人の役に立たないと生きる価値がないというのは本当か? 〜人が働く理由〜

 

ぼくたちは大抵、人生の中で労働しなければならないようにできている。

人の役に立たないと生きる価値がないというのは本当か? 〜人が働く理由〜

・大抵の人間の人生パターン
・人間の最も美しい時間は他人に費やされる
・人間は自らのために生きるのではないのか
・世のため人のためという聞こえのよさ
・自らの時間を捧げるためには過程が重要だ
・聖書における労働
・人間の最も美しい時間は月30万で足り得るか
・藝術家
・自らの感性の発散
・自作詩「芸術」

・大抵の人間の人生パターン

ぼくの考えたところによると「労働」というのは大抵の場合、他人の役に立つことをすることを指す。他人の役に立つことをして、他人がしてほしいと思うことをして、自分の労力と時間を労働に捧げ、そしてお金を稼ぐというのが大抵の人間の人生のパターンようである。

人間というものは、人生の大抵の時間を労働に費やすようだ。よりよい労働に就くための準備や知識の蓄えとして、学生時代に勉強に励むと考えるならば、学生時代も労働に含まれると言えるかもしれない。そうすると、人間は60歳くらいまで(あるいはもっと)、労働メインで生きるということになる。

ぼくにはこれが不思議でたまらなかった。大人の人々を見ても誰もがそのように生きているし、あまり深く考え込まなければ、人間とはそういうもんなんだと自分をごまかせるのだろうが、ぼくには無駄に思考するクセがあり、どうしてもこれが理解できなかった。

 

 

・人間の最も美しい時間は他人に費やされる

労働する年齢は、その準備期間である学生時代も含めれば大抵6歳〜60歳くらいであるから、人間の最も若くて体も丈夫でなんでもできる素晴らしい時期であると言えよう。人生のメインの時期であると言っても過言ではないのではないだろうか。そのような極めて大切な時期の大半を労働=他人のために過ごすことに費やさなければならないのだ。

しかし費やさなければ生きていけない。なぜならお金が稼げないからだ。お金を稼げないと、衣食住=着ること、食べること、住むことという人間の基本的な生活を支えるものを、維持し続けることができなくなるかもしれない。

そのようなおそれをかき消すように、誰もが労働に人生の時間を費やしていく。人生の最も健やかで美しい時代の大半を、自分のためではなく他人のために生きなければならないようにできているシステムというのは、あまりに不思議であり興味深い。

 

・人間は自らのために生きるのではないのか

ぼくの直感的な感覚としては、人間は自分の人生を生きるために生まれてきたのだ。自分の心の声にできるだけ純粋に耳を澄ませて、自らの直感に従って生き、そして自分の生まれてきた意味を知りつつ、自分の人生を生きたことに幸福を感じながら死んでいくというのが、ぼくの描いていたなんとなくの人生のイメージ図だった。

しかし人間の浮世では、まったく異なることが起きているようだ。みんな親からもらった尊い生きる時間を、自分の人生を生きるために費やすわけではなく、他人のために生きること=労働に、人生の大半の時間を捧げるというのだ。ちなみに親が生まれたての我が子に「社会の役に立つ人間に育ってくれれば」などと願うシーンが物語の中などでもよく散見されるが、親というものもまさにそのようにして、我が子が自分のために人生の時間を使うというよりはむしろ、他人のために我が子の大切な人生が費やされることを願っているような発言をしている。

これもぼくにとってはかなりの違和感だ。このように願う親が多いということは、大切な自分の生きる時間を自分のために費やすことが悪で、他人や社会や世のため人のために自分の人生の時間を費やすことが正義だという構図にも見受けられる。これにはもう違和感の最高潮である。

 

・世のため人のためという聞こえのよさ

「他人のために自分の人生を費やす」という言葉を聞くと、たしかに素晴らしい人格を持った素晴らしい人生のように聞こえる。本当に自らの思考や人生経験から考え抜いて考え抜いて、そのような境地に達したのならば、まごうことなくそれは素晴らしい人の生き方だろう。しかしそのように自分の思考で考えてこのような労働の人生を選んでいるという人間が、果たしてどれくらいいるというのだろうか。

これは社会のシステムなのだ。現代の社会のシステムが「他人のために自分の人生を費やす」という労働を強制させるように巧みに仕向けられているに過ぎない。そうして世の衆生は仕方なく労働せざるを得なくなって、自分の最も輝かしく美しい人生の時間を、自分のためではなく知らない他人のために費やし、そうしてお金を生み出し経済が発展していくための部品として利用されてしまうように感じる。

このシステムが資本主義と名付けられているのかどうかは、不勉強なぼくには確かにはわかりかねるが、なんとなくそんな気がする。ぼくたちは知らず知らずのうちに、生まれた時から、思想や主義の波の中に巻き込まれて選択の余地すらないらしい。まるで人生とはくじ引きのようだ。生まれた国や時代によって、思想や主義も変わり、人生も大きく変貌することだろう。しかしどのような人生であっても、仏教的観点からいえば人生は苦しみに満ちているということに変わりはないと言える。

