歩いていく道の先には幸福が待っていると、誰もが信じている。
人は喪失に向かって歩いていけるというのは本当か? 〜人生は死への道〜
・人は幸福の声のする方へと歩いていく
・住民税を支払うコンビニまでの道は喪失への道
・喪失への道は本能や直感を逆流させる
・人生は「死」という喪失への道
・谷山浩子「悲しみの時計少女」〜人生は増えていくもの〜
目次
・人は幸福の声のする方へと歩いていく
ぼくが人生の中で最も違和感を感じた瞬間のひとつは、住民税を支払うためにコンビニへ行くための道のりだ。ぼくたちが前へ進んでいくのは、その先に多かれ少なかれ幸福が待っていると信じているからだ。この道の先に何らかの不幸や喪失が待っているのに、心から進んで道を歩き前進していくことができるだろうか。
不幸や喪失が待ち構えている場所からはなるべく遠く離れて生きていきたいし、そんな場所をできる限り避けて通ろうと思うのは、いわば人間の損得勘定ではなく、もっと原始的な動物として本能だろう。わざわざ食物を摂取して炭水化物や脂肪からエネルギーを作り出してそれを活用しようとしているのに、その先に不幸や喪失が待ち構えているのでは、せっかくの自分自身の生命の営みが作り出したエネルギーが勿体ない。それはエネルギーの作り損というものだ。
ぼくたちの細胞たちは日々休みなく働いてエネルギーを作り出し、その集合体としての人間という主人が不都合なく生きられるように頑張ってくれている。そして細胞の集合体としてのぼくたちは、そのような細胞の惜しみない労働をなるべく無駄にしないように、効率よく合理的に生きようと、無意識のうちに生活を営んでいるはずである。本来ならば不幸や喪失へと進みゆく道など決して選ばずに、生命が幸福を感じる目的地へと進むために大いにエネルギーを使いたいはずだし、大抵の生命はそのようにしか動けないはずなのだ。
・住民税を支払うコンビニまでの道は喪失への道
住民税を支払うためにコンビニへと向かう足取りは、いつも違和感に満ちている。ぼくはこの道の先で、大量のお金を喪失するのだ。お金というのは、ぼくのエネルギーや能力の代償だ。ぼくが生きているという尊い時間を労働というものにあてがい、これまで培ってきた能力を最大限に発揮し、その代わりに与えられるこの世界で何でも買えるポイントである。
その貴重なポイントを支払うからには、本来ならば何かと交換されるのが鉄則だ。もしも70000円のお金を支払うのなら、普通ならその代わりに10000円の高級な料理が7回は食べられるし、1着の高級な服や、もしくは5円玉チョコならば14000枚買うことができるのが普通である。しかし70000円の住民税をコンビニで支払ったところで、ぼくたちは何ひとつそこで交換することができない。ただ70000円を渡しただけで、領収書を出されて終わりである。これは70000円を喪失することと、何が違うのだろうか。
もちろん税金なのだからそれは何らかの形で社会に役立っているのかもしれない。人間の集団というものをうまく保つために費やされているのかもしれない。しかしそのように論理的な形でわかったようなふりをして脳内で解釈し、納得しよう自分自身を説き伏せてみても、コンビニで70000円を支払ったのにその代わりに何ひとつ交換され得られないなんて、本能的な部分では何が起きたか理解できずに混乱してしまう。普通にお店で、70000円支払って何もくれなかったらびっくりしないだろうか。
そもそも自分を社会の中に住んでいる、社会の一部、社会の部品と見なすならば、70000円は社会という自分自身の中へと消えていったのだから、税金というお金は自分自身に70000円を支払ったものだと納得もいくかもしれない。けれどもあらゆる生命においては、生きているという実感や意識は自分自身、個人に収束するのではあるまいか。
自分というものを世界の一部ではなく、この個人、個体と限定してとらえるならば、住民税としての70000円は明らかに自分自身からの価値の喪失である。そしてどうしてもこの喪失の感覚を拭い去ることができない。どうすれば自分と世界というものを切り離さずに一緒くたにとらえ納税の苦痛から解放されることが可能なのだろうか。しかし、自分という個人を失った世界と同一化した個体はいわば混沌(カオス)であり、ぼくが意識を持っている限り無理なのだろうか。意識を持つ前の赤ちゃんの時代か、神話以前のカオスへと立ち戻らなければならなくなるだろう。
・喪失への道は本能や直感を逆流させる
自分がせっかくわざわざ動いて、前へ進んで、コンビニへと向かっているというのに、その先にあるものが自分の利益や幸福ではなく、個人的なお金の大量喪失(納税)であるという事実は、コンビニへと赴くぼくの心を果てしない不幸へと陥れる。どうしてわざわざ不幸や喪失へと、自ら進んでいかなければならないのだろうか。
