誰でも優先座席に座ってもいい理由を解説!健康な若者が優先座席に座ってはいけないというのは本当か?

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健康な若者でも優先座席に座っていいに決まっている!!!!!

誰でも優先座席に座ってもいい理由を解説!健康な若者が優先座席に座ってはいけないというのは本当か?

・東京では混んでいても優先座席に人が座らない
・健康な若者が優先座席に座ってはいけないというのは本当か?
・誰もが優先座席に堂々と座ってもいい理由
・他人に譲りすぎて自分を大切にできない人間は、やがて他人を攻撃し始める
・仕事で疲弊した若者は優先されるべきではないのか?

・東京では混んでいても優先座席に人が座らない

ぼくは今どこの病院にも組織にも属さないフリーランスの医師として、全国各地でコロナワクチンのスポットバイトのみで生計を立てている。コロナワクチンバイトの案件が多いのはやはり都心部なので、自然と住んでいる関西から東京へ出向く頻度が高くなった。東京の電車に乗っていて不思議に思うのは、席が空いていても優先座席に座らない人が多いということだ。もちろん座る人もいることにはいるが、どんなに電車内が混んでいても敢えて誰も優先座席に座らないようにみんなが遠慮している風景は、あまり関西では見かけないものだと感じた。

もしかして若くて健康な人は優先座席に座ってはいけないと、東京では教育されているのだろうか。それとも関東では若くて健康な人や事情のない人が優先座席に座るということは恥ずかしいこと、許され難いこと、見下されるべきことだという観念が根付いているのだろうか。ぼくはせっかく優先座席がたくさん空いているのに誰もそこに座ろうとせずに我慢して立っているという風景に違和感を感じずにはいられなかった。

 

 

・健康な若者が優先座席に座ってはいけないというのは本当か?

優先座席は、何も普通の若くて健康な人が座ってはいけない席だと定義付けられているわけではない。優先座席とはお年寄りや体の不自由な人や病気にかかっている人や妊婦など、何か事情のある人がいる場合には”優先”して座ってもいい座席というだけの意味であって、何もそうではない普通に健康な人が座ってはならない席というわけではないのだ。そのような特別な事情がありそうな人が周囲にいない場合には、誰だって、もちろん健康な若者だって本来なら堂々と座っていいはずの座席なのではないだろうか。

確かに心臓にペースメーカーをつけている人とか、妊娠初期でお腹が出ていない妊婦とか、ものすごく若作したお年寄りとか、一見しただけでは優先すべきかどうか判断するのが難しい種類の人々もいるかもしれないが、そのような滅多にないレアケースまで厳密に考慮して座席に座ることを無理に我慢する必要などないのではないだろうか。みんな同じ電車賃を払ってサービスを受けているのだから、本来なら座席に座る権利を平等に持っている。そして電車の中は誰だって疲れているし、誰だって座りたいのだ。可能性の低い状況までいちいち思い浮かべて苦しい思いをするくらいならむしろ、座って自分自身を労ってやり、明らかに優先されるべきだとわかるような人が来たならば席を変わるくらいの気軽な気持ちで電車に乗った方がいいのではないだろうか。

 

・誰もが優先座席に堂々と座ってもいい理由

関西では混んでいる電車の中で優先座席が空いているという風景など見たことがなく、どんな人であろうとみんな堂々と優先座席に座り、優先されるべき人がもし来た場合には立ち上がるという本来のシステムに則っている。確かに東京のように本当に優先されるべき人が来た場合のことを考えて優先座席に座らず我慢して立つ選択をすることは、他人に思いやりを持つという観点から言えば道徳的でいいことなのかもしれない。しかしぼくの意見では、優先されるべき人が周囲に誰もいないのにわざわざ座らない選択肢を取ることが素晴らしい立派な行いだとは到底思えない。なぜならそれは他人を思いやりすぎて、他人に譲りすぎて、自分自身を大切にすることを忘れているように見えるからだ。

確かに思いやる対象としての優先されるべき人が周囲にいたならば、その人に優先座席を譲ることは人間としての基本的なマナーだ。しかし優先されるべき人がどこにもいないのに、誰に対してかわからないままで何の考えもなく思いやったり譲っている状態は無意味ではないだろうか。それだったらいっそ堂々と座って疲れている自分の肉体をいたわってやる方が健全ではないだろうか。