 

・自らの時間を捧げるためには過程が重要だ

ぼくももちろん他人の役に立つことは好きだ。他人に与えることにより、なにひとつ返されなくても、まるで多くを与えられたように幸福な気持ちで満たされることは人間の心の本質である。

しかし、だからといって他人に自らの人生のすべての時間を費やそうと思うためには、それなりの過程が必要であると思われる。それは、自らの生まれてきた意味を知り、自らの直感によって鋭く生き抜き、自らのために生きたと言えるような深く孤独な時間である。その過程を経ずにして、他人に与えてばかりの道を歩くというのはなにかしらの虚像を伴うような気がしてならない。

 

・聖書における労働

このように労働に関する疑問は、昔むかしから人々の間にもあったようで、聖書の中にもなぜ労働しなければならないかという疑問に対する回答がある。

聖書が作られた日々の中でも、当時の人々がぼくと同じようになぜ労働せざるを得ないのかということで悩んでいたという事実は、まさに時代を超えて心と心がつながったような気分がして感動する。しかし人間はまったく進歩せず同じことで悩んでいるということもでき複雑な心境である。

さて、肝心の回答であるが、人間が労働しなければいけないのは「アダムとイブが禁断の木の実を食べたから」であるらしい。なんじゃそりゃな答えである。

とりあえずぼくたちすべての人間の先祖のアダムとイブが、木の実を食べたことが労働の始まりらしい。それまでは労働のない楽園だったのだ。ぼくが思いに、すなわち人間は労働に対する確かで論理的な答えを未だに持ち合わせていないようだ。これは人類のとって永遠に続く普遍のテーマなのかもしれない。

 

・人間の最も美しい時間は30万で足り得るか

さて、これまでは労働=他人の役に立つことを前提として書いてきた。大抵の労働はこれに当てはまるので問題ないだろう。パン屋さんも、郵便局の人も、駅員も、お医者さんも、スーパーのおばちゃんも、みんな同様に他人の役に立つ内容でせっせと働いていると言えよう。それでは、自分のために自分の時間を費やせる労働というものは存在しないものだろうか。

すべての労働は行き着く先には給料が待っているのだから、すべての労働は自分のためであると言えるような気もするが、これに関してはぼくは騙されている気がしてならない。自分のために働いていると思い込まされていて、結局は極めて大きな比率で他人、社会、国や経済の部品となるように仕向けられているのではないだろうか。

考えてみれば。取り返しのつかない、決して戻らない若々しく健康ななんでもできる人生の時間の大半を奪われておいて、月30万でもかなり安いのではないだろうか。繰り返すが、決して戻らない若々しい時間である。老人になってから惜しく思っても、そんなのはっきり言って後の祭りであるところの尊い時間。

ぼくは真実は、月1億もらってもとても足りない気がするのだがどうだろうか。いくら取り返しのつかない人生の若々しい時間でも、それだけの価値はないだろうか。ぼくはあると思うのだが。それを月30万くらいで労働させられているのだから、ものすごく悪質な騙しに遭っているような気がするのである。かなりの主観だが。

 

・藝術家

ぼくが考えたところでぼくが導き出した、自分のために自分の時間を費やせる唯一の職業は藝術家である。

藝術家は自らの感性や直感の赴くままむき出しに生き、それは本来自分のためなのだが、他人が知らず知らずのうちにそれを需要してくれるようになれば、自分のために生きることがいつしか他人のためにつながり、それでお金を得られるような気がする。

ぼくの乏しい発想力ではこれしか思いつかなかったが、他にももしあればご教授願いたい。もしかしたら暴力団とかヤクザの人も他人の役に立たずにお金を得ているのかもしれないなあと思ったが、暴力団やヤクザの知り合いもいないしそこで働いたこともないので、具体的なことは分からず想像もできず終いであった。

 

 

・自らの感性の発散

自らのために自らの感性にしたがい、直感に正直に生き、それをほとばしらせて必死に生きていたら、それが知らない間に他人のためになっていて生活を成り立たせることができたというのは、なんて素敵なことだろう。自分の感性を信仰するということを極めたその先に、海のように広がる他人の幸福へと慈しみの水を流し込めばいいのだ。

そんなわけでぼくがそのように、自らの感性だけで生きられるのかを試行するために立ち上げたのがこのブログである。いつかはここに広告を貼り付けて、自らの感性が生活を支えてくれるのかを知りたいのだ。広告が貼り付けられた際には、やや商業的な香りが発生していまうかもしれないが、ぼくが本来やりたいのは感性の発散であり、それ以上でもそれ以下でもないことをご理解いただければ幸いである。

 

 

・自作詩「芸術」

 

辿り着けない場所
叶わない恋
満たされることのない心
返らぬ答え
対極の岸辺
変えられぬ運命
それゆえに
変わり続けるという宿命

それらはぼくに芸術という言葉を与え
それが人生に彩りを加えるというよりはむしろ
それは生きるということ自体なのだと
誰に教えられることもなく、ぼくは決めた

 

 

 

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