暴力により世界を支配できるのは本当か? 〜非暴力の彼方へ〜

 

暴力で相手を押さえ付けた人間が、正しくなり支配できる世界だ。

暴力により世界を支配できるのは本当か? 〜非暴力の彼方へ〜

・宮古島の病院での指導医からの暴力
・暴力と武力があれば正しくなれる
・ジャイアンとのび太くん
・暴力が世界を支配する 〜非暴力の彼方へ〜

・宮古島の病院での指導医からの暴力

指導医からの暴言と暴力!病院は研修医が受けたパワハラにきちんと対応してくれるというのは本当か?

ぼくは宮古島の県立病院でひとりの指導医(上級医)から暴言・暴力を受けたという事実を記事にした。ぼくはそのように言ったことはなかったが、客観的に見てもこれはいわゆる「パワハラ」と呼ばれる行為であるらしい。そしていかなる理由があろうとも、人間が人間に対して行われる暴言や暴力は許されないという考えは人道的に一般であるとされる。しかしこのような倫理観が、人間の間にきちんと機能しているというのは本当だろうか。

指導医の彼はぼくに暴力をふるい、暴言を吐いたが、ぼくはもちろんそれに対して暴力や暴言で応戦したことはなかった。それが野蛮で非人間的な行為であることを知っていたからだ。しかし、それを見ていた看護師も同期の研修医も、ぼくを助けてくれることはなかった。

ぼくを助けることは必然的に上の者(指導医)に逆らったとみなされ、それは儒教的に言って社会的不都合を生じさせるものであり、自分がそのような被害を被ってまで暴力に遭っている者を助けようという思いが生じなかったに違いない。いくら暴力をふりかざそうとしている者たちが悪いことを知っていても、権力者には逆らえないというこの東アジア国家の本質が垣間見えた面白い瞬間である。

相手が暴力をふるい、こちらが暴力を決して行使しない限り、肉体的に傷つき痛みを受けるのは、ただ暴力を受ける者ばかりである。そして暴力や武力で勝利した者が、正義の者となり被暴力者を裁くことができるという構造は、まるで日本がつい最近に経験した第二次世界大戦の構造に似ていることに気づいた。

 

徹底的な儒教のヒエラルキー!年上を敬うべきであるというのは本当か?

 

・暴力と武力があれば正しくなれる

日本という国は、暴力や武力を行使する戦争という次元において敗北を喫した。それゆえに”敗者”の日本は、東京裁判においてアメリカを筆頭とする”勝者”の国々に裁かれた。それはまるで罪を背負った者が、正義によって裁かれるような構図にように見えるが、これは果たして真実だろうか。

暴力や武力を使うことに長けており、原子爆弾を使用して大量の人々を無差別に抹殺した人々の国が”正義”であり、暴力や武力が苦手で敗北した国が”悪”で”間違った者”であるというのは本当なのだろうか。それが戦争である限り、どちらの国も大いに人を傷つけ、大いに盗み、大いに殺戮を繰り返したのではないだろうか。それならばどちらもが罪人であり、どちらもが裁きを受けるべき罪の国である。

それなのに世界というものは、不思議な形で人々をふたつに分断する。正しかったものと間違ったものである。そのどちらもが人としての罪を犯しているのに、どちらもが間違った人々であるのに、武力や暴力が強い方が正しさの鎧を装着し、身を守り、武力や暴力の苦手だった方が残酷で間違ったのだというレッテルを貼られ、ことごとく裁かれるという構図は非常に興味深いものがある。

 

本当は暴力や武力が苦手であることの方が、まだ救いがあるのではないか。その苦手の中には、まだ非暴力的な人間らしい心が残存していたのではあるまいか。それに比べて暴力や武力を迷うことなく行使できる精神を持ち、原子爆弾を用いて無差別に大量殺戮を犯した人々の方が、実は罪深いものではないだろうか。

しかしそのような思考回路は決して通用しない。人間の世界では、暴力的で武力に長けている者が”正しき者”になれるのだ。そして暴力が苦手だった国を好き勝手に思い通り裁くことができる。罪の所存などいかようにもこじつけられるのだ。暴力的な者が勝者となり、裁きの権力を持っている限り、人間の世界では暴力的な者が圧倒的な支配力を保っている。まるでこれは野生動物の世界のようだ。人間の世界は、お猿さんの世界とさほど変わらないのではあるまいか。

