飛び立つ時が来たのだと告げる光
もうこんな場所にはいられない
真実の音楽が注ぎ込むあの地へ
帰っていかなければならないんだ

(生きるための仕方ない苦しみ
稼ぐためのどうしようもない悲しみ
そんなもの必要ですか
どうしてぼくらはここにいるのですか)

 

 

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