英語が話せるなんてかっこいい!!!!?
バイリンガールちかさんが大炎上!英語を話せることが日本人にとってかっこいいというのは本当か?
・英語ほどありがたく便利な言語はない
・ぼくはバイリンガールちかさんの英語の動画をよく見ている
・バイリンガールちかさんの動画炎上の経緯
・釈明動画で英語をほとんど使わなかったちかさん
・英語に憧れる日本人/英語を見下す日本人
・「英語を流暢に話すことは恥ずかしいこと」
・日本人が西洋に憧れているというのは本当か? 〜日本人の正体〜
目次
・英語ほどありがたく便利な言語はない
世界一周の旅をするにおいて、英語ほどありがたく役立つ言語はない。世界中の人々と意思疎通ができ、どのような国においても通じやすい英語という言語はまるで魔法のように便利な言葉だ。もしかしたら中学、高校で最も将来役に立つ教科は「英語」ではないだろうか。おおまかに言えば日本語を話せても世界の中で日本人としか会話できないが、英語を話せれば世界中の英語圏の人々もしくは英語を勉強してきた世界中の人々と会話して意思疎通ができるという事実だけでも、英語が自分の世界をいかに広げてくれるかがわかってくるだろう。
しかし単一民族国家である日本は英語を話す必要性が特にないので、英語が苦手な人が多いようだ。ぼくも英語のリスニングが苦手で、めちゃくちゃ速く話されたり変な方言的なイントネーションが混じるとよくわからなくなる。日本の英語の授業を見ていても、書くことや読むことはきちんと習得できても、訓練が為されない分リスニングは得意になりにくいのではないだろうか。
・ぼくはバイリンガールちかさんの英語の動画をよく見ている
ぼくはYoutuberのチャンネルなんて無益なものが多いのでほとんど見ていないが、そんなぼくでもチェックしているYouTubeのチャンネルがある。バイリンガールのちかさんのチャンネルがそれだ。彼女は小さい頃から長らくアメリカに住んでいたらしくネイティブ並みの英語力を持っているので、彼女のチャンネルをチェックしているとネイティブ的な速度の英語や自然な表現の英語を学びとることができるし人柄も好きだったので、いつもよく見ていた。
しかし先日久々にちかさんの動画をチェックしてみると、なんと動画が炎上していた!
・バイリンガールちかさんの動画炎上の経緯
動画の炎上の理由は、彼女は今ノマド生活的な感じでロックダウンされたマレーシアのクアラルンプールに滞在しているが、世界中でコロナで大変なこの時期にわざわざ日本への帰国を決めたことが理由だという。日本が自粛ムードの中で外に出ないようにしよう、移動しないようにしようと頑張っている中で、敢えて帰国の日程をかなり早めて赤ちゃんを連れて外国から帰ろうとしていることが非常識だと炎上してしまっているようだ。日本では大学生が卒業旅行で外国からコロナウイルスを持ち帰り、それが日本での爆発的感染の契機になっていることから、日本人たちは外国からの帰国者に敏感になっているというのも炎上の一因として挙げられるのかもしれない。
さらに否定的なコメントが多く寄せられた日本へ帰国すると発表したその動画について、さらによく説明したいというかなり重めの雰囲気の釈明動画もアップロードされ、その中でも「登録解除してもいい」という発言がさらなる炎上を招いているようだ。
・釈明動画で英語をほとんど使わなかったちかさん
ぼくの意見としては炎上に関してはどうでもよく、どのように解釈しても正しい部分や間違った部分があるだろうと思われるが、ぼくが興味深かかったのは、2つ目の動画でちかさんがほとんど英語を話さなかったということだ。ちかさんのチャンネルは英語のチャンネルなので当然いつも日本語も英語も両方駆使して動画が進んでいくのだが、こんなにも英語を話さないちかさんを始めて見た!いつもはどんなに最初日本語で説明してても、後半には英語で同じ内容を繰り返し説明したりして英語というで語るということを極めて重要視していた。いつも絶対に動画の冒頭で流れる”Hey guys! it’s Chika!”という英語の挨拶さえ、この動画には見られない。なぜこの2番目の釈明動画?説明動画?謝罪動画?では英語がほとんど使われていないのだろうか。
ぼくが想像するに、彼女はわざと英語を全く動画内で使わなかったのではないかと思われる。それは真剣な釈明動画、謝罪動画において英語という言語を使用することで日本人が苛立ち、不快に感じ、さらなる炎上の誘因となりかねないということを知っていたからではないだろうか。真剣で重要な動画内では、英語という言語なんて使うべきではないと感じる日本人の感覚をしっかり読み取っていたのではないだろうか。しかし日本語も英語も立派な正式な言語であるのに、重要な場面では英語を使うべきでないというこの日本人的感覚は、どこから生まれるのだろう。
・英語に憧れる日本人/英語を見下す日本人
