栄光の本質を徹底考察!「過去の栄光」にすがりつき生きることがみっともないことだというのは本当か?

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過去の栄光は、あなたのかけがえのない光源だ。

栄光の本質を徹底考察!「過去の栄光」にすがりつき生きることがみっともないことだというのは本当か?

・「過去の栄光」という言葉に潜む悪意
・過去の栄光によって相対的に強調される今の没落
・努力して何かを成し遂げた者こそが嫉妬と悪意を向けられる虚しき世界
・過去の栄光にすがりつき生きていくことがみっともないことだというのは本当か?
・栄光の本質と栄光の光源
・否定の雨に溺れ、生きていてもいいのかと問いかける者たちへ

・「過去の栄光」という言葉に潜む悪意

「それはあなたの過去の栄光だ」と言われた場合、それはほぼ100%いい意味で使われることはない。普通にその文章の意味を何の婉曲もなくただ純粋にとらえるならば、あなたという人が過去に他人から褒められるような素晴らしい行いをしたということを示すだけの文章だろう。

しかし人の心や情が複雑に絡まる言葉というものはそう簡単には成立しない。「それはあなたの過去の栄光だ」という文章は、あなたが過去に素晴らしい行いをしたことを示すだけではなく、それに比べて今のあなたは大したことがなく、今のあなたは過去のあなたに比べて惨めだということを暗に指摘しているのだ。

 

 

・過去の栄光によって相対的に強調される今の没落

「過去の栄光」という日本語は、決していい意味で使われることがない。それは「過去の栄光」という言葉を発したと同時に、過去と比較した「今の没落」がほのめかされ、過去に素晴らしい行いをしたにもかかわらずそのことを褒められるわけではなくて、その素晴らしい行いに見合わない「現在の状態」を非難したり、嘲ったり、見下したりするための、かなり性格の悪い言葉であると言えるだろう。

「過去の栄光」とは率直に言えば人を傷つけるための刃物のような言葉であり、そんな言葉を用いている人の人格も信頼できるかどうかはかなり怪しいと思われる。

 

・努力して何かを成し遂げた者こそが嫉妬と悪意を向けられる虚しき世界

「あの人は過去の栄光にすがりついている」という意見を日常生活ではよく目にする。過去に何か大きなことを成し遂げた人が、今はその過去ほどは活躍できていないことから、その人の過去と今を相対的に比較して、今を生きるその人を見下すための物言いだ。過去にあまりに大成功した人に使われやすく、過去に栄光のある人は嫉妬も受けやすいことから、余計に「過去の栄光」などと言って陰口を言われる確率は上がるに違いない。

「過去の栄光」という悪口は、何かを成し遂げた人に対してのみ使われる蔑みの言葉だ。何も成し遂げていない人にはそもそも過去に栄光も称賛もないわけだから、そもそも「過去の栄光」なんて悪口を言われる筋合いがない。「過去の栄光」という悪口は、何かを成し遂げた人や成功した人向け専用なのだ。

しかし努力して何かを成し遂げたり成功した人専用の悪口があるなんて、かなり奇妙なことではないだろか。ぐうたらと生きてきたり運がなかったから何も成し遂げていなかったり、成功していなかったりする人に対して悪口や蔑みの言葉を使うならば、まだ理解できる。もちろん悪口を言うことなんてよくはないが、どちらかというと何かを成し遂げたことのある人よりも何も成し遂げなかった人の方が悪口を言われやすいというのは、人の世では至極自然な成り行きと言えるだろう。過去であろうが今であろうが、何かを成し遂げた人と何も成し遂げなかった人を並べると、何かを成し遂げた人の方が偉いと感じるのはとても自然な感情ではないか。

それなのに何かを成し遂げた人専用の悪口がこの世の存在しているだなんて、なんだかいたたまれない思いがする。頑張って努力して何かを成し遂げた人に対する悪意の言葉が平然とまかり通るなんて、よくない世の中の傾向ではないだろうか。何かを成し遂げるということは世の中で目立ちやすく、それゆえに嫉妬も生じさせやすい。何も成し遂げないということは、その言葉通り何も成し遂げていないのだから目立つはずもなく、悪口も言われにくい。頑張って努力して成功したり何かを成し遂げた方がたくさん悪口を言われやすいだなんて、かなり虚しい世の中である。

 

・過去の栄光にすがりつき生きていくことがみっともないことだというのは本当か?

「あの人は過去の栄光にすがりついていてみっともない」という悪口は、何も成し遂げなかった人から何かを成し遂げた人に対して放たれる嫉妬深い言葉だ。何かを成し遂げ「栄光」というものの本質を知っている人からは、このような見当違いな発言は出てこないだろう。栄光の本質とは、一体どのようなものだろうか。

 

 

・栄光の本質と栄光の光源

そもそも今という時間は、過去を内包しながら成り立っている。今の自分がいるのは、過去の自分を捨て去ったからではなく、過去の自分をも全て内包し、過去の自分をしっかりと土台として今の自分はここに成立しているのだ。「過去の栄光」を持っているような人で、たとえ今は過去ほど栄光を浴びている状態にはなかったとしても、今の中には過去が絶えず宿っているのだから、過去に栄光を認めた時点で、今という時代にも栄光は常に内包され、今を生きるその人に過去から栄光の光は絶え間なく降り注いでいる。

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これこそが何かを成し遂げることの意味と価値だ。栄光は、全く色褪せないのだ。よその人間は嫉妬心から色々と悪意を解き放ってくるだろう。「過去にしか栄光はない」「それにひきかえ今はただの失敗者なのだ」「過去の栄光にすがりつくだけのみっともない人生だ」と、その人を蔑むための努力を惜しまないだろう。しかし栄光を掴んだ者は知っている。栄光にすがりつく必要もなく、過去の栄光の光は、自然とその生命全体にいつまでも降り注ぐのだと。

今という時間は、過去をはらんでいる。過去に栄光があるということは、どんな「今」にさえ栄光が存在しているということだ。栄光はいつでも、どこでも光源となる。栄光は時間も、空間も超越して君臨する。栄光はすがりつくまでもなく、自らの生命に果てしなく追従してくる存在なのだ。かつて栄光を掴んだ者が、過去の栄光にすがりつくなんてことはありえない。なぜならその栄光は既にその人自身となり、その人を包み込んでいるからだ。包み込む慈悲と肯定の光に、敢えてすがりつく者がいようか。

 

 

・否定の雨に溺れ、生きていてもいいのかと問いかける者たちへ

栄光の光源は、認められるという感覚、愛されるという感覚、生きることをゆるされるという感覚へとつながり、やがては生命を守る不動の自己愛へと姿を変える。自分はこの世で生きてはいけない存在なのだと思い込み、魂はさまよい、濁世において否定の雨に降り注がれる運命にあったから、栄光はもたらされたのかもしれない。栄光の光源は常にこの生命に、肯定の清水を注ぎ続ける。生きていてもいいのだろうかと魂が問いかける人生では、導かれるようにして栄光の光源を手にせよ。

 

 

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