世界名作劇場はなぜ終わったのかを徹底考察!道徳的で清く正しく美しい物語がつまらないというのは本当か?

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ぼくは子供の頃、世界名作劇場よりもクレヨンしんちゃんが好きだった!

世界名作劇場はなぜ終わったのかを徹底考察!道徳的で清く正しく美しい物語がつまらないというのは本当か?

・世界名作劇場は日本が誇る伝統的なアニメシリーズ
・なぜ世界名作劇場は日本で飽きられ、終了してしまったのか
・子供たちはあまりに教育的で模範的な世界名作劇場に息苦しさを感じていた
・教育的ではないクレヨンしんちゃんの方がはるかに正直な本当の世界を教えてくれた
・世界名作劇場が不朽の名作ということに変わりはない

・世界名作劇場は日本が誇る伝統的なアニメシリーズ

その昔、日本には世界名作劇場という素晴らしいアニメが放送されていた。世界名作劇場シリーズは1969年から1997年まで続き、その中には名作品として名高い「フランダースの犬」や「アルプスの少女ハイジ」「母をたずねて三千里」「あらいぐまラスカル」などが含まれている。世界名作劇場シリーズは主に西洋を舞台とする物語が多く、日本の子供達も見知らぬ西洋の文化や風習を知るいい機会となっていたのではないだろうか。

そんな名作を多数出した伝統ある世界名作劇場もぼくが幼かった1997年には「家なき子レミ」で終わりを迎えてしまった。どうやら視聴率がどんどん低迷していったことが原因らしい。どんなに素晴らしく心に残るものも、人々にやがては飽きられてしまうというテレビ番組の宿命なのだろうか。しかし今の時代を生きている日本の子供達には、世界名作劇場が放送されていた時代のように子供を主人公とした親しみやすい世界名作劇場で世界各地の文化を知り豊かな情緒を育てようとする文化が残されていないというのは残念な限りだ。

一体なぜ世界名作劇場という伝統ある素晴らしいアニメが人々から飽きられてしまったのだろうか。

 

 

・なぜ世界名作劇場は日本で飽きられ、終了してしまったのか

ぼくも幼い頃にかろうじて「七つの海のティコ」や「ロミオの青い空」という世界名作劇場を鑑賞していた。それらのクオリティが決して低いとは思えず、最近になって「ロミオの青い空」を見返してみたがとてもいい作品で何回も涙してしまった。世界名作劇場の物語は全体に渡って人間の生き方として模範的であり、道徳的であり、清く正しく美しい要素が満載であり、見る人は非常に模範的で綺麗な感動を抱くことができ、綺麗な涙を流すことができるのだ。

しかし思い返してみれば当時子供だったぼくにとって、世界名作劇場は確かに面白かったが、一番好きなアニメではなかった。それよりもクレヨンしんちゃんとかドラえもんとかそこらへんが最も好きだったように思う。

世界名作劇場とクレヨンしんちゃんなんて、正反対の位置にあるアニメだっただろう。親ならば誰もが、下品なクレヨンしんちゃんなんかよりも道徳的で模範的な世界名作劇場に夢中になってほしいと子供たちに願うに違いない。にも関わらず多くの子供たちは、世界名作劇場よりもクレヨンしんちゃんの方が好きだったように記憶している。なぜ当時の子供だちは清く正しく美しい世界名作劇場よりも、下品でエッチでバカバカしいクレヨンしんちゃんの方を好きになってしまったのだろうか。

 

・子供たちはあまりに教育的で模範的な世界名作劇場に息苦しさを感じていた

当時子供だったぼくが思うに、世界名作劇場はあまりに道徳的で、模範的で、完璧すぎて子供たちにとって若干息苦しかったのではないだろうか。確かに世界名作劇場の物語は清く正しく美しく、素晴らしい話を鑑賞しつつ子供ながらに感動して涙しそうになったことも覚えているが、それと同時にあまりに理想的で、押し付けがましく、なんだか嘘っぽいと子供心に感じていたことも明らかな事実である。

「ロミオと青い空」を見返していても「勇気」「団結」「友情」「優しさ」「正直」「夢」「希望」などまさに道徳的で正しく生きる標語のような言葉たちが並んでいた。世界名作劇場は人間はこんな風に生きていかなければならない、清く正しく美しく、できるだけバカバカしいことや下品なことは排除し、子供達の模範となるように理想的な教育的姿勢を崩してはならないという思いが作品全体に渡って感じ取られ、それが何とも堅苦しいと見ている子供達は感じていたに違いない。実際にぼくもその1人だったのだろう。