英語という言語は既述したように非常に便利だ。日本人は英語が苦手な人が多い分、英語を話せることはかっこいいことだと憧れている。しかし英語を話すことをかっこいい、憧れると感じるのと同時に、矛盾するような全く逆の別の感情が、日本人の胸の中には隠されているのではないだろうか。それは、英語を流暢に話すことは馬鹿馬鹿しいという秘められた感情である。
日本のアニメを見ていると、必ずと言っていいほど英語を話せるような西洋かぶれのようなキャラクターが出てくる。ドラえもんでいえばスネ夫くん、クレヨンしんちゃんいえば風間くん、ちびまる子ちゃんでいえば花輪くんだ。みんなそれぞれお金持ちであり、親の社会的地位が高そうであり、教育熱心だからこそ幼い頃から英語教育を受けている様子が見受けられる。
彼らはその熱心な教育の成果として時々日常の中で英語を話すが、それによって彼らの友達のキャラクターがすごいと賞賛していたり羨ましがっていたり憧れているような感じは確認されない(かろうじて花輪くんは賞賛される場合もちょっとある)。むしろ英語を話すことで、浮いている奴、いけ好かない奴、キザな奴、イヤミな奴、空気の読めない馬鹿馬鹿しい奴として描かれていることが多い。さらにもっと昔のアニメでは、日本人のくせに英語を流暢に話すことで嘲笑され馬鹿にされるという、異国文化に対する未知なるおそれから来る見下しのような傾向も見て取れる。子供の頃に、流暢な英語のような発音で日本語を話し(ワタシ〜〜ワカリマセ〜〜ンなどのように)、笑いを取ろうとするふざけた友達がいなかっただろうか。
・「英語を流暢に話すことは恥ずかしいこと」
「英語を流暢に話すことはかっこいい」ではなく、この「西洋人の真似ごとなんかして英語を流暢に話すことはなんだか馬鹿馬鹿しくて恥ずかしい」という密かな日本人の辺境的感性が、どれだけ日本の中学生や高校生など多感な時期の学生の英語習得のチャンスを妨げているのかわからない。ぼくの学校のクラスでも英語のrepeat after meのような発音練習の際に、大きな声で英語の発音を堂々と練習している人なんかいなかった。
みんな西洋人の英語発音の後にそれを真似して、西洋人のように英語を発音するのがなんとなく恥ずかしいのだ。周囲もそれを恥ずかしがっているから、なぜだか自分まで恥ずかしくなってくる。自分は日本人のくせに西洋人の真似をして英語を話すなんて恥ずかしい、誰も敢えて口には出さないけれど潜在的にそう思っている日本人はどれほど多いことだろうか。そしてその密かな感情が日本人の英語能力の上達を妨げてしまうように感じる。
ぼくはといえば英語は外国人に通じなきゃ意味ないじゃないか、だから西洋人の真似事をした方がいいに決まっているじゃないかという合理的な理由のもと、英語の発音を真似することになんの抵抗も恥ずかしさも感じていなかったが、周囲の友達が恥ずかしがって英語の発音練習を小さな声でしかやらないので、自分の声も自然と小さくなってしまったような思い出がある。
・日本人が西洋に憧れているというのは本当か? 〜日本人の正体〜
バイリンガールちかさんの釈明動画、謝罪動画に英語が極端に少なかったのも、日本人は真剣で重要な場面で英語を使うと不快に感じる可能性がある、それは日本人が誰も口には出さないが、異国的なものや西洋的なものを密かに見下しているという、ある意味インターナショナルではない辺境的な性質を持ち合わせているからだということを、彼女が敏感に感じとっていたからではないだろうか。もしもあの釈明動画で英語を交えながら彼女が話したならば、重要な場面なのに英語なんて使って真剣な様子が全く感じられない、失望したという否定的なコメントを寄せる日本人がおそらく出現しただろう。
日本は今や西洋的な文化や物質にあふれ、その多くは西洋的なものに憧れを抱くように誘導されている。そして自分でものを考えることのできない、洗脳されやすい人々はたやすく惑わされ、日本よりも西洋の方が素晴らしいんだ、アジアよりも西洋の方が進んでいるんだという概念を植え付けられているケースも多い。しかしそれだけでは日本人を完全に理解することはできないだろう。日本人の中には、大きな権力によって表層に植え付けられた西洋への憧れの態度のもっと深い奥底の部分で、密かに異国的、西洋的なものに対する未知なるおそれから来る”見下し”が密かに住み着いている場合も多い。
そのような態度はインターナショナルではなく、島国的・辺境的な精神構造からきているものかもしれないが、何も国際的なことだけがいつも正しいわけでもないだろう。極端な例を今の世情でいうと、新型コロナウイルスが外国から流入しにくいのは、外国からの流入が多いインターナショナルでグローバルで国際的な国家や地域ではなく、国際的ではない非常に閉鎖的な国家や地域である。インターナショナルなものが常に素晴らしいとは限らないということを、人間が流動しやすく過剰に群れていることの儚い脆さを、コロナウイルスは人間に教えてくれているのではないだろうか。