本当かもしれない!
関西人は標準語を嫌いと思っているというのは本当か?
・面白い芸人、笑えない芸人
・関西弁の芸人は面白く、標準語の芸人は怖い
・関西弁と標準語とツッコミの関係性
・関西人は標準語を気持ち悪いと思っているというのは本当か?
・面白い芸人、笑えない芸人
ぼくはテレビを見ないのでタレントに全然詳しくないが、めちゃめちゃ有名な人なら一応わかる。昔から面白いと言われる芸能人を見てきて、ぼくの中ですごく笑える人と笑えない人がいた。この人は面白い、この人は笑えない、あんまり面白くないと、かなり明確に線引きできていたように感じられる。
明石家さんまは面白い、ビートたけしは笑えない、ダウンタウンは面白い、爆笑問題は笑えない、ナインティナインは面白い、ロンドンブーツは笑えないなど、この人は面白いか面白くないか、自分の中ではっきりと好き嫌いが別れていたのだ。率直に言えばこの面白いというのは好き、笑えないというのは嫌いという意味だ。
しかしこれが何を根拠に分類されているのか、自分でもわからないままだった。みんな有名で成功しており、ツッコミも鋭く、笑いのレベルにものすごい違いがあるはずもないのに、どうしてこうも面白いと感じる芸人と、全然面白くないと感じる芸人に大別されてしまうのだろうか。
・関西弁の芸人は面白く、標準語の芸人は怖い
しばらく人生を生きている間に、この違いが何によって生じているのか不意にわかった。関西弁で喋っている人は面白い、標準語っぽく喋っている人は笑えないのだろうと気づいてしまったのだ!
これが判明した時にぼくは、自分が関西人としてこんなにも関西弁が好きで、関西弁に魅力を感じていたのかと驚いた。そして標準語というものをこんなにも嫌だと感じている自分自身に気づいて驚きを隠せなかった。でもこの自己分析は間違いないだろうと思われた。他にも笑えない芸人を挙げてみると、有吉とか、くりぃむしちゅーの上田とか、標準語っぽく喋る人ばっかりだったのだ。
ぼくは別に関西人として関西弁にそれほど誇りや好意を抱いたことなどないと思いながら生きてきた。関西出身だけど、人生で10年間は沖縄で暮らしていたし、沖縄で暮らしている間はほとんど関西弁ではなく沖縄なまりのような感じで、周囲に合わせて生活していたように感じる。相手が沖縄弁を喋ると、こちらも自然と沖縄弁になってしまうのだ。関西出身で沖縄に住んでいるぼくの友達にも、ほとんど沖縄弁に染まらずに関西弁を貫いている人がいて、そんな人に比べたら自分は関西弁に執着していない種類の人間だと勝手に思い込んでいた。
また標準語だって「標準語」と言われるくらいだから、頻繁にテレビから流れてくる馴染みのある言語であり、自分がそれを嫌だと思っているなんて夢にも思っていなかった。標準語を喋る友達についても、特に違和感を覚えたことなどない。
・関西弁と標準語とツッコミの関係性
芸人というのはその性質上、ツッコミをする人が存在する。ツッコミというのは叩いたり、喚いたり、攻撃したり、とにかくキツいような、怖いような印象がある。そんなツッコミのキツさとか怖さを和らげてくれる作用を持つのが、まさに関西弁ではないだろうか。
ツッコミを入れるにしても関西弁だとほんわかするし、落ち着く。キツいことを言っているはずなのに、関西弁だと愛嬌があるから、全然キツいような印象を受けずに、安心して笑って見ていられる。有名な関西弁で「アホか」というツッコミがよく使われるが、アホというのもそのまま辞書通りに「バカ」という冷たい意味ではなく、もっと相手への思いやりとか、愛着とか、あなたを嫌いではないという親愛の意味も込められた「バカ」という意味であり、決して「バカ」のように単純で冷酷な言葉ではないと感じられる。アホと直接言われて怒る関西人は、おそらくいないのではないだろうか。怒っているフリをしていても、心では笑っているのではないだろうか。
それに比べて標準語でツッコミを入れている芸人を見ると、ぼくは恐怖というか嫌な圧力を感じてしまう。ロンドンブーツとか、上田とか、爆笑問題とか、芸人なのだからツッコミを入れることでその芸を成り立たせているが、彼らのツッコミはあたたかな面白さが心に発生するどころか、何か不快なエナジーを感じてしまう。
ツッコミと標準語という言語は、根本的に合わないのではないだろうか。ツッコミという攻撃的で激しい行為は、柔らかく弾力があり、抜けがあり、愛嬌のある言語でやらないと、本来のあたたかな笑いを発生させようという目的を達成できないのではないだろうか。標準語のような冷静で、シンプルで、柔軟性に乏しく、切れ味の鋭い言語によってツッコミを解き放つと、相手の心を刺激して笑わせるどころか逆に切れすぎて心が痛いのではないだろうか。
・関西人は標準語を気持ち悪いと思っているというのは本当か?
ぼくはこの”関西弁の芸人は笑えるが、標準語の芸人は笑えないどころかツッコミが怖い”という論理を関西人の友達に展開すると、最初は意味がわからないというような風に聞いていたが、ちゃんと時間をかけて説明すると納得し出し「自分もそうかもしれない」と同意された。自分では気づいていないだけで関西人にはこのように感じている人が案外多いのかもしれない。
それならば関東人の人はこの論理をわかってもらえるのだろうか。それとも全く理解されないのだろうか。関東人は当然標準語に親しみを覚えているはずなので、ぼくとは逆に”標準語の芸人は笑えるが、関西弁の芸人はガラが悪くて不快”と感じているのだろうか。それとも日本人が言語に持つイメージは共通しており、関西弁の方が愛嬌がある、標準語は冷たい感じと、関西人と同じような言語的解釈をするのだろうか。気になるところである。
関西人は標準語を毛嫌いする傾向があるという。ぼくも自分ではそんなつもり全然なかったが、標準語のツッコミが怖くて不快というのはこれに当てはまるのだろうか。また標準語を喋っている人とはそれだけで友達になれないような気がすると発言する関西人の友達も何人か知っている。関西人の心と標準語というのは、相入れないものなのかもしれない。
ぼくの中の関西弁というのは、ほんわかしている気体のようなイメージだ。変幻自在であり、ゆとりがあり、だからこそナイフのように突き刺すこともできるが、その刃先は丸く、結局は人をかばっている。標準語というのはもっと現実的で、きちんとした形があり、整然と規則的で、金属的なイメージだ。関西人の性質と関東人の性質の違いが、関西弁と関東弁の違いとして現れているのだろうか。それとも逆に関西弁が関西人の心を、関東弁は関東人の心を支配し、それぞれの言語的性質がその民族の性質として植え付けられるのだろうか。言語の性質と人の心の風景というものはどのように関係し合うのか、興味深い議題だ。