世の中はいつも変わっているから頑固者だけが悲しい思いをする。
世の中はいつも変わっているというのは本当か?
・世の中は常に移り変わっている
・頑固な現金主義の日本
・ふたつの人類
・儒教が日本に傾きをかける
・変わらないことで守れたもの
・世の中は常に移り変わっている
中島みゆきの歌「世情」の中にはこんな歌詞がある。
世の中はいつも変わっているから
頑固者だけが悲しい思いをする
変わらないものを何かにたとえて
その度崩れちゃそいつのせいにするシュプレヒコールの波 通り過ぎていく
変わらないものを流れに求めて
時の流れを止めて変わらない夢を
見たがるものたちと戦うため
日本の鎌倉時代の古典「平家物語」はこのような文章から始まる。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
また同じく鎌倉時代の古典「方丈記」には次のような文章がある。
行く川の流れは絶えずして、また本の水にあらず
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結び久しくとどまりたるためしなし
世の中にある人と住みかと、またかくのごとし
世の中は常に移り変わっているという無常感を、古来よりこの国の人々は感じていたらしい。それはおそらく仏教的な観念の影響もあり、されどまわりを見渡せば、世の中は変化にあふれている。
街の景色も1秒ごとに変わり、もはや昔を思い出せない。古いものを残すことに執着できるほどに穏やかで平穏な土地ではなく、常に天災や震災に飲み込まれ、その度に人々の住処は姿を変える。古いものは常に洗い流され、新しい世界へと生まれ変わる。それを繰り返しながら、この国の魂は循環を図っている。
心の風景さえも常に移り変わって、昔は中国という文明に憧れていたのに、今は白人国家に憧れている。今度は何に憧れるのだろうか。世界に新しい強力な力が生まれきたならば、またそれに憧れ続けるのだろう。そろそろ憧れ続けることをやめて、自分自身を鏡で見つめる時期ではあるまいか。
・頑固な現金主義の日本
ロシアシベリア鉄道〜ヨーロッパ周遊100日間の旅から日本に帰ってきて、驚いたことはクレジットカードが全く使えないことだ。クレジットカードどころか、その他のキャッシュレスさえ使える場所が極端に少ない。100日間旅してきたどの国よりもキャッシュレスを使うことができず、改めて日本の現金主義の頑固さを思い知らされた。
ロシアシベリア鉄道〜ヨーロッパ周遊100日間から帰ってきたのは東京の街だった。さすがに東京ではクレジットカードがどこでも使えるだろうと思っていた。その際大学時代の友達と渋谷でお茶をしようということになる。渋谷駅に極めて近い、どこにでもありそうな若者ばかりのカフェに入った。チェーン店のようにも見え、ぼくは当然のようにクレジットカードを支払いで差し出すと帰ってきた答えはこうだった。
「申し訳ありませんが、現金のみになります」
なんということだろう!渋谷のど真ん中のチェーン店のようなカフェでもクレジットカードが使えないなんて、もやはどうにもこうにもなっていない、日本は全然キャッシュレスなんか進んでないじゃないかと思わずにはいられない。最近財務省に務める友人と話していて、日本もキャッシュレスを進めるのが急務だという話をしていたが、まだまだ全然進んでないよほんとにやばいよと念を押しておいた。
東京の後は北海道の道東に流氷を見に出かけたが、当然のようにここもでキャッシュレスなんか進んでいるはずもないという感じだった。しかし、東京の渋谷でさえ進んでいないのだから仕方はない。「申し訳ありませんが、現金のみになります。」日本ではこの言葉を何十回と言われ心が折れそうになった。どうしてこんなに現金主義でキャッシュレスが進まないのだろうか。
・ふたつの人類
