わたしと日本に目を背ける。
インドネシアは反日であるというのは本当か? 〜松任谷由実「スラバヤ通りの妹へ」に出てくる痩せた年寄り〜
・ぼくのインドネシア横断の冒険
・インドネシアは反日であるというのは本当か?
・インドネシア人は誰もが日本人に親切で優しかった
・反日ということが旅によってわかるのだろうか
・ぼくのインドネシア横断の冒険
ぼくはインドネシア横断の冒険をした。バリ島からフェリーに乗って、ジャワ島の東の果ての街バニュワンギへと向かい、そこから長距離鉄道に乗って、スラバヤ、ジョグジャカルタ、ジャカルタを旅したのだ。
・インドネシアは反日であるというのは本当か?
ぼくはインドネシアってなんだか日本が嫌いなんじゃないかという曖昧なイメージを持っていた。それもこれもひとつの歌のせいである。松任谷由実さんの「スラバヤ通りの妹へ」という曲はまさに名曲だ。インドネシアを旅している女性が、現地の女の子と仲良くなり、少しの現地の歌と英語だけで心を通わせる微笑ましい光景が目に浮かぶ。と同時に、当時のインドネシアの風景がまるで水彩画を描くように脳内で映し出される歌詞が不思議で幻想的だ。この絵のような歌詞が、大学で日本画を勉強していたユーミンらしい歌詞の特徴ではないだろうか。
「スラバヤ通りの妹へ」でインドネシアを描いた歌詞として次のようなものがある。
”痩せた年寄りは責めるように
わたしと日本に目を背ける”
ただの東南アジアの美しい風景を描いているだけだった歌詞に、突如人の心の闇や国家同士の軋轢、戦争の歴史の傷や、政治的な思いが急に含まれてハッとして、ドキッとする。この歌詞のコントラストの強さも、彼女の歌詞作りの妙なのだろう。この歌詞を聞いて、日本人は何を感じるだろうか。教育の思想がこの国に流布されている通りに、日本は戦争で犯した罪を重く受け止め、反省すべきだと感じだろうか。それとも日本人が西洋人によるアジアの残酷な植民地支配を解放し独立を助けたのだから、なぜ責められるのだろうと疑問に思うべきだろうか。
・インドネシア人は誰もが日本人に親切で優しかった
どのように受け止めようともそのような歌詞をぼくは知っていた。インドネシアという情報の少ない未知なる国において、「スラバヤ通りの妹へ」の曲はインドネシアを知るための数少ない手がかりだったのだ。そしてその歌詞にそのようなことが書かれている以上、インドネシア人というのは日本人に敵意を持っているのかもしれないと感じてしまうのは自然な心の流れである。
それゆえにインドネシア横断の冒険を決めたときには、楽しめるのかどうかいささか不安だった。けれどそんな心配は全くの不要だった。ぼくはインドネシアで反日の”は”の字すらも経験せずに、忘れられない素晴らしい旅の思い出をインドネシアで作ることができた。ヒンドゥーもイスラムも混ざり合ったインドネシアの文化が大好きだし、民度が高いと感じられたインドネシアの人々のことも大好きになった。
「スラバヤ通りの妹へ」の歌詞のように”痩せた年寄りは責めるように わたしと日本に目を背ける”ようなこともなかった。考えてみれば、そもそもこの歌詞自体がとても怪しい。痩せたインドネシアの年寄りがたまたま何も思わずにただ目をそらしたところを目撃して、主人公の女の中の日本で教育された戦争に対する反省の心が湧き出てきて、その気持ちがこのような主観的な歌詞を作っただけではないだろうか。この主人公の女の主観や思い込みが、歌詞という言葉の力を持つことによって、インドネシア人は反日なのかと他の日本人に思い込ませるパワーを持っているとしたら、歌というものは恐ろしいものである。
・反日ということが旅によってわかるのだろうか
けれどそもそも”反日”ということが、旅により判明するのかどうかは疑問だ。インターネットでは韓国と中国が反日国家だと言われるが、ぼくはその両方の国を旅したがどちらでも嫌な思いをしたことがない。世界を旅していると韓国人の友達や中国人の友達がたくさんできるが、ほとんどの人が日本の文化に興味を持ち日本のことをたくさん知っている若者で溢れている。あちらがたくさん日本のことを知っているのに、こちらが韓国や中国のことを彼らが日本を知っている以上には知らないので、なんだか申し訳なくなることもあるくらいだ。
もしかしたら韓国語とか中国語で日本人の悪口を言われているのかもしれないし、ぼくはそれを聞き取る能力がないので知りようもないが、本当に心の底から反日で日本を嫌っているとしたならば、あんなにも日本のことに興味を持ち日本の文化や日本語を知っているということがあり得るのだろうか。
もしかして実際には大してありもしない”反日”や”反韓”や”反中”という言葉がインターネット上だけで氾濫し、それにより増幅された嫌悪感が画面上から津波のように押し寄せて、お互いの憎悪の気持ちを引き起こしているだけではないだろうか。そのような無駄に増幅された嫌悪の気持ちを都合よく利用して、金を儲けて利益を得ているような下品で卑劣な人間がいるのではないだろうか。もしもお互いに実際、肉体と肉体で出会ってみたならば、画面上の悪意ではなく、人間と人間、民衆と民衆として出会えたならば、あらゆる誤解や憎悪は浄化されるのではないだろうか。旅をしているとそんな風に確信してしまう。