思いやりを持って寄り添えば見返りとして感謝され愛されるというのは本当か? 〜「物盗られ妄想」の悪夢〜

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人はその人のことを思いやれば思いやるほど、近くに寄り添ってあげたくなる。

思いやりを持って寄り添えば見返りとして感謝され愛されるというのは本当か? 〜「物盗られ妄想」の悪夢〜

・思いやりを持って寄り添えば見返りとして感謝され愛されるというのは本当か?
・認知症の初期症状「物盗られ妄想」
・最も思いやる人を泥棒に仕立てる「物盗られ妄想」の悪夢
・中島みゆき「樹高千丈 落葉帰根」
・毛虫のような人の心
・中島みゆき「アイス・フィッシュ」

・思いやりを持って寄り添えば見返りとして感謝され愛されるというのは本当か?

人はその人のことを思いやれば思いやるほど、近くに寄り添ってあげたくなる。大切な人が苦しんでいるときや大変な目に遭っているときには、無理してでもなるべく近くへと駆け寄って助けてあげようと努力する。それでは慈悲の心を持って近くで寄り添えば寄り添うほどに、思いやれば思いやるほどにその人は思いやってくれている人に感謝して、愛されているのと同じくらい見返りにその人を愛するだろうか。

 

 

・認知症の初期症状「物取られ妄想」

ぼくのおばあちゃんは「物盗られ妄想」に悩まされている。「物盗られ妄想」とは認知症の初期症状のひとつで、誰かに自分の財布や預金通帳などの大事なものが盗まれたと思い込んでしまうことだ。ぼくのおばあちゃんは誰かに預金通帳を盗まれてしまうと不安を抱き、家のどこかに預金通帳を隠したまま認知症でどこに隠したか思い出せなくなり、危うく全財産がどこに行ったのかわからなくなるところだった。1ヶ月ほど家族で家の中をさがし回って見つからなかったが、結局は自力で見つけ出し預金通帳は無事に彼女の元へと戻ってきた。

しかしこんなことが今後起こってしまっては大変だからと、彼女の娘が通帳をすべて預かることになった。おばあちゃんの手持ちのお金がなくなれば一緒に銀行に行ってお金を下ろすという、娘からしたら非常に手間のかかるシステムとなったが、全財産がまたなくなってしまうことを思えばこうする他なかったのだろう。娘が自身の母親のことを思いやり、善意と義務感でやったことである。本来ならばおばあちゃんから感謝されるべきところである。

 

・最も思いやる人を泥棒に仕立てる「物盗られ妄想」の悪夢

しかし預金通帳を娘に預けてからというものおばあちゃんはさらに「物盗られ妄想」を発動させ、預金通帳を預かっている娘が勝手に自分のお金を引き出したのだと騒ぐようになった。しかも銀行員が「娘さんが勝手にお金を下ろしにきましたよ」と丁寧に電話で彼女に教えたから確かな情報だというから開いた口が塞がらない。銀行員がそんな個人情報を気軽に電話で教えてくれるはずはなく、これは明らかに彼女の妄想である。

しかし「妄想」というのはどんなに論理的に説得したとしても、無根拠に固く信じ込んで修正されないから「妄想」と呼ばれる。それは病気の症状だから仕方のないことだ。結局そんなことはあり得ないとどんなに言葉で説明しても無駄なので、通帳の明細を実際に彼女にすべて見せ、誰も1円も勝手に引き出してないということを証明するのだが、その時は納得したとしても次の日にはまた勝手に口座から娘がお金を下ろしたと無根拠に言い始めるから埒が明かなかった。

気の毒なのは彼女の娘である。彼女は自分の母親が財産を喪失しては大変だからと、めんどくさいながらも預金通帳を預かる役目を引き受け、財産を守る者として本来ならばおばあちゃんから感謝されたり賞賛されるべき存在である。それなのに彼女がそのめんどくさい役目と母親への思いやりの見返りに受けたものは、なんとそれとは全く逆の、お金を勝手に引き出す泥棒という不名誉な烙印だったのだ!こんなに不条理なことがこの世にあるだろうか!

しかし「物盗られ妄想」の中では、最も身近で介護している思いやりのある人が泥棒だと無根拠に決めつけられることが最も多いので、この症例は「物盗られ妄想」からすれば典型的な発症の仕方であると言えるだろう。このようにして最もその人のことを気遣い最もそばにいる人々が疑われたり傷つけられたりし、大してその人のことを思いやってもおらず興味もないから会いにも来ない疎遠な人々の方がかえって愛しがられたりするのだ。

 

 

・中島みゆき「樹高千丈 落葉帰根」

”私はひとりが嫌いです
それより戦が嫌いです
それゆえ違う土地へゆき
懐かしがろうと思います”

 

・毛虫のような人の心

人間というものは近づけば近づくほどに、自我の枝がぶつかり合い傷つけ合うものなのかもしれない。だからこそ思いやって寄り添えば寄り添うほどに、憎まれてけなされて蔑ろにされる不条理な運命にあるのだろうか。

人の心というものは毛虫に似ているのかもしれない。自分の中身を守るために、毒のトゲを四方八方に張り巡らしている。だからこそ悪意を持って自分を襲おうとして近づいてくる者たちを撃退して自分の命を守ることができるが、逆に思いやりや慈悲の心を持って近づいてきた者たちでさえも傷つけてボロボロにしてしまう。自分を憎む者だけでなく愛する人まで攻撃してしまう、それだけの価値があるものがトゲの中身に存在しているのだろうか。憎む者も愛する者も同じ敵だと開き直って打ち倒していくことが生きるということだろうか。人間とはそのように愚かにしか生きられないものだろうか。

自分こそが正しいのだと言いたくてデタラメなことを言っては嘘を重ねていく。自分が間違ってはいないのだと、自分を否定してくる人々を攻撃しては心は孤独へと陥ってゆく。 老いるとは賢くなっていくことではなく、どうしようもなく病みゆく中で次第に虚しくなっていくことだろうか。

 

 

・中島みゆき「アイス・フィッシュ」

我を守り 我をかばい
鎧うほどのものが中にあるのか”

 

 

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