キャッシュレスに限らず、日本では新しいものにとても敏感で慎重になり、変化し難い性質があるのではないか。新しいものをなるべく怪しみ、新しいものを笑い、嘲り、馬鹿にして、短所ばかりを並べて、新しいものの失敗を心から望んで、今のままがいい、変わらないほうがいいという精神が流れているように感じた。今では誰もが持っているiPhoneでも、最初はそのように完全に拒否されている風潮があった。しかしそのような新しさを嘲る時代を通り過ぎて、徐々に流行が生まれ出すと、軽やかに掌を返して今や誰もがiPhoneを持っている時代となっている。
人の世が移り変わるというときはもちろん、世界中どこでも簡単にたやすく移り変わりはしない。いつの時代でも、どこの国でも、変わりたくないと守る者の集団があって、変えてしまえと叫ぶ者の集団があって、そのふたつが拮抗し合い、相剋し合い、ぶつかり合いながらちょっとずつちょっとずつ、移り変わっていくのが人の世の通常である。
過去を懐かしむ者、過去を愛している者、このままでいい者、このままで保ちたい者たちが、世界よ変わるな、変わるなと、変わりそうになる世界の中で不動を願い耐え忍ぶ。今の時代を嫌いな者、腐った世の中を変えたい者、過去の権力を破壊したい者、過去を捨てて明日の世界に希望を託す者たちが、変化する世界を加速しろ、加速しろと促しながら革命を夢見ている。
ふたつに分けられたベクトルたちが互いに違う方角を向き合いながら、全く変わらないわけではない世界、ものすごく変わるわけではない世界を憎んでは、思い通りにならないと誰もが不満を抱いて生きている。少しは変わって、少しは変わらないで、世界はそこにいるのに。
・儒教が日本に傾きをかける
年老いた者たちは世界が変わらないでほしいと願っている。自分たちの受けた苦しみを、若い人々も受けないのは不公平だと、自分たちが受けた苦しみを、同じように下の世代の受けてほしいと妬んでいる。
若く未熟な者たちは世界の変革を望んでいる。押し付けられた過去からの常識の津波を、くらわないようにすり抜けるように、年老いた思想たちを押しのけて、自分たちで新品の時代を作りたがる。
本来はそのようにして、ふたつの夢が重なり合って、適度に時代は移り変わるはずなのに、この国ではなかなか変化しない、移り変わらない。もとのままがいいのだと、変わらないものたちが多すぎる。変わらないことを望む夢たちを、儒教の洗脳が強く支えている。
階級のないこの世に階級を作って、異なりのない人間たちの間に上下を設けて、若い人々は年老いた人々に自らの考えを主張できない。自らの考えを述べただけで反逆だとみなされてしまう。小賢しい若者たちは、この世を安全にうまく渡ろうと企んで、ただ静かに自らを主張せず、死んだように世の中を渡ってゆく。
この国では何ものも変わり難い。それを年老いた者たちは喜んでいる。若く未熟な者たちは諦めている。うまく生きられないくらいなら従うべきだと、儒の流れを遡上する人々は極めて少ない。
・変わらないことで守れたもの
しかしロシアシベリア鉄道〜ヨーロッパ周遊100日間の旅をしながらぼくは思ったのだ。変わり難いからいいこともあるのではないかと。新しいものに疑いもせずに飛びつくことをしないから、幸せなこともあったのではないかと。
例えば日本のキリスト教禁止などはそうだ。日本人は西洋から運ばれてきたキリスト教という新興宗教を、新しい流行りのものだと安易に受け入れることなく、それどころかやがて禁止にされてしまった。これは日本人が変わり難い性質を持っていてよかった例ではないだろうか。
なぜなら、他のアジアの国のようにキリスト教の思想を簡単に受け入れてしまっていたならば、そこから情報を西洋に流され、植民地しやすい条件を与えてしまったのではないか。その証拠に、キリスト教を安易に受け入れてしまったアジアの国は、その国の情報をたやすく抜き取られ、ことごとく植民地にされている。日本は新しいキリスト教というものを拒み、排除したのは賢明だった点も多いのではないか。
力によって西洋により支配されたアジアの国々は、ただその国の資源や労働力を搾取され、自信もなくし弱り切っていた。日本人が疑い深く、新しいものなど自分が納得しなければ受け入れられない性質も、たまには役立つこともあっただろう。