自分を大切にすることは、他人を大切にすることと同じくらい重要だ。よく世間で言われているように他人を大切にすることの方が自分を大切にすることよりも重要であるということは決してない。自分を大切にすることは他人を大切にするための土台であり、自分をきちんと大切にすることで初めて本当の意味で他人を大切にすることができるのだ。従って常日頃から自分を大切にすることを忘れないことが肝心だ。大切にすべき優先すべき他人がどこにもいないにもかかわらず、自分が犠牲になって無意味に苦しんでいるのでは自分を大切にしようとする能力に欠けている。優先すべき他人がいない場合には、自分を優先し、自分を大切にしてやりながら生きていくべきだ。

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そういう意味では関西人は、自分を大切にすべきところではきちんと自分を大切にしているし、当然優先すべき人間が現れたなら他人を優先して席を譲るので、自分も他人も両立して大切にできているバランスのいい生き方を選択できているのではないだろうか。

 

 

・他人に譲りすぎて自分を大切にできない人間は、やがて他人を攻撃し始める

しかしながら優先座席に座るのも、優先されるべき人がいないのに立ったままでいるのも個人の自由なので、率直に言えば勝手にすればいいと思っているのだが、重要なのは優先座席に座らないような種類の人間は、自分が勝手に優先座席に座らないという選択を個人的にしただけなのに、その自分の一選択が基準となってしまい、優先座席に座っている健康な人々を憎んだり恨んだり憤ったりする可能性が否定できないことだ。

無意味に他人に譲りすぎるという危険性は、まさにそこにある。「私が我慢して優先座席に座らずにつらい思いをして立っているのに、どうしてこの健康そうな人たちは優先座席に座っているのかしら、意味がわからない!」と心の中で怒っている人の姿が、なんとなく想像できないだろうか。他人に譲りすぎるということは、自分を大切にできずに苦しめるということ、そしてそのストレスがやがて自らの心を荒ませ、本来ならば攻撃する必要もない人々に向けて攻撃を無意味に開始し、やがては世の中によくない影響を与えるだろう。世の中では自分を犠牲にして他人を大切にできる人は素晴らしい人格者だと評価される傾向にあるが、このように無意味に他人を大切にしすぎて自分を大切にすることを怠ると、やがては矛盾するように、逆に他人に攻撃的な性格が出来上がるだろう。

 

 

・仕事で疲弊した若者は優先されるべきではないのか?

しかし優先座席で優先されるべき人々というのは、どうやって決められているのだろうか、優先座席に優先的に座れる人は、お年寄りとか病気の人とか妊婦とかと相場が決まっているが、果たしてそれ以外の人々は優先されるべきではないというのは本当だろうか。

ぼくが思うのは、たとえば健康な若者でも、労働してクタクタに疲れ切った状態で電車に乗って来たならば、そこらへんのお年寄りよりも優先されるべきなのではないかということだ。健康な若者というだけで優先されるべきではないと差別されるのは、あまりのもかわいそうだし不憫ではないだろうか。電車の中で最も体力や気力を使い、最も疲弊し、最もストレスを抱え、最もたくさんの税金も年金も納めて国家を支えているのは彼らであるのに、彼らが電車の中で最も優先されるべきではない人間として分類されているのは納得がいかない。家で毎日ダラダラのんびりと過ごしちょっと買い物でも行こうかと気軽に出かけてきたお年寄りと、日頃会社で必死に労働し人間関係にくたびれながらもやっとの思いで仕事を終わらせ疲れ果てた帰り道の健康な若者とでは、電車の席を後者に優先して譲るべきだと感じるのはぼくだけだろうか。まぁそのお年寄りの健康状態にもよるだろうが。

優先されるべき人間と優先すべき人間を無理に分類することで、人の世に分断が生じるくらいなら、優先座席というものは必要だろうか。優先座席がなくても、どこの席であっても、誰もが優しく優先されるべき人々に席を譲ることのできる思いやりにあふれた社会が理想的なのかもしれない。

結局思考停止して年齢という数字によって、優先されるべき者と優先すべき者を分け隔てるのが単純でわかりやすいし一番いいと見なされているのだろう。しかしその統一された安直さが社会にさまざまな歪みを引き起こしている可能性は否定できない。

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