喪失の道は、精神をズタズタに引き裂かれる思いがする。本能的にも、直感的にも、不幸や喪失へと自ら進んで飛び込んでいくはずがない。ぼくをコンビニへと向かわせているのは、ただひとつ納税すべきという理性のみである。しかし、こんなにも本能や直感に逆らいながら、さながら川水に逆流して泳ぐ魚になってしまったように感じる、険しく冷たく遠い道のりをぼくは知らない。
しかし自分の運命の中では、住民税を支払うためにコンビニへと向かうことが、実際には自分にとって最も幸福な道を選び取っているということができるだろう。国民である以上、住民税を支払うことは免れない。逃げたが最後、滞納金まで奪い去られ、財産の差し押さえにまで発展するらしい。国家権力の強制的な命令から逃げ出すことは、自分をさらに不幸な道へと陥れることになるのだ。それよりもおとなしくコンビニで70000円を支払ったほうがいい。
この個体としては果てしなく虚しい70000円の支払いを、自分の運命の中では最も幸福な道だと思い込まされるところに、またそのような定めに自分自身が収められているという事実の中に、権力が生命の直感を麻痺させるという恐ろしさを感じざるを得ない。
・人生は「死」という喪失への道
人間は本能的に幸福へと歩いていく、不幸や喪失へと向かうことは少ないという思考から、ぼくは「死」というものを想起した。ぼくたち人間は誰もが幸福へと向かって歩いていきたいはずなのに、そして不幸や喪失から遠く離れて暮らしたいはずなのに、ぼくたちの先にあるものはただひとつ「死」のみである。
「死」を幸福ととらえる生命は少ないだろう。それはむしろ大概の人において不幸ととらえられているのではないだろうか。もしくは生命の喪失ととらえる人も大半だろう。ぼくたちは本能的・直感的に不幸を退け、幸福へと邁進していきたいはずなのに、不確かな生きていく道の先にある唯一の確かなものは「死」であるという事実を発見した時、人は何を思うのだろうか。これではまるで、前を向いて人生を生きていくということは、住民税を納税するためにコンビニへと向かう果てしなく虚しい暗い道と、同様ということになってしまうではないか。
ぼくたちの生命は、やがてくる「死」という瞬間から逃れることはできない運命にある。それにもかかわらず、それに絶望して生きられなくなるほど、生きたいという本能は弱くない。ぼくたちの人生の生きる道は、「死」という不幸や喪失に向かって突き進んでいく道なのだと、わかってしまったところで幸福へと向かうはずの生きることをやめられず、やがて自分自身を納得させる答えを見つけ出すしかない。「死」を不幸や喪失という観念から解放してやるのだ。
・谷山浩子「悲しみの時計少女」〜人生は増えていくもの〜
また谷山浩子の「悲しみの時計少女」という物語には、時間や人生についての示唆に富んだ物語であふれている。この「悲しみの時計少女」の中では、主人公の浩子や時計少女が「時計屋敷」を探し求めて、色々な場所を冒険し、様々な種類の時計たちに巡り会う。この物語の中には、浩子と時計少女の間で砂時計に関する次のような議論がある。
時計少女「その時計は不良品ですわ!減っていく砂時計なんて不良品もいいところです。きっと製作者が、生きることは減っていくことだと思っていたために、そんな過ちを犯したのでしょう。」
浩子『どこがどう間違いだっていうの?』
時計少女「砂時計は減っていくものじゃなくて、増えていくものですわ。」
浩子『片っ方が減って、もう片っ方が増えるから砂時計なんじゃないの?』
時計少女「いいえ、片っ方が増えて、もう片っ方も増えるのです。上で増えるのは空間、下で増えるのは砂。」
浩子『それなら上で砂が減って、下で空間が減るっていう言い方だってできるでしょう?』
時計少女「そう、それがここにあるこの砂時計です。明らかに不良品です。製作者に教えてやらなければいけませんわ。生きることは減っていくことじゃなくて、増えていくことです。増えて増えて、いっぱいに溜まったところで人生が終わるのです。」
このやり取りの中には、人生を獲得という観点からとらえる者と、喪失としてとらえる者との意見が、対照的に表されているように見える。人生を生きることが、増えて増えていっぱいになることを言うのか、老いて減って消滅していくことを言うのかは、とらえ方によって全く異なってくるようだ。時計少女は屁理屈のようだが、上で空間が増え、下で砂が増えるので砂時計は”増えていくもの”だと断言している。そして人生とは喪失への道ではなく、”増えていくもの”だと言い切っている。そして人生を喪失ととらえることを大きな間違いであるとしている。
谷山浩子は人生は喪失ではなく増えていくことだということを、砂時計に絡めて表現したが、ぼくたちが人生をどのようにして喪失や不幸の闇から救い出し、獲得の光へと導いていくかはぼくたちの思考の自由である。怠ることなく、自らの方法で、生きるという道に光を当てなければならない。