できるなら誰もが楽をしたいけれど…。
楽をしてはいけないというのは本当か? 〜自分のためにきちんと楽をして人生を生きよう〜
・「ぼくたちは一生懸命努力すべきだ」
・ぼくたちはできるなら楽をしたい
・自然のエネルギーの法則
・楽をしてはいけないというのは社会的強迫観念
・あらゆるものに一生懸命になるという無駄
・楽をすることは悪ではない
目次
・「ぼくたちは一生懸命努力すべきだ」
ぼくたちは、一生懸命努力することは大切なことだと幼い頃から教えられる。勉強を頑張ること、スポーツを頑張ること、習い事を頑張ることは偉いことだと賞賛され、楽をしたり怠けたりサボったりすることは、人間としてあるまじき行為だと怒られたり非難されたりする。しかしこのように子供達を必死に躾けるということは、裏を返せば、人間は何も言われないと楽な方に自然と流れ下ってしまうという性質を、大人たちも自分の人生や性質から熟知しているからに他ならないのではないだろうか。
ぼくたちは楽をすることやサボることをいつも否定されてきたが、本当に常時一生懸命に頑張るということが人間にとって正しいことなのだろうか。
・ぼくたちはできるなら楽をしたい
ぼくたちは、できるなら生きる上で楽をしたい。それは誰もが心に密かに抱いている気持ちであり、誰もそれを否定することはできない。もしもそれが自分のする必要のない仕事ならば普通はしたくないし、興味のないことならば義務だろうとできるなら手放してしまいたいし、誰でもできることならば代わりに誰かやってくれるなら誰かやってほしいと思っている。
しかし、怠けるのはいけないことだから、楽をするのはよくないことだからと思い込み、したくもないする必要もないものたちを請け負い、そのうちに次第に生きることに息苦しさを覚えていく。そしてしたくもないことを常にしている自分と違って、したくないことをしていない人々を知らない間に潜在的に恨み始める。
・自然のエネルギーの法則
けれどよく考えてみれば、人間が楽な方へ流れ下ることなんてとても自然なことではないだろうか。
大自然を見やれば、水は高いところから低いところへと流れくだる。これは誰でも経験的に知っている自然の摂理であるし、敢えて物理学的に言えば、高い位置にあるものの方が位置エネルギーが高いので、水は高いところから低いところへと流れ下り、水が失った位置エネルギーの分は速度エネルギーへと変換されて速さとなり、水はとめどなく高速に流れ速度を持ったひとつの水の道ができあがる。その水が速さを持つという現象のことを、実態がなく常に移り変わっているにもかかわらず、人間は「川」と名付ける。
同様に空気さえ、重たい場所(高気圧)から軽い場所(低気圧)へと流れ下り、それが終わらない空気の流れを常に生み出している。空気が速度を持つという現象を、人は「風」と名付ける。
エネルギーが高いところから低いところへと流れ下るということは自然の摂理であり、誰もそれを非難することはできない。大自然において誰に咎められることもなく、水も空気も自然と行なっている流れ下りの現象を人間だけが非難されるというのは、なんとも数来で悲劇的な運命だろうか。人間だって力を抜いて運命に身を任せれば、エネルギーの高いところ(大変な物事)から低いところ(楽な物事)へと流れ下るのは自然現象ではないだろうか。
・楽をしてはいけないというのは社会的強迫観念
それなのに自然に反して、ぼくたちが楽な方へと流れ下ることができないのは、ひとえに社会的要素が原因ではないだろうか。すなわち、人間社会の中において自分は見張られ、他人にどう思われているか気になって仕方がないのではないだろうか。他人に迷惑をかけるのが怖くて仕方ないからではないだろうか。
自分が勝手に楽な方に流れ下れば、その分誰かの負担が増える。もちろん自分が担っている役割を遂行するのは大前提だが、自分がする必要のない物事、余裕なんてないのに自分が担う必要のないものに関してまで一生懸命になり、エネルギーを無理に注ぎ込み、自分自身の生命を枯渇させてはいないだろうか。もしくは、自分の担うべきものと担う必要のないものを、きちんと線引きできているだろうか。
・あらゆるものに一生懸命になるという無駄
何にでも一生懸命になる人がいる。それは結構なことだし、幼い頃に「一生懸命に努力することは素晴らしいことだ」と教えられてきたので、ぼくたちは彼らが立派だと思い込むだろう。しかし、本当にそんなになんでもかんでも頑張るべきなのだろうか。見境なく一生懸命にエネルギーを全てに費やす生き方は、実は無駄の多い人生ではないだろうか。
誰にだって自分のやりたいことや、やるべきことがある。それをきちんと見定められているならば、とても全てになんて一生懸命になっている暇はないはずだ。自分の生命の根源に耳を澄ませ、自らの魂が何を望んでいるのかを理解しているならば、それに向かっていくためにはどのような道筋が適切かを見極め、この世界に無限にあふれる選択肢の中から直感的に必要なものだけを選び取って生きていく他はない。
勉強に関してもそうではないだろうか。もし大学受験に合格したければ、国語数学理科社会英語と必要な教科のうち、自分が既に得意な教科に関してはそれなりに手抜きをして楽をし、自分の不得意な教科に焦点を当てて集中して勉強の時間とエネルギーを注ぎ込むことで、大学受験に合格するためのバランスのよい学力を育てることができるだろう。それと同じように楽をする項目と一生懸命に努力する項目をうまく見極めることが、人生においても重要となってくるのではないだろうか。直感的に要領よく生きられるかどうかが、人生においては求められるかもしれない。
・楽をすることは悪ではない
楽をすることは悪ではない。それは実にすべての自然の摂理の中で起こる現象であり、楽ができるところは無駄にエネルギーを費やさずに楽をし、逆に一生懸命努力すべきところは思いっきりエネルギーを注ぎ込むことにより、ぼくたちはたどり着くべき国へのふさわしい道筋を発見することが容易になるだろう。
また楽をすべきではない場合であるにもかかわらず楽をしてしまうのは、これ以上努力してしまうと心や肉体が破壊されてしまうという潜在的な自己からの危険信号なのかもしれない。楽をしたいと心が感じてしまうときは、それに従ってきちんと楽をすべきだ。たとえそれにより他人から非難されたり妬まれたとしても、彼らはぼくたちがもし破壊された場合の肉体や精神に関して何の責任を担う覚悟もつもりもないのだから。