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・ジャイアンとのび太くん

例えばジャイアンがいつものようにのび太くんを暴力でいじめたとする。のび太くんは暴力が苦手なので何も手出ししない。当然のび太くんだけが傷つき、敗北となる。ジャイアンは勝者となり、敗者ののび太に対して何かを命令する権利を持ち、のび太くんをあれやこれやとこき使う。

誰が見てもかわいそうなのはのび太くんだし、悪いのはジャイアンだが、実際にはジャイアンが正しいものとなり、のび太くんを好き勝手に支配できる。このような不条理は子供の世界だから起きうるのだろうと錯覚してしまうが、これは成熟した大人の世界の戦争の構図と、何か違うところがあるのだろうか。

野生動物の世界でもまさにこのようなことが起こっている。力の強大なものが勝利し、権力を持ち、裁く権利を与えられ、地位の頂点に君臨する。これが野生生物だとそうかそうかと納得するのに、人間の世界に当てはめるとなんだか違和感を感じてしまうのはなぜだろうか。

 

 

・暴力が世界を支配する 〜非暴力の彼方へ〜

ぼくの病院で受けた暴力に関しても、この構図が適応されている気がしてならない。

暴力が得意な指導医が、暴力をしない下の研修医を、暴言や暴力でねじ伏せようとした。もちろん暴力を行使しない下の研修医は、抵抗せずただ暴力を受け入れ、ただ傷つき、ただ痛めつけられた。暴力をふるうことによって正しくなれ、権力を蓄えられる動物と同様の人間社会。本来は平野のように平等な人間たちの中で、暴力によって、そして儒教の力によって権力を蓄えた嵐のように暴力的な人格は、非暴力を貫いた静寂の者に対し、制裁を加えた。

暴力や武力によって勝利した者は権力を得、いかようにも受け取れる歴史を都合のよいように書き換えそれを真実だと宣伝する。それは国でも人でも変わりはない。彼はいかようにも受け取れる出来事を、自分の思い通りに書き換えていた。まるで武力を思い通りにふりかざした残酷な戦勝国のように。

徹底的な儒教のヒエラルキー!年上を敬うべきであるというのは本当か?

非暴力を貫くということは、支配されるということを意味するのだろうか。暴れ回る獣のように暴力をふりかざせばふりかざすほど、人間を思い通りに裁き支配できる世の中。それは小さな宮古病院を見ても、先の世界大戦を見ても、変わらない人間の本質である。

それならば、もはや非暴力などただ無意味な思想だろうか。人を傷つけないことよりも、人を傷つけるということに意味や価値があるのだろうか。人道的に、倫理的に見れば裁かれるのは暴力的なものたちであるにも関わらず、実際に人間社会で裁かれるのは暴力の苦手な、非暴力的な傷ついた人々ばかりである。それならばいっそ、あの悪魔の取り憑いた獣たちにように、暴力的な人格に変化してしまう方が合理的で得だろうか。

あらゆる国は暴力的になろうと、より大きな暴力をふりかざそうと、より残酷な武力を装備しようと企んでいる。誰もがそう企んでいるから、それは罪でなくすなわち世界の通常である。そのようにして暴力は広がり、殺戮は広がり、罪は広がっていく。本当は罪なんてこの世にないのだろうか。罪など無視して、暴力で打ち勝ち、裁くものになり、支配できるものになり、正しいように見えるものになることが幸福だろうか。

ぼくたちは非暴力を手放すべきだろうか。あの世に行けばこの世での罪を裁かれるというのも嘘であるならば。なにが正しいか、なにが間違っているのか、考えれば考えるほどに糸は絡まる。最後には、ぼくたちはただ心をなくし、自らの感性の指し示すままに、旅立ちを決めるしかない。正しいことなんてない。間違っていることなんてない。それでもなお、ぼくはぼくの感性を信仰して旅立っていく。

 

 

 

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