世界とはそんな理想的なものではなく、もっと下品で、バカバカしく、適当で、教育的なことばかりではなく、罪も汚れもあり、正しくまっすぐに生きることだけが全てではないことを、子供達はきちんと見抜いていたのだ。また「勇気」とか「友情」とか「夢」という言葉を使っていればとりあえず子供達の教育にいいだろうという単純な思考停止の態度も気にかかった。

正直に生きる者は正義であり、正直に生きない者は悪であり、正義はやがて悪に打ち勝ち、悪はやがて裁かれ罰せられるという内容は、世界名作劇場にありがちだが、この正義と悪で二項対立させるところがまさに西洋的な物語展開だ。しかし日本というアジアの風土に生きる子供たちは、そのような二項対立の概念が幼稚であまりに単純すぎる間違った概念だと心の底できちんと気づいている。

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まとめると世界名作劇場の醸し出すあまりに道徳的で教育的な嘘っぽさが、子供達に全て見抜かれていたからこそ、世界名作劇場は飽きられてしまったのではないだろうか、というのが世界名作劇場が終わってしまった当時子供だったぼくの感想だ。

 

 

・教育的ではないクレヨンしんちゃんの方がはるかに正直な本当の世界を教えてくれた

それに対してクレヨンしんちゃんは、全く常識的でも教育的でもない。しかししんのすけは、親たちがやってはいけないということを平気でやってのける無尽蔵の勢いとパワーを持っている。例えば平気で人前でゾウさん踊りをしたり、ケツだけ星人をしたりするのは日常茶飯事だ。大人たちはいつもそれでしんのすけを怒るが、クレヨンしんちゃんを見ている子供達はしんのすけこそが世界名作劇場よりも本当のことを教えてくれる正直者だということをきちんと見抜いていた。

世界名作劇場の主人公たちは清く正しく美しいので、もちろんゾウさん踊りやケツだけ星人をやったりはしない。しかし真実は、清く正しく美しく見える世界名作劇場の主人公にさえ、ゾウさんやお尻は付いているのだ。ゾウさんやお尻が必ずついているのに、そんなものはありませんというような清く正しく美しい道徳的な顔つきをして生きる世界名作劇場の人々と、きちんとゾウさんやお尻という下品なものがみんなと同じようについていますといつだってちゃんと打ち明けてくれるしんのすけと、子供達はどちらを信頼できる正直な人間だと感じるだろうか。

またしんのすけというのはほとんどの場面でおバカだが、たまにいい子になってみんなを感動させる。このギャップが素晴らしい。いつもは悪い子なのにたまにいい子になったり、いつもはいい子なのに珍しく悪い子になったり、善悪なんて常に翻る可能性を持ったものだということをクレヨンしんちゃんはきちんと教えてくれる。これこそまさにリアルな人間の姿ではないだろうか。正直な者だってたまには嘘をつくし、極悪人と呼ばれている人だってたまには素晴らしいことをするからこそ面白いのが人間の世の中だ。世界名作劇場の主人公のようにいつだって正直でまっすぐで清らかだなんて、子供達から見てもはっきり言って無理があったのだ。

 

 

・世界名作劇場が不朽の名作ということに変わりはない

このようにぼくが子供の頃に世界名作劇場に対して感じたことを思い出してこの文章を綴っていると、なんだか世界名作劇場の悪口のようになってしまったが、それでも世界名作劇場はとても素晴らしい作品だったなぁと今でも思う。昔見た感動は、今作品を見返してみても変わることなく豊かな情緒と瑞々しい感性を伴って胸に迫ってくるものがある。もしかしたら子供の頃よりも大人になってから見る方が、美しい西洋の風景を眺めながら、こんな風に清く正しく美しく生きられたらいいのにという思いから、見ていて感動する度合いが大きいのかもしれない。世界名作劇場が不朽の名作だというのは、いつまでも変わらない真実だ。

ただ単に世界名作劇場が打ち立てる「夢」とか「希望」とか「正直」という言葉たちに、日本人たちが白々しさを感じるようになってしまったというだけのことかもしれない。高度経済成長前の日本人なら、この純粋で道徳的な言葉を違和感なく受け入れられたのだろうか。しかしこのような時代の感性というのはただの流行であり、やがて移り変わり、また世界名作劇場の感性と合致する時代が巡ってくるだけのことかもしれない。

 

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